前回に続いてメトロノームのお話しをしたい。
メルツェルの自称(又は公的な)発明のメトロノームは現在も世界中あらゆる所で(たぶん)売られているし簡単に手に入る道具になった。スマートフォンでダウンロードすら出来る。絶賛したベートーヴェンやベルリオーズのその後の冷淡な反応にも関わらずである。
考えてみれば、時計制作技術は既にメトロノームの特許取得以前から既に長い歴史がある訳だし、このような道具を作る事自体は技術的にそれほどの困難を要したとは思えない。要はそういう道具を、だれもが使いやすい形で一般化したメルツェルの商才が光っていたという事ではないだろうか。現代でも、技術ベースでは既に存在していて、それを上手く商品化するといった同じような事が数限りなくあるのではないか?
さて、僕とメトロノームの話をしたい。
僕にとってメトロノームは最大とまでは行かなくても、かなり上位における師である。僕にとってメトロノームは体温計、血液検査の実測値のような、感情や気分といった曖昧なものに左右されていない客観的速度を測る装置である。そうして作曲する時には他の多くの作曲家同様楽曲の長さを測る大変重要な道具である。作曲する人と話をすると必ずと言っていいほど音楽の速度と言う概念の話になる。というか作曲する行為そのものが時間の概念そのものである。作曲家はある速度を耳にするとメトロノーム表示でだいたい幾つくらいか分かる者である。絶対音感という言葉があるが、絶対テンポ感とでもいえる感覚のようモノは確かに存在する。
昨日の記事のようにメトロノームは発明当初の絶賛から凋落までの時間は瞬く間だった。そうしてベートーヴェンやベルリオーズその他数限りない名手たちからの冷たい言葉を浴び続けてきたので一般的に評判が著しくよろしくない。やれ、「メトロノームとばかり練習していると非音楽的になる」「メトロノームは最初のテンポを感じるだけで後は止めて自分の感性に従え」「テンポを正確に弾けたからといって音楽は、、、」等など数限りない。
全くその通りである。しかし、そうして、、、多くの人達が陥ってしまった罠はテンポの中で音楽を表現する能力を失って、自分勝手な自己陶酔型の酔っぱらい運転のような訳の分からない演奏が蔓延する時代もあったのであった。
実は、こういう自己陶酔型の自分勝手リズム系はクラシック特有のものである。雅楽やガムラン、インドの音楽など高度なリズム形態(又は時間形体)の音楽を除けば(西欧クラシック音楽もその部類に入るのかどうか?)世界の音楽は今も昔も一定の速度、一定の尺度で進行している音楽が殆どである。ジャズは言うまでもなくポップも、ロックも、ヒップホップも人は、区切られた一定の時間を想定して聞いていられるから、安心して聞いていられる。だから酔っぱらい運転のような演奏の多いクラシックより圧倒的にファンが多いのである。
で、クラシックはでは違うのか?
そんな事は無い。「アゴギーク」と言う言葉がある。
モーツアルトは「左手は器械のように正確に、右手は詩人のように自由に」といったような事を(確か)父親宛の手紙に書いているがアゴギークとはこの事である。一定の時間枠はこの上なく正確で、尚かつその中で自由に歌ったりする事である。僕にとって優れたジャズマンのこのアゴギーク能力はいつも羨望の的である。彼らは当然の事ながらメトロノームを飲み込んだごとくにいつもテンポは正確でそのなかで、驚くべき複雑なポリリズム(例えば4拍子の中に5拍子や7拍子)をいとも簡単に(?)やっている。もちろん彼らはそこに至るまでには(比喩的に)メトロノームを100個くらい飲み込んでいるのだ。
実は師ジャンドロンがある日のレッスンで「僕の最大の先生はメトロノームだよ」といった事を良く覚えている。そうして僕は今でもメトロノームという先生にしょっちゅうレッスンに通っているのである。レッスン代はその効用に比すと大変安い。
メトロノームに聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥。
メルツェルの自称(又は公的な)発明のメトロノームは現在も世界中あらゆる所で(たぶん)売られているし簡単に手に入る道具になった。スマートフォンでダウンロードすら出来る。絶賛したベートーヴェンやベルリオーズのその後の冷淡な反応にも関わらずである。
考えてみれば、時計制作技術は既にメトロノームの特許取得以前から既に長い歴史がある訳だし、このような道具を作る事自体は技術的にそれほどの困難を要したとは思えない。要はそういう道具を、だれもが使いやすい形で一般化したメルツェルの商才が光っていたという事ではないだろうか。現代でも、技術ベースでは既に存在していて、それを上手く商品化するといった同じような事が数限りなくあるのではないか?
さて、僕とメトロノームの話をしたい。
僕にとってメトロノームは最大とまでは行かなくても、かなり上位における師である。僕にとってメトロノームは体温計、血液検査の実測値のような、感情や気分といった曖昧なものに左右されていない客観的速度を測る装置である。そうして作曲する時には他の多くの作曲家同様楽曲の長さを測る大変重要な道具である。作曲する人と話をすると必ずと言っていいほど音楽の速度と言う概念の話になる。というか作曲する行為そのものが時間の概念そのものである。作曲家はある速度を耳にするとメトロノーム表示でだいたい幾つくらいか分かる者である。絶対音感という言葉があるが、絶対テンポ感とでもいえる感覚のようモノは確かに存在する。
昨日の記事のようにメトロノームは発明当初の絶賛から凋落までの時間は瞬く間だった。そうしてベートーヴェンやベルリオーズその他数限りない名手たちからの冷たい言葉を浴び続けてきたので一般的に評判が著しくよろしくない。やれ、「メトロノームとばかり練習していると非音楽的になる」「メトロノームは最初のテンポを感じるだけで後は止めて自分の感性に従え」「テンポを正確に弾けたからといって音楽は、、、」等など数限りない。
全くその通りである。しかし、そうして、、、多くの人達が陥ってしまった罠はテンポの中で音楽を表現する能力を失って、自分勝手な自己陶酔型の酔っぱらい運転のような訳の分からない演奏が蔓延する時代もあったのであった。
実は、こういう自己陶酔型の自分勝手リズム系はクラシック特有のものである。雅楽やガムラン、インドの音楽など高度なリズム形態(又は時間形体)の音楽を除けば(西欧クラシック音楽もその部類に入るのかどうか?)世界の音楽は今も昔も一定の速度、一定の尺度で進行している音楽が殆どである。ジャズは言うまでもなくポップも、ロックも、ヒップホップも人は、区切られた一定の時間を想定して聞いていられるから、安心して聞いていられる。だから酔っぱらい運転のような演奏の多いクラシックより圧倒的にファンが多いのである。
で、クラシックはでは違うのか?
そんな事は無い。「アゴギーク」と言う言葉がある。
モーツアルトは「左手は器械のように正確に、右手は詩人のように自由に」といったような事を(確か)父親宛の手紙に書いているがアゴギークとはこの事である。一定の時間枠はこの上なく正確で、尚かつその中で自由に歌ったりする事である。僕にとって優れたジャズマンのこのアゴギーク能力はいつも羨望の的である。彼らは当然の事ながらメトロノームを飲み込んだごとくにいつもテンポは正確でそのなかで、驚くべき複雑なポリリズム(例えば4拍子の中に5拍子や7拍子)をいとも簡単に(?)やっている。もちろん彼らはそこに至るまでには(比喩的に)メトロノームを100個くらい飲み込んでいるのだ。
実は師ジャンドロンがある日のレッスンで「僕の最大の先生はメトロノームだよ」といった事を良く覚えている。そうして僕は今でもメトロノームという先生にしょっちゅうレッスンに通っているのである。レッスン代はその効用に比すと大変安い。
メトロノームに聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥。