暗譜の話に戻る。
音名を頭で云いながら弾くと非常に効果的なことは良く知られている。
また、主に速いパッセージで上手く行かない部分を音名読みしてみると、
上手く行かないところは口でも大抵上手く言えない。
おそらく様々な要因、シフティングや移弦とか、音の跳躍などで、
脳や体にストレスが掛かっているせいだ。
パリのコンセルヴァトワールのソルフェージュの授業では今はどうかわからないが、いわゆる「クレ読み」というのがあった。ハ音、ト音、ヘ音の全ての記号が混ざった楽譜に音が羅列してあって、それを一定の速さで間違いなく読む訓練だ。いったい何の為にと、多くの他の生徒と同じくその時は思っていたが、この訓練は充分すぎるくらいの重要性がある。
「クレ読み」は、はじめは皆、必ず音の高低に合わせて抑揚をつけてしまうが、それは先生から厳しく禁止され、まったく無感情に棒読みするのだ。 音楽的な感情を一切排除するのだ。 味も素っ気も無い純粋な訓練だが、これによって僕の場合読譜力が飛躍的に伸びたし、同時に音名による暗譜に大いに役立つわけだ。
門前の小僧が何とやらと言うが、同じような理屈ではないだろうか。 プロの音楽家は、少なくともクラシックに限って言えば、17世紀頃完成した現在の記譜法によって書かれた過去の膨大な量の音楽を読みこなすことがその勉強の基本である。 偉大な先人達によって書かれた優れた音を読み、聞き、理解し、弾くことの重要性は計り知れない。 それらの文献は出来るだけ早く読みこなせる方が云いに決まっている。 門前の小僧が経典を諳んじるのも、寺子屋で小さい子供が意味もわからず孔孟を諳んじたのも似たような理屈だろう。 何故かこういう強制的な詰め込み式教育は発展途上国の方が得意で、先進国になると反対の事をしたがるようだがどうしてなのだろう。 日本も昔は良く詰め込み教育とか言って批判が盛んだった。 近年パリのコンセルヴァトワールではこういった「無味乾燥な」ソルフェージュをやらなくなったと聞いたが、残念なことである。
フランスに来た頃、掛け算の九九を言えないフランス人が多いことに驚いた覚えがある。すでに70年代後半のフランスでは学校で九九を暗記させていなかったのだ。 この前第二次世界大戦時のベルギーの話の映画で( 日本語に訳すと「オオカミと生き延びる(サバイバル)」)小学校の風景が出てきたがそこで掛け算の九九を生徒が声を出して覚えさせられていた。 少なくともこの頃のベルギーではまだやっていたのだろう。 一般的にフランスで暗算が出来るのは個人経営の小売店や、市場に店を出しているような人達だ。 彼等は非常に速いが、普通の人は例えば簡単な15×8位の計算でも電卓を使う。 二人の娘が学校に行くようになってなるほどそうだったかと再度納得させられた。 掛け算の仕組みを理解させることに教育の重点が置かれ、取り立てて覚える必要は無いのだそうだ。果たしてそうなのかな?
話が大幅にわき道にそれたが、この音名読みを徹底するのは指、耳の記憶を更に補い、暗譜を更に強固にする。 但し、この記憶法は単旋律楽器向きで、ピアノのような和声的又は対位法的楽器には向いていないことは明らかだ。 と言うか、こういった構造の音楽にはこの方法では到底音楽の進行にリアルタイムで着いてゆくのは不可能になってくる。 ここで必要になってくるのが、和声や楽曲構造などを理解する能力と言うことになる。これが多分「角鹿」さんのコメントで言われる記憶の圧縮法だと思う。
つづく
音名を頭で云いながら弾くと非常に効果的なことは良く知られている。
また、主に速いパッセージで上手く行かない部分を音名読みしてみると、
上手く行かないところは口でも大抵上手く言えない。
おそらく様々な要因、シフティングや移弦とか、音の跳躍などで、
脳や体にストレスが掛かっているせいだ。
パリのコンセルヴァトワールのソルフェージュの授業では今はどうかわからないが、いわゆる「クレ読み」というのがあった。ハ音、ト音、ヘ音の全ての記号が混ざった楽譜に音が羅列してあって、それを一定の速さで間違いなく読む訓練だ。いったい何の為にと、多くの他の生徒と同じくその時は思っていたが、この訓練は充分すぎるくらいの重要性がある。
「クレ読み」は、はじめは皆、必ず音の高低に合わせて抑揚をつけてしまうが、それは先生から厳しく禁止され、まったく無感情に棒読みするのだ。 音楽的な感情を一切排除するのだ。 味も素っ気も無い純粋な訓練だが、これによって僕の場合読譜力が飛躍的に伸びたし、同時に音名による暗譜に大いに役立つわけだ。
門前の小僧が何とやらと言うが、同じような理屈ではないだろうか。 プロの音楽家は、少なくともクラシックに限って言えば、17世紀頃完成した現在の記譜法によって書かれた過去の膨大な量の音楽を読みこなすことがその勉強の基本である。 偉大な先人達によって書かれた優れた音を読み、聞き、理解し、弾くことの重要性は計り知れない。 それらの文献は出来るだけ早く読みこなせる方が云いに決まっている。 門前の小僧が経典を諳んじるのも、寺子屋で小さい子供が意味もわからず孔孟を諳んじたのも似たような理屈だろう。 何故かこういう強制的な詰め込み式教育は発展途上国の方が得意で、先進国になると反対の事をしたがるようだがどうしてなのだろう。 日本も昔は良く詰め込み教育とか言って批判が盛んだった。 近年パリのコンセルヴァトワールではこういった「無味乾燥な」ソルフェージュをやらなくなったと聞いたが、残念なことである。
フランスに来た頃、掛け算の九九を言えないフランス人が多いことに驚いた覚えがある。すでに70年代後半のフランスでは学校で九九を暗記させていなかったのだ。 この前第二次世界大戦時のベルギーの話の映画で( 日本語に訳すと「オオカミと生き延びる(サバイバル)」)小学校の風景が出てきたがそこで掛け算の九九を生徒が声を出して覚えさせられていた。 少なくともこの頃のベルギーではまだやっていたのだろう。 一般的にフランスで暗算が出来るのは個人経営の小売店や、市場に店を出しているような人達だ。 彼等は非常に速いが、普通の人は例えば簡単な15×8位の計算でも電卓を使う。 二人の娘が学校に行くようになってなるほどそうだったかと再度納得させられた。 掛け算の仕組みを理解させることに教育の重点が置かれ、取り立てて覚える必要は無いのだそうだ。果たしてそうなのかな?
話が大幅にわき道にそれたが、この音名読みを徹底するのは指、耳の記憶を更に補い、暗譜を更に強固にする。 但し、この記憶法は単旋律楽器向きで、ピアノのような和声的又は対位法的楽器には向いていないことは明らかだ。 と言うか、こういった構造の音楽にはこの方法では到底音楽の進行にリアルタイムで着いてゆくのは不可能になってくる。 ここで必要になってくるのが、和声や楽曲構造などを理解する能力と言うことになる。これが多分「角鹿」さんのコメントで言われる記憶の圧縮法だと思う。
つづく