人生7年サイクル説

2018-10-18 | 東京日記
今月16日でリヨンのオペラ座を志願退職して東京で新しい生活を始めて丸7年になった。

実を言えば、リヨンオペラ座は実際は無給休暇中でリヨン市職員としてはいまだに復帰できる身分ではあるのだが、オペラ座の席はキープできないので復職するとなればどこか余っている職が充てがわれるらしい。例えば市の清掃員とかオペラとかの切符モギリとか、わからないがあまりいい職場は期待できない。何れにしても今年12月で定年なので復職しても仕方がない。

昔、リヨンの日本人の知り合いの医学関係の人とお酒を飲んでいるときだったか、人間の細胞はほぼ7年で全部入れ替わるので、人生は7年サイクルで変わるのだという話を聞いて、それが妙に納得できる話なので記憶に残っている。科学的根拠がどのくらいあるのかは判らないが、自分の人生を振り返ってみるとそういう場面が多い。生まれた時からずっと7年サイクルであれば、12月生まれの僕の場合63歳だった去年一年が9回目のサイクルの最後の年だったわけで、今年は新しいサイクルの1年目をもうじき終わろうとしているわけだ。

この7年を振り返ってみるのは年寄り染みているようで嫌だが、少し考えてみたら結構面白い。

音楽に決定的に目覚めてプロになろうと思ったのは中学生の頃だから、15歳頃とすると3回目のサイクルの始まりということになる。芸大に入ったのもそのサイクル内ということになる。

パリに留学した年が21歳の時である。これはパリ音楽院の受験資格年齢の最後の年でもあったから偶然でもなんでもないが、僕のパリ生活は3回目のサイクルと同時に始まったことになる。

リヨンに移り住んだのは78年なのでそのサイクルの中だが、この時はリヨンオペラ座の独立したオケはまだ存在していなかった。僕が入ったのはリヨン国立管弦楽団(音楽監督はセルジュ・ボドだった)でシンフォニックとオペラ両方やっていた。

オペラ座の独立したオーケストラの設立は当時の総裁だったルイ・エルロー氏の悲願で、当初は荒唐無稽な妄想だと思われることの方が多かった。財政的にリヨン市が2つのオケを持つことは不可能と言われていた。それがJ.E.ガーディナーの音楽監督で実現したのが83年である。その首席チェロの試験に合格してオペラ座に移ったのが29歳だった。1年のズレがあるが誤差のうちとしておく。

次の2サイクルの14年は子育てや、外国生活ということも相まって人生初経験の連続でであっという間にすぎてしまった気がする。本当にあっという間と思う。その間に日本のオケからの誘いがあったり、仕事上の喜びも、嬉しかったことも、特に嫌なこともたくさんあったが人並みの人生を送ったような気がする。

こんなことを書いてみると、全部7年単位でこじつけられそうだが、2000年頃から少しづつ始めたバッハの全曲演奏もよくよく考えてみると47、8歳の頃からだったし、ベルリオーズの生誕地コート・サンタンドレで教えていた期間は2001年(57歳)からの7年間だった。

この最後の7年で随分自分も変化してきたなと思う。その最大のものはオーケストラという組織から精神的に完全に自由になれたことかもしれない。精神の自由が演奏にも反映されてきたと思える7年間だった気がする。生徒を教えるのもうまくなった。とはいっても、32年間で耳に培われた音楽的経験はもしもこれが無かったら、自分の演奏や作曲が今よりずっとつまらないものになっていただろうと思う。

オペラ座という組織は結構大きなものでシンフォニーオケのようにオケが独立的に運営できるものではなく、劇場内の様々な要因が常に絡んでくる大変ややこしい組織である。振り返ってみると自分もその中に良くも悪くもドップリと浸かっていたのだなと思う。だからいまでも時々オケ時代の夢を見る。残念ながらあまりいい夢ではないことの方が多い。
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暗譜について

2018-10-17 | 音楽
昨日はアルペジーネソナタとエルガーのコンチェルトを暗譜でおさらいして見た。

コンサートの予定がない時こういう練習をしておかないと体がなまるので必要だ。どちらもついこの間本番で弾いた曲なので体の記憶は結構ある。しかし驚いた。エルガーのフィナーレの覚えにくかった所が結構あっさり忘れていた。アルペジョーネは若い頃から弾いていた曲なので忘れることはないがエルガーは実は学生時代トルトリエの講習で1、2楽章をやったっきりそれほど弾く機会がなかったので7月のコンサートは結構苦労して覚えた。

6月に小林道夫氏とリサイタルもあったので、エルガーのコンチェルトは当初は楽譜を見て弾くつもりにしていた。この曲は意外に覚えにくい曲だ。まず第1楽章の構成がオーケストラパートとソロパートが同じ音楽を繰り返しながらそれぞれ分担が入れ替わる場所が多い。これを取り違えて弾きやすいので構成をしっかり頭に叩き込まなければならない。第2楽章だけはスピッカートの練習になるので若い頃から結構弾いていたので覚えている。若い頃からやっている曲はいわば体感記憶と言える。
そして、続く3、4楽章が暗譜には難物なのだ。3は初見でも弾けるような簡単な音の流れなので肉体的訓練は必要ない。その代わりたくさん練習しないので体が覚えない。転調の構造と一緒に覚えないととても覚えきれない。最終的には楽譜を映像として覚えたのだが、多分もう忘れている。こういう頭脳的記憶は自分の年ではすぐ忘れるということだ。

4楽章は途中に出てくる16分音符の連続するパッセージと最後のゆっくりな箇所が覚えにくい。16分のところはAs durから順次5度ずつ調が上に上がってゆく構造になっているが、次のEs、B durになるところは5度調弦なのでフィンガリングが全く同じになるという悩ましい箇所。最終的にA durまで転調するがこっちも難しい。そういうわけで結構さらったのだが昨日弾いてみたら要するに苦労した所がやはり忘れかかっていた。結果として、頭脳的には思い出せたが、リアルタイム再生能力は忘れていたわけだ。

そうしてちょっと結論めいた考えに至った。うまく弾けないパッセージというのは結局覚えきれない箇所、別の言い方をするとリアルタイムに映像化できない(ヴァーチャルな譜面を脳裏に描けない)パッセージということかと。そうすると、難しいパッセージは徹底的に映像化の訓練を行えば弾けるようになるということか?

ギーゼキングが誰かの代役で一度も弾いた事のないラヴェルのコンチェルトを依頼されベルリンからパリに行く汽車の中で一晩楽譜をずっと読み続け翌日のコンサートで暗譜で弾いたという話を思い出した。その話を聞いたときは、マユツバのアネグドートと思っていたが今はそう思わない。
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次の企画

2018-10-16 | 音楽
7月にエルガーのコンチェルトがあってから、今年はあと1回12月9日に園田高広邸での弦楽トリオのコンサートのみになった。
こちらも楽しみなコンサートで、ドホナーニとシューベルトのトリオを中心に、ヴィオラとベートヴェンのデュオ、ヴァイオリンとあの例のヘンデル=ハルボルセン。その他自編の「魔王」やスラヴ舞曲。

そういうわけでしばらく本番がないのは楽でいいのだが、本番前の切迫感がないのもなんだかつまらない。練習の意欲も今ひとつ湧かない。

次なる企画をいろいろ考えていたが、今の所二つこれはやりたいというアイデアが浮かんでいる。

大変大物の共演者を考えているのだが、共演をお願いするのに少し勇気がいる。

三つ目もある。

それは実現できるかどうかわからないがハイドンの交響曲と弦楽四重奏曲の全曲の演奏企画だ。こちらは共演者が最低3人必要だ。それも特に四重奏の方は同じ音楽感を持った人たちと、あれこれ喋らずにできる人が望ましい。シンフォニーの方は最低でも20人くらい必要だ。できれば指揮をせず、指揮なしで自分も中で演奏に参加したい。20代、30代の若い人たちがたくさんいるとなお良い。

これって実現可能だろうか?
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親友に捧げるDuo

2018-10-05 | 音楽
今年の4月に芸大時代からの知り合いのヴァイオリニスト、硲美穂子さんと芸大では1年下で名前は覚えていた程度の付き合いだったN響のヴィオラ奏者中竹君とトリオやデュオのコンサートがあった。その折に編曲したモンティのご存知チャルダッシュやシューベルトの「魔王」、ドヴォルザークの「スラブ舞曲」「ユーモレスク」が2人にとっても気に入ってもらえた。
中竹氏とは初めての共演だったが、さすが1流オケで練られた技術と経験が感じられる素晴らしいヴィオラ奏者だ。

その折に中竹氏から、来年N響の同僚ヴァイオリニストと久々にデュオリサイタルを開くので何か編曲してもらえないかと頼まれていた。何がいいかな?「魔王」をDuoに書き直すのはさらに難易度が上がって面白そうだなと考えながら机に向かったが、最近とんと作曲していないことに気づいた。

何か書くにはヴァイオリン、ヴィオラのDuoはチャレンジングだと気が変わった。数年前に弾いたフランス人作曲家マントヴァーニのヴァイオリンとチェロの超難曲も思い出したし、もちろんラヴェルの名作ヴァイオリンとチェロのソナタもある。この分野はまだまだ書ける可能性が残っている気がする。

そこで思い浮かんだのが、先月60代半ばの若さでなくなった親友のことだった。この曲は彼に捧げるために書こうと決めた。
題名は親友の死を悼んで、

Andante Mestoに決めた。

少し葬送行進曲めいた楽想を使った2分の2の音楽を書き始める。途中から2個の楽器の重音の積み重ねによる進行の音楽、もう一つ新たに素早い6連符の2声の単音による音楽ができて来たのだが、この3つの楽想をどうやって融合してゆくか、まだ考えがまとまっていない。6連符の方は以前「リチェルカーレ」で使った、音程関係が長短2度、3度を超えない小さい音程関係で上下する音列の作り方を使った。重音の方もこの方法を縦に使ってこちらは大きい音程である6、7度の重音の積み重ねである。

書いているうちに気づいたのだが、6連符の方はこういう音程の連続の速い音形は大変難しいということだ。「リチェルカーレ」でもいくらさらっても弾けなくて、書いた自分が嫌になったがそれと同じなわけだ。それに気づいて筆が止まった。中竹君にこれ無理ですよ、と言われる情景がまざまざと浮かんだ。

例によって3日間くらい続けざまに書いたが、出来上がらないうちにほったらかしになったままもう数週間が経ってしまった。もともと作曲は頼まれていないので自分も弾けるように後でヴァイオリンとチェロ用にも書き直そうと思っている。
ヴァイオリン、ヴィオラのデュオの編曲は「魔王」のほか冬の旅の中から「菩提樹」とかがいいかなと思っている。ついでに好評だったチャルダッシュ(自分も結構気に入った出来だった)も結構楽しそうだ。
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友人の死

2018-10-05 | 東京日記
ひとりごと

もう、ひと月以上前の話になるが僕が心から尊敬していた友人が亡くなった。僕の人生の中でも最大級に貴重な親友だったが、付き合いはそう古く無い。彼は洗礼を受けたキリスト教徒だったが、のちに浄土真宗の僧侶になった。初めてあった時から仏教の話からキリスト教、親鸞、サン=テグジュペリ、宮沢賢治、グリム兄弟と話題が尽きなかった。

知らせがあったのがフランスの家に帰る前の日だった。飛行機をキャンセルして葬儀に行こうかとも思ったが、飛行機代もバカにはならないし、少し考えてみると彼は自分と同じで、そういう形式的な事を重んじるタイプでは無いのであえて葬儀に参列するより、心から彼の死を悔やむことの方を選んだ。ご家族には知らせを受けた時すぐに電話で話した。

彼とは家族ぐるみの付き合いで、先日四国の彼の家にお線香をあげに行って来た。奥様と息子さん、2人の娘さんにお悔やみを述べられてやはり心が少し落ち着いた。

もう一人、リヨンのオーケストラで長年一緒だった日本人の女性ヴァイオリニストもつい先日亡くなったと知らせがあった。彼女は60年代の東京で、女性だけで構成されたヴァイオリン主体のアンサンブルを結成して、クラシックからポップスまで幅広い演奏がヒットして、テレビや週刊誌などでかなり取り上げられた経緯がある。

その忙しさとストレスに疲れ果て、リヨンのオーケストラにやって来てそこが安住の地となった。カトリックの洗礼を受けた彼女の葬儀はフランスで今日執り行われるが、たまたま日本滞在中の家内も、僕も参列できない。葬儀で読み上げられる短い文を昨夜家内と必死で書いてメールでフランスに送る。今回も遠くから祈ることになった。


年とともに知人の死の知らせを受ける事が頻繁になってくるとはよく聞くが、実感として感じる今日この頃。
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