暗譜 続々 音名記憶と映像記憶

2008-01-27 | 音楽
暗譜の話に戻る。

音名を頭で云いながら弾くと非常に効果的なことは良く知られている。
また、主に速いパッセージで上手く行かない部分を音名読みしてみると、
上手く行かないところは口でも大抵上手く言えない。
おそらく様々な要因、シフティングや移弦とか、音の跳躍などで、
脳や体にストレスが掛かっているせいだ。

パリのコンセルヴァトワールのソルフェージュの授業では今はどうかわからないが、いわゆる「クレ読み」というのがあった。ハ音、ト音、ヘ音の全ての記号が混ざった楽譜に音が羅列してあって、それを一定の速さで間違いなく読む訓練だ。いったい何の為にと、多くの他の生徒と同じくその時は思っていたが、この訓練は充分すぎるくらいの重要性がある。

「クレ読み」は、はじめは皆、必ず音の高低に合わせて抑揚をつけてしまうが、それは先生から厳しく禁止され、まったく無感情に棒読みするのだ。 音楽的な感情を一切排除するのだ。 味も素っ気も無い純粋な訓練だが、これによって僕の場合読譜力が飛躍的に伸びたし、同時に音名による暗譜に大いに役立つわけだ。

門前の小僧が何とやらと言うが、同じような理屈ではないだろうか。 プロの音楽家は、少なくともクラシックに限って言えば、17世紀頃完成した現在の記譜法によって書かれた過去の膨大な量の音楽を読みこなすことがその勉強の基本である。 偉大な先人達によって書かれた優れた音を読み、聞き、理解し、弾くことの重要性は計り知れない。 それらの文献は出来るだけ早く読みこなせる方が云いに決まっている。 門前の小僧が経典を諳んじるのも、寺子屋で小さい子供が意味もわからず孔孟を諳んじたのも似たような理屈だろう。 何故かこういう強制的な詰め込み式教育は発展途上国の方が得意で、先進国になると反対の事をしたがるようだがどうしてなのだろう。 日本も昔は良く詰め込み教育とか言って批判が盛んだった。 近年パリのコンセルヴァトワールではこういった「無味乾燥な」ソルフェージュをやらなくなったと聞いたが、残念なことである。 

フランスに来た頃、掛け算の九九を言えないフランス人が多いことに驚いた覚えがある。すでに70年代後半のフランスでは学校で九九を暗記させていなかったのだ。 この前第二次世界大戦時のベルギーの話の映画で( 日本語に訳すと「オオカミと生き延びる(サバイバル)」)小学校の風景が出てきたがそこで掛け算の九九を生徒が声を出して覚えさせられていた。 少なくともこの頃のベルギーではまだやっていたのだろう。 一般的にフランスで暗算が出来るのは個人経営の小売店や、市場に店を出しているような人達だ。 彼等は非常に速いが、普通の人は例えば簡単な15×8位の計算でも電卓を使う。 二人の娘が学校に行くようになってなるほどそうだったかと再度納得させられた。 掛け算の仕組みを理解させることに教育の重点が置かれ、取り立てて覚える必要は無いのだそうだ。果たしてそうなのかな?

話が大幅にわき道にそれたが、この音名読みを徹底するのは指、耳の記憶を更に補い、暗譜を更に強固にする。 但し、この記憶法は単旋律楽器向きで、ピアノのような和声的又は対位法的楽器には向いていないことは明らかだ。 と言うか、こういった構造の音楽にはこの方法では到底音楽の進行にリアルタイムで着いてゆくのは不可能になってくる。 ここで必要になってくるのが、和声や楽曲構造などを理解する能力と言うことになる。これが多分「角鹿」さんのコメントで言われる記憶の圧縮法だと思う。 

つづく

「ワルキューレ」 その3

2008-01-09 | 音楽
「ワルキューレ」の話が、だんだん長くなってきたので今回で終わらせる。

第二幕第一場のフリッカのことを前回書いたが、ここで「ワルキューレ」では初登場となるヴォータンのことを書かなければならない。 この後も第二場でブリュンヒルデを相手に有名な長い独白の場がある。 名前はなんと読むのだろう ユハ・ウーシタロー?フィンランド人か。 こちらで見て頂きたい。 このヴォータンが正直少し物足らなかった。バス・バリトンの役だと思うが声がこの役には少し軽すぎる。 声量もいまいちで時々オケに負けていた。 ヴォータンはこの後最後までかなりな量を歌う大役でブリュンヒルデと並んで「指輪」の二大主役の一人だ。 指揮者もオケを少しセーブしても良かったのではないだろうか。

この第二場でヴォータンは自らの城、ヴァルハラ城を築く為にニーベルングたちに支払った、呪われたラインの黄金についてのいきさつをブリュンヒルデに語り、このままでは神々の世界が永遠に続くことが危ぶまれることを明かす。そうして、フリッカに強要され不本意ながら承諾した、ジークムントを罰する事をブリュンヒルデに命ずる。 この長いヴォータンのモノローグは話がとても込み入っていてなかなか難しいが音楽もそれと同じくらい難解だ。 ラインの黄金、ファフナー兄弟、アルベリヒ、ヴァルハラ等などのライトモチーフが縦横に駆使されていて言葉がリアルタイムで逐一理解できればこんなに面白い場面も無いかもしれない。      

さてブリュンヒルデは、一旦は父ヴォータンの意思に従おうとするが、土壇場でジークリンデとジークムントの愛に打たれ、ジークムントを追いつめ、仇を撃とうとするフンディンクとの戦いを傍観することに決めてしまう。 「全能の剣」を持っているジークムントは無敵なのである。 しかし、それを知ったヴォータンはノートゥンクを自らの槍で真二つに叩き折り、ジークムントはフンディンクの刃に貫かれ死にいる。

第三幕は有名な「ワルキューレの騎行」、 あの「地獄の黙示録」に使われた音楽から始まる。 ワーグナーは台本で8人のワルキューレが天馬に跨り空を縦横に飛びまわるといったようなト書きを書いている。 これを読むと、現実に舞台で上演する時どんな風にしようと思っていたのだろうかと思ってしまう。1860年代の話である。 まるでSFの世界だ。この音楽はともすると不必要に重厚壮大に演奏されがちだが、 壮大ではあるが浮遊感のある音楽ではなくてはならないと思う。 前半のかなり長い間コントラバスの低音部を故意に抜いて書いてあるのはそういう意図があるのだろうと思う。 この夜の演奏はその意味でも少しつまらなかった。 この場面を現実の舞台にいかに再現するかは多分どんな演出家も頭を悩ますのではないだろうか。 まだ、パリの学生だった頃、友達と交代で朝早くから並んでやっと手に入れた、ショルティ指揮の「ワルキューレ」を思い出した。 あの頃はこの素晴らしい音楽の予備知識も何も無かった頃で殆ど何も覚えていないが、 この場面で本物の馬を舞台の上に走らせて、賛否両論、随分話題になった。 

この夜の演出は、舞台に8頭、実物大の馬の白い彫像が置いてあるだけで動きも何もしない。その周りを8人のワルキューレたちが、(何故か手やスカートに血糊が付いている)舞台を駆け回る子供を追いかけている。 どういう意図なのか今考えても意味が良く分からない。そういえば第二幕の冒頭でもブリュンヒルデが人形と馬の玩具で遊んでいた。 
話は、ここに父ヴォータンの激昂をかったブリュンヒルデが気を失ったジークリンデを連れて、8人の姉妹たちに助けを求めてやってくる。背後には怒りに満ちたヴォータンの足音が黒雲とともに迫ってくる。  父に逆らった姉ブリュンヒルデを庇うことを姉妹たちはためらう。 ジークリンデは漸く気が付くがジークムントの死を知り自分も死にたいと願うが、ブリュンヒルデにジークムントの子を身ごもっている事を知らされ生きる決心をする。 シュテーメは感動的な歌いで見事にこの最後の出番を見事に締めくくった。 ここで歌われるジークリンデの旋律は大変美しい印象的なものだが、非常に謎めいている。 ワーグナーはベートーヴェンと同じように一つのモチーフを徹底的に使い切るのが普通だが、この旋律に限って言えば、この後、「リング」大団円である第3夜、「神々の黄昏」の幕切れに僅か一回現れるだけだ。 全てが終わり全てがラインの水底に帰る事は、ジークフリートの誕生と同じく、新しい生命の予告なのか。 なんとなく輪廻思想的だ。

第三場。 ヴォータンは最愛の娘ブリュンヒルデを自らの手で火に囲まれた岩場の上で永遠の眠りに就ける、ヴォータンの別れのシーンである。 この眠りは、「恐れ」知らない者のみが打ち直すことの出来るノートゥンクを獲得した者の、愛の力のみででしか、醒ますことが出来ない。 「ワルキューレ」の幕切れにふさわしい大変美しい場面で、ヴォータンの切々としたわが娘に対する思いが、 様々ライトモチーフと共に出てきて聞き応えの在る場面である。 「リング」は全編近親愛ばかりで、その辺がワーグナーの不道徳性、非道徳性の議論の的になってきたが、神話の世界はギリシャ神話も「リング」の元の話である北欧神話も近親相姦の世界である。ワーグナー批判の多くはこのあたりから出てくるのだろうが、あまりこだわりすぎるのと却って本質的ものにベールが掛かってしまってよく見えなくなるのではないだろうか。 ワーグナーは良くも悪くも真に19世紀的な天才なのだろう。    

この最後のシーンの音楽に含まれる様々なライトモチーフはストーリーの前後の架け橋となっているので構成上も非常に巧妙に出来ている。終わりのほうではブリュンヒルデを目覚めさせるジークフリートの誕生を告げるジークフリートの牧歌のモチーフも出てくる。 ところが、この場面がこの夜は一番がっかりした。ヴェルザー・メーストの取るテンポがあまりに速くて気分も着いてゆけない。様々なライトモチーフをじっくり聞くゆとりも無く終わってしまった。 ヴォータンの一人舞台で体力的にもかなりきつい場だとも思うので、不必要にゆっくり過ぎるのは考え物だが、ヴァイオリンが32分音符で延々と繰り広げる「炎」のモチーフは殆ど聞き取れなかったし(殆ど不可能なテンポだ) ヴォータンの最後の接吻、別れの甘美な旋律はあっけない無味乾燥なものに聞こえた。

ともあれ、こうして大喝采のうちに「リング」三部作の第一夜は幕を閉じた。 やっぱりここまで来ると次の「ジークフリート」更には「神々の黄昏」まで聞いてみたくなる。さすが質の高いウイーンの聴衆。 ジークムントとジークリンデの二人の主役に文字通り止むことの無い拍手喝采をおくっていた。 

写真は、左から指揮のヴェルザー・メースト、ブリュンヒルデ、ジークリンデ、ヴォータン。 撮影禁止なのにみんな撮っていたので(特に日本人は)失礼しました。

ウィーン の「ワルキューレ」 その2

2008-01-03 | 音楽
昨日のウィーンのニューイヤーコンサートは僕にとってはこの数年珍しく好いなと思ったコンサートだった。勿論テレビとラジオで聞いただけだが、83歳のプレートルの元気な姿が嬉しかったし、何より力の抜けたウィーンフィルらしい音だったと思う。 指揮者ってやっぱり年寄りに限るのかな。 それともついこの間目の当たりに聞いてきたオケの音が耳に残っていただけかな。

前回はワルキューレの第1幕の話をたくさん書いたがその続き。

2幕はジークフリートとジークリンデの逃走の音楽風な、情熱的な前奏曲の後(この音楽もわくわくするようないい音楽だ)、ワルキューレの騎行の音楽で「指輪」で初登場となるブリュンヒルデが、いきなり超絶技巧的歌唱力を聞かせなければならない。  あんなに素晴らしかったジークリンデの後にタイプはちょっと違うがもう一人のソプラノである、ブリュンヒルデの登場はどうしても注目されるに決まっている。 ジークリンデのしなやかで女性的なメロディーラインに対して、この2幕のブリュンヒルデはあくまでも戦闘的で男性的である。 この辺もワーグナーのオペラ作曲家、台本家としての力量なのだろうと思う。 エヴァ・ヨハンソンというソプラノでエクサン・プロヴァンスのフェスティヴァルで一昨年からベルリン・フィルとやっている「指輪」でも同じ役を歌ったそうだ。 シュテーメに比べると音楽性にほんの少し聞き劣りがするが、その前のシュテーメが良すぎたので比べるのも悪いような気がする。

ブリュンヒルデの僅か数分の登場の後すぐ、ヴォータンの妻(妾?)だがブリュンヒルデの母ではない! フリッカの登場となる。 この二人の女性は冷たい視線を交わすのみでここでは一言も会話しない。 ブリュンヒルデは大地の母、神々の母である(と言うことはヴォータンの母でもある)エルダとヴォータンの間の最愛の娘である。 そういうわけでこの二人、フリッカとブリュンヒルデは、はなはだ相性が悪いのである。 フリッカがこの第1場でジークムントとジークリンデ兄妹の不始末を激しく詰り、ジークムントを罰するようにヴォータンに詰め寄り承諾させる。 長い夫婦喧嘩の場で会話も時々ブルジョワっぽいとか言われる場面だが、 フリッカのミカエラ・シュスターが非常に良かった。 この役はここだけの登場であまり大きな役ではないのでいい歌手を持ってくるのは難しいだろうと思うが、ともすると退屈しやすいこの場が聞き応えのある物になっていた。

続く

ウイーンの「ワルキューレ」

2008-01-01 | 音楽
新年明けましておめでとうございます。

ウィーンから帰って休みの内にやって置きたいことを毎日忙しくやっているうちにあっという間に大晦日になってしまった。 何をしているかというと、我が家の半地下に自分用の作曲用アトリエ兼書斎を作る為に大工仕事をしているのだ。 こういう日曜大工も結構楽しいものだ。 今まで音楽に投入した労働力を思えばそれほどのことでもない。 とはいえ結構な筋肉労働である事は間違いない。ウィーンの話を書きかけていてもう10日くらい経ったのかと思うとびっくりする。

「ワルキューレ」は「こうもり」を聞いた翌日の20日に聞いた。今回のウィーン旅行の目的はこの日の為だった。偶然だがこの公演は12月に始まる新演出だったのも幸運だった。結論から言えば、さすがウィーンと、今書いていても感動を新たにするほどの充実度だった。

嵐のモチーフで始まるプレリュードの低弦の充実感がすでにこれから始まる一大スペクタクルを予感させる。紛れも無いウィーンフィルの音だ。 幕が開くと中央に、台本を知っていればそれとすぐ分かる一本の樫の木と思える柱が立っている。 その木の下にたたずむジークリンデが、舞台の右から左へ駆けるオオカミの影絵をなぞるように追いかける。 このすぐ後に現れるジークムンドはオオカミに育てられた野生児だ。 なかなか唸らせられる演出。

第1幕はジークムンドと、フンディンクの妻ジークリンデのラヴストーリーなのだがこの「指輪」の中では特にこの場面が、「ジークフリート」の3幕と並んで、変ないいかただが、一番オペラらしい場面だ。 ジークリンデの ニーナ・シュテーメと、 ジークムント役のヨハン・ボタ、この二人が圧倒的に素晴らしかった。 特にシュテーメは技術的安定感は言うまでも無く、何より音楽的にフレーズの作り方や劇的なデクラマシォンまで全て納得の行く表現力で、オーケストラや指揮者さえもリードし、第1場と3場は完全にこの二人のペースで音楽が運ばれていたと言っても大袈裟ではない。  不可能な愛を貫こうとする(ローエングリン、トリスタン、、、ワーグナーのオペラのライトモチーフ?)この美しくもはかないラヴストーリーに思わず目が潤んでしまった。 ニーナ・シュテーメ。 忘れずに銘記しておきたい歌手だ。 それからボタ。 これは後日フランスに帰ってから知ったのだが、なんと元ハンブルグのホルン奏者だったそうだ! インタビューでウィーンでジークムンドを歌うプレッシャーは大変なものでしょうとの質問に、オケでホルンを吹くことに比べればそれほどでもないとか。 確かにあの安定した歌いっぷりを思えば頷けるが、、、それにしてもホルンってそんなに?

リンクしたシュターツオパーのHPの写真はその第1幕1場、傷ついたジークムンドがジークリンデに一夜の宿を乞い、傷を癒してもらう時のもの。 ワインを注ぐジークリンデの目がジークフリートに釘付けになってしまい、溢れるワインにも気が着かず注ぎ続けてしまう。 どきりとする様な凄い演出だ。 原作台本では確か「二人の目は一目合った時からただならぬ絆で結びついている予感を感じる」と言ったようなものだったと思うが、こういった具体的に表現しにくいト書きがワーグナーの台本には多いが、それを素晴らしい形で表現していた。
 
それに比して第2場、夫フンディンクの帰宅のところは少し拍子抜けした。緊迫感が薄い。 だんだん気になって来たのは指揮者、ヴェルザー・メーストの淡白な音楽観。 フンディンクのライトモチーフである二つの四分音符は、「死」を予感させる。 「神々の黄昏の」の「葬送行進曲」のモチーフと同じなのだ。フンディンク役の アイン・アンガー(と読むのだろうか)は、悪くない。 いや、むしろ素晴らしいバスだ。 ところがこの緊迫した場面がどうも退屈してしまった。 

もう一つ印象的だった演出は3場。 フンディンクが寝静まり、眠れぬ夜ジークリンデがやはり眠れぬ夜を過ごすジークムントのもとに現れる場面。 この第3場はジークムントの有名な、このオペラで殆ど唯一と言っていいアリアらしい音楽「冬の嵐が過ぎ去り、、、」があるが、その後ジークリンデが切々と愛を訴える所で、それまで着ていた寸胴なガウンを脱ぎ捨て、ボディーラインがくっきり現れる真っ白なドレス姿になる。 中央の樫の木の下に何故か3つくっつけて置いてある何の変哲も無い不細工なテーブル、樫の木の上の方に何かはっきり見えない(少なくとも自分には)オブジェと言った抽象的な舞台に突如現れた生身の女の姿。なんというエロティスムだろう! 
ジークムンドは樫の木から抜き取った「無敵の剣」ノートゥンクを携え、ジークフリートを孕んだジークリンデの手を取り永遠の愛を誓って、フンディンクの元から逃走する。 しかし二人はヴォータンを共通の父とする兄妹なのである。


つづく