明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

15-2. 楽あれば苦あり『般若心経は間違い?』の間違い(十五)その2 

2024年01月16日 | 仏教
その後、16年経っても、スマナサーラ長老に対する日本仏教からの反論は聞かれません。真似して「空即是色」は間違い等と言って居る人は居るらしいのですが。
 
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これは、最終回=第15回の後半部分です。
前半部分はこちら『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その1 苦=空=自己疎外
第一回から読むならこちらから
 
 
2007.10.31 Wednesday

『般若心経は間違い?』の間違い (十五) その2
 

『般若心経は間違い?』(宝島社新書)より 

 お腹の皮と背中の皮がくっつきそうなとき、一個目のおにぎりは絶品です。・・・でも・・・五〇個食べると病院行きで、一〇〇個食べると死ぬかもしれません。
 計算してみましょう。
 一〇〇個食べて死ぬなら、一個食べたときには死の苦しみの一〇〇分の一苦しいのです。・・・・・しかしひと口食べてそんなに美味しいのは、なぜでしょう?
 それは空腹という「苦しみがたくさん消えたから」なのです。・・・それを勘違いして「幸福だ」というのです。・・・・
 ずっと立っていると苦しいから座ります。そのとき「ああ、楽だ」と幸福を感じるのですが、べつに座ることが幸福ではないのです。ずっと座っていたら、それも苦しみですからね。・・・・・
 健康の幸福を存分に味わいたければ、ガンにでもなることです。その人がお医者さんに土下座して、手術、抗がん剤、放射線、温泉療法、健康食品、気功、ありとあらゆることをして健康になったら、「やっぱり健康って何よりありがたい」と、そのとき大きな幸福を感じることができるのです。
 あるのは苦だけなのです。私たちはまんまと騙されているのです。・・・・・・
 世間の人が夢見る最高の幸福は、不幸のどん底でないと感じられないのです。苦が消えることが楽しみなので、幸福を感じるためには、不幸のどん底になるしかないのです。
(P.204~206)



 「苦」と「楽」とは、「相対的」で、互いに「縁起」する関係ですから、「苦」がなければ「楽」もないことは、間違いありません。しかし、その意味では、「楽」がなければ「苦」もないことになり、「全存在が苦である」とか、「あるのは苦だけ」とかいう、長老の主張とは矛盾します。
 「おにぎり一〇〇個」だって平気で食べて、ギャラや賞金を手にする「幸福」な人もいますし、逆に、胃が小さくて一個のおにぎりでも食べきれない「不幸」な人もいます。
 また、長老は、「苦が消えることが楽しみなので、「幸福」を感じるためには、「不幸」のどん底になるしかないのです」と言いますが、その意味では、何も自分が「不幸のどん底」にならなくても、他人が「不幸のどん底」にいるのを見るだけで充分です。「他人の不幸は密の味」というくらいですから。
 
 長老は、「楽」は勘違いで、「苦」が真実と言いますが、もともと「相対的」なものですから、どちらも勘違い、とも言える筈です。
 それでも、人間にとって、「すべてが苦」と言えるのは、「自己」と「他者」という「概念」の獲得が、「苦」と「楽」という「概念」を産み出し、それまでは「苦」でも「楽」でもなかったことを「苦」と感ずるようになり、「苦」を消すために「楽」を取ると、その「楽」がまた新たな「苦」の原因になります。
 つまり「苦の循環」(輪廻)が出来てしまったために、人間にとって「すべてが苦」と言える状態が出現した、と考えることができます。
 

 では、「生きる苦しみ」が完全に消えたらどうなりますか?「生きる=苦」なのです。それがきれいさっぱり消えたら、どうなりますか?
 それを解脱というのです。その境地が涅槃です。輪廻から解脱して二度と生まれない阿羅漢は、完全に苦を断つことに成功した方なのです。釈尊はこうおっしゃっています。
 
nibbanam paramam sukham
最高の幸せは涅槃である


「涅槃に入ると、つまらないのでは?」と言う人がいるのですが、それはある意味で正しいのです。「涅槃には苦しみがないので、俗世間の幸福が成り立たない」のですから。・・・・・・・ 
 本当に人生に楽はないのです。「楽」というのは錯覚で、ただの世間の合意です。
 仕事がなくて困っている人が仕事を見つけたら、幸福を感じますし、それはそうでしょう。否定しません。
 でもそれは「仕事がない苦しみが消えた」のです。だから幸福を感じたのです。その幸福は、「苦しみが消えた」という事実をあべこべに見ただけのことです。苦しみとは別物の幸福があるわけではありません。あるのは苦しみだけなのです。苦しみ以外にはないのです。
(P.207~209)



 「仕事がない苦しみ」といいますが、「仕事がない」のはむしろ「楽」であり、「苦」になるのは、お金が入らないことです。
 多くの人にとって、「仕事」は「苦」ですが、好きな仕事をしている人や、「仕事」がうまくいっている人は「仕事」が「楽」であり、お金があっても、「仕事」がないと「苦」に感じる人もいます。
 「人間万事塞翁が馬」とか「禍福は糾える縄のごとし」などというように、「苦」と「楽」は「相対的」であり、そんなに無理やりに、何でも「苦」と考える必要はありません。ただ「楽」が「苦」の原因になることは間違いないことです。 

 「一切皆苦」は「ブッダの真理」だからといって、「あるのは苦しみだけなのです。苦しみ以外にはないのです」などという、頑固で押し付けがましい態度を取らなくてはいけないのでしょうか。
 この世には、「楽」があることも認めるべきで、「楽」がないなら「苦」も、「縁起」としては、ないことになってしまいます。
 「楽」は「苦」の打ち消しとしてあるのに、さらなる「苦」の原因でもあり、そのような、どうにもならない「苦の循環」すなわち「輪廻」の世界を離れ、「苦」も「楽」もない「悟り」の世界に行くことこそが理想である、ということなら、そんなに難しい話ではないと思うのですが。 
  
 
 「苦」には「感覚の苦」とは違う意味もあります。一切は無常で、絶えず変化していくのですが、この状態も「苦」というのです。・・・・・・・・・・・・・
 このようなわけで、「私の」という気持ちが苦しみを作るのです。「私の」というのは、自分の感覚から生じる錯覚です。だからこの「感覚の苦」を、しっかり観察しなければならないのです。(P.210〜211)


 “「私の」という気持ちが苦しみを作る”というのは、正しい考え方だと思いますが、どうしてそれが「感覚の苦」なのでしょうか。

 「私の」というのは「所有」などの「関係」を表す言葉であり、「自己」や「他者」という「概念」の延長上にあるものです。つまり、「錯覚」であるにしても、決して「感覚」によるものではなく「意志」や「認識」により「抽象化」された「概念」としての「言語」です。
 もともと、「自己」と「他者」という「分別」こそが、「苦」の原因であり、「私の」という「概念」は、観念のなかの全世界を「私の」と「私以外の」に分断する「分別」そのもの、つまり「苦の原因」と言えます。
 しかしそれは、「花が枯れるのが悲しい」というのと、それほど違いがあるわけではありません。
 多くの人にとって、自分の好きな「美しい花」が枯れるのは悲しいけれど、「汚い雑草」が枯れるのは、悲しくないのです。
 「美しい花」と「汚い雑草」というのは「分別」であり、「私の花」と「他人の花」、というのと、なんら変わるところがありません。
 つまり、「私の」に限らず、あらゆる「分別」が「苦」の原因であり、「苦」を解消したいなら、あらゆる「分別」から「解脱」するしかありません。

 

 修行者にとって「悪魔」とは「自分自身の思考」です。仏教修行をする人は「神様が降りてきて修行の邪魔をする」と考えてはいけません。自分の悪さを、他人のせいにしてはいけません。悪魔は自分の思考、妄想なのです。妄想は感情から絶えず生まれるのです。感情とは煩悩です。だから、まず自分の妄想を減らすことです。それは自分でできます。それが悪魔退治です。
 けれど妄想が減って落ち着きが出てくると、「自分は理性的だ」と勘違いする思考が現れます。「今、私は妄想していない。論理的なことを考えているのだ」と威張るのです。これが悪魔の攻撃です。思考をやめさせてくれないのです。・・・・・
 「理性的な思考」でも、思考にすぎません。真理を知っているならば、思考する必要もありません。フタの閉じた箱があれば、「何が入っているの?」と思考しますが、フタが開いていれば中身が何か思考しません。知っているなら、思考しないのです。逆に言えば、思考するなら、知らないということなのです。「思考する」なら「まだまだ馬鹿」ということなのです。「しっかりとしたことを考えているぞ」「いいことを思い出した」と調子に乗るなら、悪魔の直撃を受けています。瞑想が続きません。悪魔の勝ちです。
 考えて処理しようとすることは、悟りを開かないで、悟ったつもりになることです。だから理性的だと思える思考も「妄想」とカットするのです。これが悪魔の攻撃に勝つことです。
 理性的なこともカットすると、最終的に、仏教的な観念で頭がいっっぱいになります。指導者にもその妄想をやめさせることは難しいのです。なにしろ「生きることは苦でしょう」と向かってくるのですから、「そうじゃない」とは言えないのです。それで「それはそうです」と答えると、「ほら、私は知っているのだ」ということになる。それでも指導者は「思考をやめなさい」と言いますから、修行者は「いつでも同じアドバイスだ。この人は自分が上達していることを知らない。私が思っている真理が嘘だというのだろうか」と反論することになるのです。真理をわかったつもりになっているので、これでは解脱できなくなります。これも悪魔の攻撃です。これは瞑想の厳しいステージで、だいたい誰でも通らなくてはなりません。
 このステージをパスした修行者の解脱を悪魔が邪魔をしているなら、指導者が教えてあげることは簡単です。
 仏教の真理だけ思考するなら、妄想はないし、くだらない思考もないのですから、かなり立派な人です。立派な人ですが、そこに引っかかると悟れないのです。
 しかし厳密に真理を発見した人は、そもそも頭いっぱいに仏教の概念で頭をかきまぜる必要はないのです。
「1+1=2」ですね。これを二四時間考える必要がありますか?知っているから、そんな必要はないでしょう?「知る」ということは、このレベルで明確に知ることなのです。だから修行者は、何か思考するたびに「ただの思考だ」「思考は悪魔だ」と発見すればいいのです。それだけで悪魔を退治して、解脱の道に入ることができます。・・・・
 私たちは「ああ失敗した」「もう少し頑張っておけば」「もっと欲しいのに」などと、始終暗い妄想をしています。生きるという苦の輪廻から、抜け出せないでいるのです。そこで修行者は、妄想を払い、悟りを得るために瞑想修行をするのです。
 一方、完全なる悟りを開いた阿羅漢は妄想しません。阿羅漢は輪廻から解脱し、「成すべきこと」をすべて成し終えた方々です。生命として何も課題がありません。
 悟りを目指す本来の仏教を「衆生の救済を目指さない教えだ。自分の悟りにしか関心がない教えだ」と批判する向きもありますが、それは誤解の極みです。
 悟った人には、欲も怒りも無知もありません。「自分のために」の「自分」がありません。無我なのです。だからこそ、衆生に限りない慈しみを注ぐことができるのです。
(P.212~216)


 ユングなど、フロイト学派によると、仏教の「悟り」は、「意識と無意識の一致」と定義づけられると言います。
 禅宗では、長時間の「座禅」によって「悟り」に導くと言いますが、実際に「悟り」を得るのは、一瞬の出来事であり、頭の中が空白になって、正に「意識と無意識の一致」する瞬間が訪れることがあります。
 このとき、他人から見ると、体がフラフラと揺れたり、居眠りしているように見えるため、「悟り」体験のない指導者が、「警策」と称する棒で、修行者の肩を打ちます。すると修行者は「座禅」に集中するようになり、「悟り」のチャンスを失います。
 逆に、叩かれながら、長時間「座禅」をしていると、必ず「神秘体験」をするようになります。もちろん、幻覚であり、「妄想」に過ぎないのですが、これを、「悟り」とか「阿頼耶識」などと勘違いする人が出てきます。
 我々の学んだ「雲門禅」などは、基本的に「座禅」は行いませんし、変てこな「公案」も使いません。こういったものでは、かえって「悟り」から遠くなるばかりだからです。 
 
 長老は、「思考するならまだまだ馬鹿」とか「思考は悪魔だ」と言い、「思考のない」状態を「悟り」と言うのですから、それも「意識と無意識の一致」という状態と同じことを言っているものと考えることができます。
 また、「1+1=2」のように、“「知る」ということは、このレベルで明確に知ることなのです。” とも言いますから、長老の言う「悟り」は、「知っている通りに行動できる」こと、つまり我々の考える「悟り」と同じかも知れません。
 あらゆる物事に対し「1+1=2」のように、つまり知っている通りに、答えが出せる能力こそ、「悟り」の「智慧」と言う事ができます。


 もちろん「知らない」ことについては、答えが出せませんから、「知らない」ことには、はっきりと「知らない」と言えなければなりませんし、「知っている」ことについては「知っている通りに行動できる」のでなければ「知っている」とは言えません。「行動」というのは、必ずしも、体を動かすことではなく、「意志決定」つまり「行」も含まれます。

 しかし、「1+1=2」とは、どのような知識なのでしょうか。長老の文脈から見ると、「1+1=2」を「真理」と考えているようですが、本当に「真理」でしょうか。
 長老の言う、「真理」の定義は「普遍的で客観的な事実」ですから、「1+1=2」は、正しく当てはまるように見えますが、本当でしょうか。

 発明王エジソンは、幼年時代に「1+1=2」が理解できなくて、「低能児」と呼ばれたそうです。
 エジソン少年の考えは、二つの粘土の塊を合わせると一つになるから、「1+1=1」ではないか、というもので、学校の先生は、どうしても理解させることが出来ず、母親は学校をあきらめたといいます。
 「1+1=2」くらいは、誰でも知っている、と思うかもしれませんが、実は相当に高度な「概念」であり、本当に知っているか、となると、なかなか難しい問題です。
 例えば、一人の人間と、一匹の犬という場合に、「1+1=2」は成り立つでしょうか。
 また、一人の男性と、一人の女性、の場合、「一組の男女」なのか「二人の人間」なのか、エジソンの粘土の場合と同様な問題が起こります。
 「数学」には、そのような問題は捨象して考える、という「約束事」があるのですが、数学者でも「1+1=2」を証明するのは、決して簡単ではない、といいますから、素人では、「二四時間」考えるくらいではとても足りないかも知れません。
 つまり、一般に知られている、「1+1=2」というのは、「真理」でもなければ「事実」でもなく、ただ、そのような「約束事」であり、長老の言い方で言えば「世間の合意」に過ぎません。
 長老は簡単に、“「1+1=2」を知っている”、と言いますが、そんなに「数学」に詳しいのでしょうか。
 もし、「世間の合意」をそのまま受け入れているだけなら、「私がある」のと同じことになってしまいます。

 「1+1=2」を「知っている」ということは、数学者のように「証明」できるか、そうでなければ、「約束事」でそうなっている事を「知っている」かどちらかでなければ、本当に「知っている」とは言えません。

 

 いろいろ問題はありますが、スマナサーラ長老のように、「悟り」のイメージをきちんと提示できるところが、日本の「大乗仏教」にはない、「部派仏教」の素晴らしいところです。
 しかし、「阿羅漢」には、「もう生命として何も課題がない」、とはいかがなものでしょうか。
 もともと、人間以外の生命体はすべて「悟っている」のであり、人間だけが、修行しないと「悟り」を得られないのです。
 あらゆる生命体の「課題」は、子孫を増やし繁栄させることであり、どの生命体も、その成果を誇ることもなく、また、できなかったことを悔やむこともなく、ただ「知っている通り」に出来る限りのことをやって、あとは、従容として死んで行くだけです。その姿は「悟りを得た人」と何ら変わることがありません。

 もちろん「悟り」を得た人の「課題」は、子孫を増やすことではありません。子孫を生むことは、すなわち「苦」を生むことですから。
 といっても、子孫を生んではいけない、というわけでもありません。それは「生命体」として矛盾することであり、「知っている通り」ではありません。
 すると、「悟り」を得た人の「課題」とは何かと言えば、後に続く人を「悟り」に導き、人間の「苦」を解消させることにある筈です。

 「仏教」のなかでも、「大乗仏教」は、人類全体を「苦」から「救済」するという目標をかかげ、「出家」による「修行」をしなくても、「在家」のままで「救済」される方法を考え、「浄土宗」などのように、「初期仏教」から見たら、「仏教」とは思えないような「発展」を遂げた宗派もあります。
 逆に「大乗仏教」から見れば、「部派仏教」は、個人の「悟り」ばかりで、「人類全体の救済」を考えない「小乗仏教」という批判の対象になりました。
 といっても、もともとインドでは「仏教」の基盤は弱く、民衆は専らヒンドゥー教を支持しており、「仏教」に力があったのは、権力から擁護された期間だけでした。
 やがて、ヒンドゥー教からの弾圧に加え、イスラム教徒による破壊に遭い、「仏教」は、かつて論争を戦わせた「部派」も「大乗」も、インドからは消滅してしまいました。
 チベットや中国など、北方に発展した「大乗仏教」と、スリランカやタイなど、南方に発展した「部派仏教」とは、その後、実際に大きな論争をしたこともありません。

 なかでも日本の「大乗仏教」は、「葬式仏教」などと揶揄されるように、いつの頃からか、「悟り」どころか、「悟り」のイメージすら提示できない状態にあり、「オウム問題」などに対しても何ら寄与するところもなく、「人類全体の救済」などとは縁遠い話です。
 お釈迦さまは「苦行」を禁じたことが知られていますが、しばらく「苦行」すると、必ず、幻覚を見たり、幻聴を聞くようになり、それを「悟り」と勘違いする人がいます。これが長老の言う「悪魔」であり、実は自分で作り出した「妄想」なのです。  
 なかには、「○○如来」や「○○菩薩」に逢ったという人もいて、「神秘体験」と思い込んでしまうのも無理もないのです。
 しかし、「霊」が見えるとか、「神」と話が出来るなどと言っているうちは、古代のシャーマンと特に変わりなく、現代では影響力が小さいのでまだ良い方というべきです。
 ところが、「オウム」などのように、自分を「最終解脱者」などと信じ込み、さらに、信者を集めて同じような「苦行」をさせると、やはり似たような「神秘体験」をするため、集団で「妄想」状態になってしまいます。そうなると、もう手がつけられません。 

 その点、スマナサーラ長老の提唱する「上座部仏教」は、きちんと「悟り」のイメージを提示しており、「オウム」の言うような「解脱」は「妄想」に過ぎないことが、はっきりと理解できるはずです。
 「オウム現象」は、日本の「大乗仏教」が「悟り」のイメージを提示できなかったことに、その原因の一端というよりは、かなり多くがあることは否定できない筈です。
 もっと「悟り」のイメージがはっきりしていれば、「オウム」などにだまされる人は、あれほどはいなかったかも知れません。

 これは「大乗仏教」や「部派仏教」も含めた「仏教」全体に言えることですが、「オウム現象」のもうひとつの原因として「個人崇拝」や「権威主義」という問題が挙げられます。
 つまり「ブッダの教え」だから何でも正しい、とか、逆に、「ブッダの教え」は素晴らしいから「ブッダ」も素晴らしい「人格者」だとか「超人」ということになりがちです。
 日本では、弘法大師とか、法然、親鸞、日蓮など、宗派の開祖が崇拝され、現代でも、麻原彰晃のような新興宗派の開祖までが「個人崇拝」の対象になります。
 現に、島田正巳という仏教学者は、麻原彰晃が「テレビの時代劇はやたらに人を殺すから、たとえフィクションでも見るべきではない」と言ったのを、「これこそ本物の仏教者だ」と評価してオウム贔屓になり、事件の発覚後に大学を辞める羽目になったものです。

 「南華密教」は、元時代に中国に伝わった「チベット密教」がベースになっており、さらに中国の、儒教、道家思想、道教などを取り入れて、独自の発展を遂げたものです。
 儒教には「権威主義」や「個人崇拝」を排除する思想があり、なかでも『論語』の次の文章は、「南華密教」の重視するところです。

 勿以言挙人  言を以って人を挙げる勿れ 
 勿以人廃言  人を以って言を廃する勿れ

 素晴らしいことを言ったからといって、立派な人だと思ってはいけません。
 つまらない人が言った事だからといって、無視するべきではありません。

 つまり、麻原彰晃のように、いくら立派なことを言ったからといって、言うだけなら誰でもできるもので、それだけで信用してはいけない、ということです。
 もうひとつは、誰が言ったことだろうと、その内容次第で採用すべきで、素人の言う事だとかいう理由で、軽視してはいけないということです。
 すると、当然に、偉い人の言う事だからといって、何でも素晴らしいとか、正しいとは限らない、ということになります。

 もうひとつ大事なことは、「仏教」では、お釈迦さまは、その出自から、生まれつき特別で素晴らしい人とされていますが、「南華密教」の考え方は違います。
 釈迦という、もともと平凡な普通の人間が「悟り」を開き、大いなる「智慧」を得て「仏」になった。「悟り」とは、人間の「苦」を解消し、「仏」にするための偉大な「ノウハウ」である。
 つまり、お釈迦さまは、イエス・キリストのような「神の子」などではなく、ただ、少し裕福な家に生まれて、知識豊かな、しかしごく普通の青年でしたが、現実に絶望して出家し「苦行」で死に掛けたところを、村の娘(スジャータ)のくれた乳粥で命を救われ、「なんだ、こんな苦しい修行よりも、たった一杯の乳粥のほうが、ずっと素晴らしく、私の命を救ったではないか」、と「悟り」を開き、菩提樹の下で「大いなる智慧」を完成させました。

 通常、お釈迦さまは、「菩提樹」の下で「悟り」を開いた、と言われますが、「乳粥」で助けられた時に「悟り」を得た、と考えるのは、「南華密教」における、実際の「悟り」体験から来る「イメージ」があるためです。
 「修行」だ「断食」だ、と肩に力が入っているうちは、なかなか「悟り」を得られません。力がスッと抜けたとき、不意に「悟り」が訪れます。
 余談ですが、長い断食の後では「乳粥」のような流動食が良く、急に「おにぎり」など食べますと、咀嚼できずに、詰まらせて死んでしまうことがあると言われています。

 「仏教」の素晴らしいところは、「普通の人間」が「修行」によって「悟り」と「智慧」を得て、「仏」になれる、というところにあり、「権威主義」や「個人崇拝」は、本来の「仏教」の良さを台無しにしてしまいます。



おわりに まことの般若心経 
   仏教は「真理」、すなわち普遍的で客観的な事実を示し、真理に基づいて、苦しみの輪廻転生からの解脱、これ以上ない幸福の境地「涅槃」に至る道を説きます。
 世間の意見はつまるところ偏見で、異論も反論も成り立ちます。昨日「正しい」と賞賛されたことが、今日「間違っている」とこき下ろされるのは普通です。平和な社会の犯罪者が、戦場の英雄となるのです。
 しかし真理には、異論が成り立ちません。
「一切は無常。生きることは苦である」
 これは否定のしようがない真理です。だから仏教は真理に基づき、どのようにすれば生命が幸せに至るのか、論理的、具体的に説くのです。真理に基づくので、仏教には普遍性があるのです。・・・・・
 仏道は、自分の心を高める実践です。仏教とは道徳を守り、慈悲の心で、最高の幸福にチャレンジするのです。本人が精進せすに幸福になるなどという甘い話ではありませんが、苦行の類は一切なく、誰にでも実践が可能です。仏教を実践するなら、誰でもその場で幸福を感じられます。
 ですから仏法が明らかであるならば、「誰にでもできるように簡単にしよう。それが衆生を救うことだ」と考える必要はありません。「誰でも実は悟っている」とか、「どなたかが救い上げてくれる」とか、「この呪文を唱えたら涅槃に到達します」とか言うのは、いかがなものかと思います。そのうえ、「これが本当にお釈迦さまが言いたかったことだ」と創作するのはやりすぎです。
 仏教は、仏陀の教え。まことの般若心経(智慧のエッセンス)は、お釈迦さまの真理の言葉です。皆様には、お釈迦さまの教えを実践して、幸せになっていただきたいのです。
 生きとし生けるものが幸せでありますように。
(P.217~219)


 最後まで、「真理」すなわち「普遍的で客観的な事実」、という主張をくずしませんが、「真理」というのは「規範」であって、「事実」という「記述」とは性質が違う、という、言わば「文法的」な「間違い」に気づかないようです。

 長老の言う「空即是色は間違い」も、「色即是空は、経典に照らして正しいが、空即是色は経典にないから間違い」、あるいは、「色が空であることは正しいが、空はすべて色とは言えないから間違い」ということで、これも、広く言えば「文法的」な「間違い」という事ができます。
 また、「色」と「空」の定義が、「肉体」と「実体がない」だから、これを「リンゴ」と「果物」に置き換えると「リンゴは果物だ」とは言えても、「果物はリンゴだ」とは言えない、というのは、やはり「文法的」な「間違い」ということになります。
 
 つまり、長老の、「空即是色」が「間違い」と言っている論拠は、実は「文法的」な「間違い」の指摘、というべきで、長老自身が「真理」という「規範」を、「事実」という「記述」として表現している「間違い」と変わるところがありません。
 しかも、「色」の定義を「現象の認識」、「空」の定義を「関係の認識」とすれば、「空即是色」は「文法的」に問題なく成立しますから、長老の言う「間違い」は、定義の問題にすぎません。
 もし、定義の違いを「間違い」というなら、それはただ、自分の考えと異なるものはすべて「間違い」と言っているだけのことになり、とても「客観的」とは言えません。

 また、長老は、“「一切は無常。生きることは苦である」これは否定のしようがない真理です。”と言うのですが、「諸行無常、一切皆苦」と、「一切は無常。生きることは苦である」とは、全く同じでしょうか。言葉使いは正確にしないと、意味が違ってくることがあります。

 「仏教」で「一切」という場合、「一切法」を表すという定義があり、「法」とは、規範としての「法」、つまり「五蘊、十二処、十八界、十二縁起、四聖諦」などの「法」と、「記述」としての「法」つまり「あらゆる存在や現象」という意味があります。
 いずれを取るにしろ、「一切皆苦」は、すなわち「生きることは苦である」という意味になるでしょうか。
 また、「生きることは苦である」とは「真理」と言えるのでしょうか。
 確かに、「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、寂静涅槃」という「四印」は、「ブッダの教え」として争うところがなく、「仏教徒」にとっては「真理」と言えるかもしれません。
 しかし、「仏教徒」以外の人から見れば、「真理」でも何でもなく、あまり「普遍的で客観的」とは、言えませんし、「事実」と言えるか、となると、「仏教徒」だってそうとは言い切れません。
 逆に、「生きることは苦である」というのは、もしかしたら「普遍的な事実」かも知れませんが、かなり「主観的」であり、「生きることは楽である」という人が一人でもいたら、「事実」とは言えませんし、まして「真理」などとは、とうてい言えません。
   
 “「誰でも実は悟っている」とか、「どなたかが救い上げてくれる」とか、「この呪文を唱えたら涅槃に到達します」とか言うのは、いかがなものか ”と言われますと、確かにどうかと思います。
 ところが、「誰でも実は悟っている」は、「人間以外」と付け加えれば、「間違い」ではありません。
 「どなたかが救い上げてくれる」のも、「念仏で頭を空白」にできた人だけですから、長老の言う「無価値」を知った人と、実はあまり変わりがないかも知れません。
 「この呪文を唱えたら涅槃に到達します」とは誰が言うのでしょうか。『般若心経』なら、そうは言っていませんし、どの宗派でもそんな便利な「呪文」があるとは思えません。「求聞持法」などで「涅槃」に到達したという話も聞きません。

 ご自分の「仏教」を、“「衆生の救済を目指さない教えだ。自分の悟りにしか関心がない教えだ」と批判する向きもありますが、それは誤解の極みです。”と言うように、長老もまた「大乗仏教」を「誤解」しています。

 日本の「大乗仏教」の最大の問題点は、「教理」の問題などより、一番肝心な「悟り」のイメージを提示できないことにあります。 
 「上座部仏教」は、それができるのですから、もっとそこをアピールして貰いたいものです。「教理」や「解釈」の問題だと、今回のように「間違い」という事になるか、せいぜい「水掛け論」になるだけです。
 「部派」だろうと、「大乗」だろうと、構いませんが、「悟り」のない「仏教」では、どうにもなりません。


 これまで、当ブログでは、十五回に亘って、スマナサーラ長老の著書『般若心経は間違い?』について、その「間違い」を論じてきました。
 しかし、その「般若心経は間違い」という指摘について、『般若心経』をもてはやしてきた、日本の仏教者からは、これまで、何の「反論」もありません。


 「南華のブログ(当時)」では、「南華密教」の立場から、「反論」を試みました。あくまでも「南華密教」の立場からの「反論」ですから、「日本仏教」にとってそれほど都合の良い話ばかりではありません。
 特に、「日本仏教」が、『般若心経』を、なかでも「空即是色」を全く理解できていなかったことが、スマナサーラ長老によって暴露されましたが、当ブログでもその点は否定していません。

 同書の「著者紹介」によると、長老は、駒澤大学の博士課程で「道元」の思想を研究されたそうです。つまり「日本仏教」に関する知識について、不足はないはずです。
 当ブログの考えでは、長老は、「玄奘訳」『般若心経』を正しく理解できていません。しかし、長老の『般若心経』に関する理解は、「日本仏教」のそれと、基本的には違いがありません。
 「日本仏教」は、『般若心経』をきちんと解釈できていないことに、今まで気が付かなかったのですから、長老の「間違い」の原因は、「日本仏教」にあると言うべきです。

 この『般若心経は間違い?』という本は、「日本仏教」にとって、その真価を問われる著作なのですが、果たして、「日本仏教」は、筋の通った「反論」が出せるのでしょうか。
 「反論」といっても、「空即是色」は「空=色」の意味ではない、というようなものでは「反論」にならない事は、ここまでお読みいただいた方は、よくお分かりかと思います。        


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コメント
 
http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/10/post_51f4.html
 
より転載させていただきます。

マダム・エムさま
 
 “『般若心経は間違い?』の間違い (十五)”をTBさせていだきました。
一応、最終回です。

 マルティン・ルターは、近代ボーリングの創始者としても知られています。
 それまで、まちまちだったピンの数を9本に決め、ダイヤモンド型に配置したのですが、後にアメリカ合衆国で、ボーリングブームが過熱し、9ピンボーリングを禁止したところ、10ピンで営業する者が現れ、現在の形が定着しました。

 ルターは、ボーリングを悪魔祓いの儀式に利用し、民衆の前で、「このピンを全部倒せたら神の義が自分にある」と説教しながら、ストライクを連発し、大いに支持を集めたといいます。
 彼は「ポケット」を知っていたのかもしれません。ルター以外は、滅多にストライクを出せなかったので、無知な民衆は、ルターを「超人」と考えたのでしょう。
  
 ドイツ農民戦争では、プロテスタントの教説を信じて領主に反抗する農民の虐殺を容認し、領主からの支持を集めたり、相当に生臭い人のようにも見えます。

 農民の反抗は、「悪い人が悪い行いをした」と考えたのでしょうか。元をただせば、カトリック教会や領主制度を批判した、自分の教説が農民の反抗を呼んだのに。
 

投稿 南華 | 2007/10/31 09:54

| | 2007/10/31 9:20 PM |



南華さま

トラックバックありがとうございます。
いよいよラストですね。では、ゆっくり拝読させていただきます。

> それまで、まちまちだったピンの数を9本に決め、ダイヤモンド型に配置したのですが、

いわゆる九柱戯っていうのかな?
ルターはボーリングが得意だったのですか。ストライク連発はすばらしい。おもしろいですね。

> ドイツ農民戦争では、プロテスタントの教説を信じて領主に反抗する農民の虐殺を容認し、領主からの支持を集めたり、相当に生臭い人のようにも見えます。

そうですね。しだいに保守的になっていくのでしょうか。前半生と後半生でだいぶ違うのかしら。
南華さま、いろいろ詳しいんですね。勉強になりました。ルターはボーリングが得意っていうのは、メモしておこうっと。

投稿 管理人エム | 2007/10/31 21:11

|| 2007/10/31 9:24 PM |


 

コメント

http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/10/post_99a2.html
より転載させていただきました。

南華さま

「『般若心経は間違い?』は間違い」(十五)を拝読し終わりました。熱いです。南華さまの気持ちが伝わってきます。とてもおもしろかったです。

率直に申しあげますと、スマナサーラ長老さまの文章も説得力があり、それと同時に、南華さまの文章にも説得力があります。
南華さまの「色蘊」などの科学的な解釈に対する警鐘は、わたしも同じような感触をもちます。

> ところが、この言い方だと、「物質」そのものには「実体」がないにしても、「物質」を「物質」たらしめている「波動」など、「エネルギー」という「実体」がある、と言われれば、やはり「水掛け論」になってしまいます。

> そもそも、「物質」を構成する「素粒子」は、特定できない、というのが「素粒子論」であり、現代の「空」論は、それをかりて、「物質」には「実体」がない、ことの論拠としているのですから。 

このあたりのご説明は、もう、ほんとにおっしゃるとおりです。
部派は、世俗諦を積極的に説きますから、どうしても実在論に傾きやすい傾向があると思います。その点を示唆されていると思います。

ただ、その点、スマ長老さまも「空」ということをよくご存じなので、かなりうまく説明されていると思いますが、それでも、このような反論をもらってしまうのですねぇ。
 
一般の人にわかりやすくすると、素粒子論を借りることが多いのですが、世俗諦の話ならまだなんとかいけるとしても、「空」の説明にはまずいと思います。
スマ長老さま、世俗諦にとどめて、ここは微妙にうまいことすり抜けてるように思います。

このようなことを申しあげては失礼ですが、けっこう、楽しい論戦です。南華仏教と部派仏教と、お互いに自分の主張すべきことがしっかりありますので、そこを基盤に揺るがないのだと思って、拝読しました。
いろいろご批判は、「なるほど」と思うものもあり、また、「これはちょっと」と思うものもありますが、学問上のことは、両派にとって結局些末であると思いました。

たいへん興味深かったのは、「悟り」のイメージという点で、部派との共感を述べておられるところです。

>  もちろん「知らない」ことについては、答えが出せませんから、「知らない」ことには、はっきりと「知らない」と言えなければなりませんし、「知っている」ことについては「知っている通りに行動できる」のでなければ「知っている」とは言えません。

これぞ、ブッダの悟りですね!
思考を排除して、「悟り」を瞑想によって得ようとするとき、ほんとうは、このような『般若心経は間違い?』で述べていることや南華さまのブログにあるようなことは、ほとんど必要のないことで邪魔なことなのだと思います。ただ、一般の人に誤解なく仏教を伝えようとするところで、このような論争は必要になると思います。
そして、この論争で明らかにされねばならないのは、結局、「色即是空、空即是色」とは何か、言語上の論戦に終わらない解釈であると思います。要するに、「悟り」のイメージを言語化するという段階まで高めた説明です。

南華仏教では、以前に、玄奘訳に基づいて解釈するとおっしゃっておられたので、立場ははっきりしていると思います。ほんとは、もう少しよく、わたしの方は南華仏教をよく勉強しなければならないのですが、ブログだけしか知らなくてすみません。
南華仏教は、部派の反論に答えた、ということで、ご自分の立場を明らかに確立されました。
そのように、わたしは受けとりました。

他の大乗仏教は、どうなのかわかりません。答えねばならないのではないかと思いますが。

で、わたしとしは、「悟り」の行も何もないので、スマ長老さまの「思考するならまだまだバカ」という、この「思考」を「瞑想」として進まなければなりません。バカも極めれば、なんとやら。。というところに賭けるわけです。

そのような、思考バカの立場からいいますと(笑)、『般若心経は間違い?』の説明の中で、もっとも、納得してしまったのが、「『般若心経』はあまり勉強していない人が作った経典ではないかな」(一〇一頁)というスマ長老さまの言葉なのです。

今のところ、この意見、わたしとピッタリなんですよ。「ああ、やっぱりなぁ」という感じです。気持ち的には、『般若心経』の思想はわかるんです。思想は高度です。そして、その点、その気になれば、わたしはかなりうまく説明できるのじゃないかと思います。
思いますが、それを言えないのは、ただ一つ、自分のよりどころの「思考バカ」の立場なんです。それが、説明を許さないのです。論が、「龍樹くずれ」で、どうしようもない感じなのです。
ただ、これは「今のところ」です。言語・文法を超えた「瞑想」の観点というのをもっと「思考」に入れていくと、また、ちがってくるのかもしれません。
『般若心経』は、先の長い仕事になりそうですが、ぼちぼちやっていきたいと思っています。

南華仏教の禅のお話しをもっとおうかがいしたいです。たいへんなご労作をありがとうございました。


投稿 管理人エム | 2007/11/04 12:04

| | 2007/11/04 1:53 PM |


マダム・エムさま

 丁寧なご批評ありがとうございます。
 しっかりと読んでいただきまして、御礼申しあげます

 ただ、南華仏教ではなく、「南華密教」です。
 「南華密教」につきましては、『密教秘伝-「西遊記」-張明澄、究極の密教を語る-』(張明澄著・東明社刊)に、基本的なことはほとんど書かれていますから、是非お読みください。(ブログ記事に「はじめに」を掲載しております)

 「悟り」とは「知っている通りに行動できる」ことであり、持っている「知識」が間違っていたら悟っても仕方がない、というのが「南華密教」の立場ですから、「八正道」の「正見、正思、正念、正定」には特に力点を置いており「実学」が充実しております。
 ルターの「ボウリング」の話も「実学」で扱ったものです。

 「禅」につきましては、「南華密教」とはまた別の話で、張明澄師は、「南華密教」の他に「雲門禅」を継承しており、我々も「雲門禅」を伝授されております。

 「雲門禅」から見ると、日本の「禅」はかなりいい加減で、例えば、『無門関』「十四・南泉斬猫」にある「趙州頭戴草鞋」のような非常に有名な公案が、まるで頓珍漢な解釈になっています。

 そこで提案ですが、先日の「自己より愛しいもの」の時のように、この公案を出題されたらいかがでしょう。
 有名な公案なので、ネット上にも、原文、読み下し、解釈、等いろいろありますから、参考にされたらよいかと思います。

投稿 南華 | 2007/11/04 16:20

| | 2007/11/04 4:33 PM |


南華さま

> ただ、南華仏教ではなく、「南華密教」です。

申しわけありません。部派仏教と書いたとき、筆がすべってしまいました。おわびして訂正します。
これから暇をみて『密教秘伝-「西遊記」-張明澄、究極の密教を語る-』(張明澄著・東明社刊)、ぜひ拝読させて頂きます。

>  そこで提案ですが、先日の「自己より愛しいもの」の時のように、この公案を出題されたらいかがでしょう。

おお、なんたるご発想。思いもよりませんでした。でも。。。おもしろいかもしれませんね。。。ちょっと検討してみましょう。
案外、いけるかな、どうでしょうか。

どうもどうも授業のテーマまでいただいて、ほんとうにありがとうございました。

投稿 管理人エム | 2007/11/05 21:21

| | 2007/11/05 9:44 PM |  
 

 『般若心経は間違い?』の間違い(全十五回)を読む  

 

張明澄師 南華密教講座 DVD 有空識密 智慧と覚悟

 

張明澄講義《員林学》講座 DVD 儒 道 易 禅 経世済民

 

  お申し込み先  

日 本 員 林 学 会  

  代表 掛川掌瑛(東海金)  

☎Fax 0267-22-0001

E-MAIL    showayweb〇msn.com    


 


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