今回の佐村河内氏の事件、いろんなところからいろんな事がいわれているが、
やっぱりどうしても引っかかる部分が多い。
ネット上のいろんな意見も読んだが、どこか釈然としなくて、
ことあるごとにこの事件について考えていた。
リヨンのかつての僕の指揮者だった大野さんの意見等も紹介された。
なるほどと思わせる部分も多い。
他にも、この記事には同感する部分が多いが、僕の考えは少し違うというか、どちらも少し歯がゆい。
こちらの方は新垣隆氏のお知り合いの方のようで、
「クラシック」専門家の事情を良く説明されているが、問題の本質をそれほど掴んでいるようには僕には思えない。
これでは音楽の専門知識の無い方へのお説教だ。
この記事では、ますます専門家と聴衆の間の谷が深くなるだけではないかとの危惧さえ感じる。
なかなかまとまらない僕の考えを、この場を借りて何とかまとめてみる気になったので、よろしければおつき合いください。
身体障害をプロモーション化すること
今回の事件で社会的に一番大きい問題点は「偽作曲家」佐村河内氏が「全聾と偽った」事で、
スポーツ紙(いわゆるタブロイド系新聞)やテレビのワイドショー等(恐らく)ではこの部分が一番の関心事なのだろう。
僕が一番うんざりしている部分だが、一番問題の本質から遠いと思う部分でもある。一応の考えを書く。
こう云うことが起こる下地はもうかなり前から日本には存在していた。
身体的障害、生い立ちの不幸、等の「逆境」に立ち向かってそれを克服した「天才音楽家」というセールスパターンを作り上げ、
売り出し儲けたプロモーション会社が出現し、それに多くの人達が「共感」するという構図が出来上がった。
そういったプロモーションを展開して莫大な収益をあげた、マスメディアには怒りを感じるが、
それに共感して、CDを購入した人達、コンサートに足を運んだ人達を嗤う権利は、誰にも無いはずだ。
反対に共感者たちが「損害賠償」といってCDの返品を求めるのは、どこかお門違いだと思う。
思えば、日本の教育がそういう下地を一生懸命作って来た事にこそ、問題の原点があると言えるのではないだろうか。
二宮金次郎はあまりに古すぎるだろうが、野口英世やヘレンケラー等の「偉人伝」は
今でも小中学校の図書館に置かれていると聞いた。ベートーヴェンもアルコール依存症で暴力的な父親の教育という
「逆境」、それに加えて耳の障害という神話を言いたがる人は日本では多い。
(父親の暴力も難聴も誤りではないが、誇張され過ぎである)
本来こう言ういわゆる「偉人」の業績はこれらの「逆境」がある無いに関わらず評価されるべきもので、
そういう物語を前面に押し出して、偉人を称える教育は、はっきり言って間違いだ。
ついでに言えば、モーツァルトの神童ぶりを強調しすぎる事も、ある意味同じ事と言える。
僕たち日本人は、そうやって作り上げられた「美談」無くしていつしか、人の業績を評価できなくなってしまったのである。
身体的障害と言う逆境ををプロモーションの一部に取り込む事は、善意を装った「差別」ですらある。
フランスに長く暮していたが、かの地こういうやり方は一度も見聞きした事が無かったし、今後も恐らく無いだろうと思う。
おそらくキリスト教的発想が大きな要因であると思われる。
「同情」ほど卑怯な「差別」は無いのである。
ここまで書いた時点で佐村河内氏の謝罪文が朝日新聞に掲載された。
耳の障害についての氏のいっている事には真摯なものを感じる。
佐村河内氏とベートーヴェンの天才を比較するつもりは無いが、
ベートーヴェンも時に全く何も聞こえなくなったり、一時的に僅かに聴力を回復したりした事は、
真面目な研究論文等では知れ渡っている事柄である。
有名な「第9」初演時のエピソードはそういう研究によって、真実みをおびてくるのである。
まだ、僕の書きたい本題には入っていないが、とりあえず以下は次の機会に譲るとする。
やっぱりどうしても引っかかる部分が多い。
ネット上のいろんな意見も読んだが、どこか釈然としなくて、
ことあるごとにこの事件について考えていた。
リヨンのかつての僕の指揮者だった大野さんの意見等も紹介された。
なるほどと思わせる部分も多い。
他にも、この記事には同感する部分が多いが、僕の考えは少し違うというか、どちらも少し歯がゆい。
こちらの方は新垣隆氏のお知り合いの方のようで、
「クラシック」専門家の事情を良く説明されているが、問題の本質をそれほど掴んでいるようには僕には思えない。
これでは音楽の専門知識の無い方へのお説教だ。
この記事では、ますます専門家と聴衆の間の谷が深くなるだけではないかとの危惧さえ感じる。
なかなかまとまらない僕の考えを、この場を借りて何とかまとめてみる気になったので、よろしければおつき合いください。
身体障害をプロモーション化すること
今回の事件で社会的に一番大きい問題点は「偽作曲家」佐村河内氏が「全聾と偽った」事で、
スポーツ紙(いわゆるタブロイド系新聞)やテレビのワイドショー等(恐らく)ではこの部分が一番の関心事なのだろう。
僕が一番うんざりしている部分だが、一番問題の本質から遠いと思う部分でもある。一応の考えを書く。
こう云うことが起こる下地はもうかなり前から日本には存在していた。
身体的障害、生い立ちの不幸、等の「逆境」に立ち向かってそれを克服した「天才音楽家」というセールスパターンを作り上げ、
売り出し儲けたプロモーション会社が出現し、それに多くの人達が「共感」するという構図が出来上がった。
そういったプロモーションを展開して莫大な収益をあげた、マスメディアには怒りを感じるが、
それに共感して、CDを購入した人達、コンサートに足を運んだ人達を嗤う権利は、誰にも無いはずだ。
反対に共感者たちが「損害賠償」といってCDの返品を求めるのは、どこかお門違いだと思う。
思えば、日本の教育がそういう下地を一生懸命作って来た事にこそ、問題の原点があると言えるのではないだろうか。
二宮金次郎はあまりに古すぎるだろうが、野口英世やヘレンケラー等の「偉人伝」は
今でも小中学校の図書館に置かれていると聞いた。ベートーヴェンもアルコール依存症で暴力的な父親の教育という
「逆境」、それに加えて耳の障害という神話を言いたがる人は日本では多い。
(父親の暴力も難聴も誤りではないが、誇張され過ぎである)
本来こう言ういわゆる「偉人」の業績はこれらの「逆境」がある無いに関わらず評価されるべきもので、
そういう物語を前面に押し出して、偉人を称える教育は、はっきり言って間違いだ。
ついでに言えば、モーツァルトの神童ぶりを強調しすぎる事も、ある意味同じ事と言える。
僕たち日本人は、そうやって作り上げられた「美談」無くしていつしか、人の業績を評価できなくなってしまったのである。
身体的障害と言う逆境ををプロモーションの一部に取り込む事は、善意を装った「差別」ですらある。
フランスに長く暮していたが、かの地こういうやり方は一度も見聞きした事が無かったし、今後も恐らく無いだろうと思う。
おそらくキリスト教的発想が大きな要因であると思われる。
「同情」ほど卑怯な「差別」は無いのである。
ここまで書いた時点で佐村河内氏の謝罪文が朝日新聞に掲載された。
耳の障害についての氏のいっている事には真摯なものを感じる。
佐村河内氏とベートーヴェンの天才を比較するつもりは無いが、
ベートーヴェンも時に全く何も聞こえなくなったり、一時的に僅かに聴力を回復したりした事は、
真面目な研究論文等では知れ渡っている事柄である。
有名な「第9」初演時のエピソードはそういう研究によって、真実みをおびてくるのである。
まだ、僕の書きたい本題には入っていないが、とりあえず以下は次の機会に譲るとする。