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(古今集294).ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは (伊勢物語)
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この本は「教科書」「参考書」の類ではありません。
皆さんに「教える」のではなく、どちらかと言うと、皆さんと「一緒に考える」ことを企図して書かれた本です。
また、私の主観も随所に入っていますが、私はこの方面の専門家でもありません。
ですから、
<効率よく知識を仕入れる><勉強のトクになるかも>
などとは、間違っても思わないようにして下さい。
いわゆる「学習」「勉強」には、むしろマイナスに働くでしょう。
上記のことを十分ご了解の上で、それでもいい、という人だけ読んでみて下さい。
ただし、
教科書などに採用されている、標準的な解釈の路線に沿った訳例は、参考として必ず示してあり、
その場合、訳文の文頭には、「@」の記号が付けてあります。
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時々「(注)参照」とありますが、それは末尾の(注)をご参照下さい。
ただし、結構長い(注)もあり、また脱線も多いので、最初は読み飛ばして、本文を読み終えたのちに、振り返って読む方がいいかもしれません。
なお、(注)の配列順序はバラバラなので、(注)を見るときは「検索」で飛んで下さい。
あちこちページを見返さなくてもいいように、ダブる内容でも、その場その場で、出来る限り繰り返しを厭わずに書きました。
その分、通して読むとクドくなっていますので、読んでいて見覚えのある内容だったら、斜め読みで進んで下さい。
電子ファイルだと、余りページ数を気にしなくて済むのがいいですね。
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(伊勢物語).ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは-9.txt
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要旨:
藤原高子と在原業平の禁断の恋は、「伊勢物語」きってのラブロマンスとして知られている。
「ちはやぶる(血は破る)」<血統は破れる><(天皇家の)血統が破断する>の連想から、
<清和天皇に嫁いだ藤原高子の息子、後の陽成天皇の実父は在原業平である>との想定に基づいて和歌を解釈した。
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目次:
(古今集294).ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは (秋下、在原業平)
(古今集293).もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き波やたつらん (素性法師)
メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など
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では、始めましょう。
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詞書:
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる。
(古今集294).ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは (秋下、在原業平)
これは、「伊勢物語」第106段「竜田川」に出てくる和歌です。
(伊勢物語).ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは
「ちはやぶる」は「神」を導く枕詞。
「神代も聞かず」<神代の昔から聞いたことがない><前代未聞だ>
「龍田(たつた)川」<奈良県生駒郡を流れる生駒川の下流><紅葉の名所>
「からくれなゐ(唐紅)」<鮮紅色>
「くくる(括る)」ラ行四段<括る><結んでまとめる><束ねる><縛る><縛りとめる><束縛する><「くくり染め」にする>
「くくり染め」とは、染色法の一種で、別名「しぼり染め」とも言います。
<首をくくる>の意味もあります。
「くぐる(潜る)」ラ行四段<くぐる><物の間や下を抜けて通る><すり抜ける><(水に)潜る>
「水にくぐる」<水に潜(もぐ)る>
<入水する>の意味もあります。
これらは、濁点を打つ習慣のなかった当時、ともに、「くくる」と表記されました。
「首をくくる(括る)」<縊死する>
「水にくぐる(潜る)」<入水する>
@(伊勢物語)A.
(人の代はもちろん)、神代の昔の話としても聞いたことがない。
竜田川が、(流れる紅葉で)水を真紅に「くくり染め」で染めているとは。
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「千早(ちはや)」<女性(芸者、遊女)の名前>
「神代(かみよ)」<女性(芸者、遊女)の名前>
「竜田川」<相撲の力士の名前>
「とは(永久)」<女性の名前>
「からくれなゐ」<(豆乳の絞りかすの)「おから」すらくれない>
(伊勢物語)B.<落語>
千早という女郎に振られ、(神代というその妹にも振られた)竜田川(という力士が、引退して豆腐屋を始めた。そこに落ちぶれた神代がやってきて、何か食べさせて欲しいと言う。竜田川は、その)神代の言葉も聞かず、「おから」すらくれないので、(神代は仕方なく)水に入って(死んだ)。「とは」(は神代の本名だ)。
これは、有名な落語です。最後の本名「とは」が傑作ですね。
やはりこれくらい行間が読めないとダメですよねww
私も精進します。
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***「業平の義理の父」<紀静子の兄>***************************
日本一の美男子として名高い彼は、清和天皇が幼帝だったころに、その婚約者でもあった藤原高子と恋愛し、問題を起こしたと伝えられている。これを単なる伝説だと考える学者もいるが、彼の義理の父が、藤原氏の血を引く清和天皇と皇位を争った惟喬親王の生母であった紀静子の兄であることを考えれば、決して有り得ない話ではない。
業平は、当時、唯一天皇と釣り合う年齢にあった藤原氏の娘、高子を誘惑することで、藤原氏の勢力拡大を妨害するという使命を担っていたのかもしれない。
(井沢元彦「井沢式日本史入門講座4 怨霊鎮魂の日本史」)
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***「伊勢物語」「在原業平」「藤原高子」<駆け落ち><皇族・紀氏の反藤原連合の陰謀?>***************
在原業平自身は、父親は平城天皇の第一皇子である阿保親王、母親は桓武天皇の皇女である伊都内親王という、由緒正しき皇族でしたが、「在原」姓を賜り臣籍降下しました。
日本一の美男子といわれた彼には、昔から清和天皇のお妃である藤原高子を口説いて駆け落ちしてしまった、という有名な伝説があります。
一般的にそれは単なる伝説だと言われているのですが、私はこの話はあながち伝説ではないのではないかと思っています。というのは、この時代、清和天皇とつり合う藤原氏の女性は、高子さんしかいなかったからです。もし、業平が高子さんを誘惑して奪ってしまえば、藤原氏は、自分の娘を天皇の嫁にして、生まれた子供を天皇にするということができなくなってしまいます。
ですからひょっとしたら、皇族・紀氏の反藤原連合の陰謀として、そうしたことが実際にあったのではないか、という考え方も出来るわけです。
(参考:井沢元彦「井沢式 日本史入門講座4」)
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「藤原高子(たかいこ)」別名「二条后(にでう(ニジョウ)のきさき)高子」は、藤原長良の娘で、清和天皇の女御となり、貞明親王(のちの陽成天皇)を産みます。
藤原高子は、自分より八歳も年下の、まだ幼い惟仁親王(後の清和天皇)を結婚相手として無理矢理当てがわれました。
しかし、高子の真の想い人は、17歳年上の、平安イケメンの代名詞、在原業平でした。
業平は源氏物語の光源氏のモデルの一人とも言われています。
ふたりの禁断の恋は、「伊勢物語」きってのラブロマンスとして知られています。
歌の詞書き:
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むかし、おとこ、みこたちのせうえう(逍遥)し給ふ所にまうでて、たつたがはのほとりにて、、、、
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この歌は、高子が貞明親王(のちの陽成天皇)を授かった時のお祝いの宴席で、在原業平が詠んだ屏風歌として知られています。
在原業平は、平城天皇の第一皇子の阿保親王を父にもちますが、臣籍降下して在原姓を賜りました。
宮中の出世コースは藤原氏の上級貴族たちで占められており、栄達の見込みは殆どありませんでした。
高子は、皇后としてどんどん貫禄を付けて行き、そんな業平を何かと引き立て、そこそこ出世させたようです。
つまり、清和天皇の皇后でありながら、ずっと業平のことを思い続けていたのでしょう。
(辛酸なめ子、堀江宏樹「天皇愛」)
貞明親王(のちの陽成天皇)は、本当に清和天皇の子だったのでしょうか。
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「龍田川」は<紅葉の名所>として知られます。
「唐紅」の<鮮紅色>は、「血」の色を思わせます。
水面が真っ赤な紅葉で覆われた一本の川は、まるで一条(ひとすじ)の「血の流れ」のようです。
それは、天皇家の<血筋><血脈>をも連想させます。
「唐紅」<血流><血脈><天皇家の血筋>
清和天皇のような純粋な皇族の血と比べ、臣籍降下した在原業平の血は、いわば薄まっています。
それは、「血」ではなく、「水」の流れを連想させます。
高子皇后と在原業平の交わりは、
「血流」と「水流」の<合流>を連想させます。
「みづ(水)」が「みつ(見つ)」との掛詞として常用されることも興味を引きます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「みつ」と表記されました。
「見る」には<男女の関係になる><契る><結婚する>という意味があります。
「みつ(見つ)」<恋仲になった><契った>
***「みづ(水)」「みつ(見つ)」********
(平中物語).かれぬ身を燃ゆと聞くともいかがせむ 消ちこそしらね「みづ」ならぬ身は
@(平中物語)A.
<枯れぬ生身を焦がす>と承っても、どうにもなりません。
私は<水>ではないのですもの、"見つ"<お逢いすること>のない身では、消すすべもありません。
(小学館「日本古典文学全集」平中物語)
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***「宿」「雲居雁」***************
(夕霧17).なれこそは岩もるあるじ見し人のゆくゑは知るや「宿」の真清水
(雲居雁4).なき人のかげだに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの水
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詳細はこの和歌のファイルをご参照下さい。
「一条の滝」などというように、「条(でう)(ジョウ)」「条(すぢ)」は、<線状の物><細長い物>を数える単位として用いられます。
これは、現代の中国語にも見られます。
高子皇后の別名「二条后」<二条通りに邸がある皇后>は、
「二条(ふたすぢ)」の<流れ>
を連想させます。
「唐紅」<鮮紅色><血の色><純血><天皇家の血統>
「ちはやぶる(千早振る)」は「ちはやぶる(血は破る)」
を連想させます。
「やぶる(破る)」ラ行下二段自動詞<破れる><壊れる><砕ける><崩れる><負傷する><だめになる><敗北する>
「ちはやぶる(血は破る)」<血筋が破れる><血統が破断する><(天皇家の)血統が敗れる><(天皇家の)血統が壊れる>
「神(かみ)」は「上(かみ)」をも連想させます。
「上(かみ、うへ)」は<目上の人の尊称><貴人の尊称>ですが、<天皇の尊称>としても常用されます。
「上(かみ、うへ)」<主上><天皇の尊称><おかみ>
***「上(かみ)」<主上><天皇の尊称><おかみ>*******
吾は兄なれども、「かみ」となるべからず。
(「古事記」中巻)
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「かみ(神)」<神><天皇の尊称>
***「かみ(神)」<天皇の尊称>***********
(万葉集18/4111).かけまくも あやに畏し 天皇(すめろき)の 「神」の大御代に、、、
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「神代も」の「よも(代も)」は「よも」を連想させます。
「よも」<(打消を伴い)よもや~しない><決して~しない><断じて~無い><全く~無い>
「神代も聞かず」<神代の昔から聞いたことがない><前代未聞だ>
「神よも聞かず」<神「天皇」は全く知らなかった><畏れ多い「天皇」の言葉に耳を貸さなかった>
「たつたがは(竜田川、龍田川)」は
「たつ(断つ)」「たか(高)」「は」
を連想させます。
「たか(高)」<高子><二条后>
としてみましょう。
「水」<在原業平の血><薄まった天皇家の血統>
「二条后」の「二条」は、
「一条(ひとすぢ)の血流」と「一条(ひとすぢ)の水流」を束ねた<合流>
を連想させます。
藤原高子と在原業平の「水」の交わりによって、断ち切られた「清和天皇から陽成天皇に繋がる血統」の<鎮魂>の観点から、この歌を解釈してみましょう。
千早振る 代も 龍田 川 括る
ちはやぶる / 神 よも 聞かず / たつ たがは 唐紅 に 水 くくる とは
血は破る 世も 断つ たかは くぐる
高 潜る
(伊勢物語)C.<鎮魂>
「ちはやぶる(血は破る)」<天皇家の血統が敗れる><天皇家の純血が破断する>だって?
神代の昔から、そんな話<不義>は聞いたこともない。
(神=天皇家の言うことも全く聞かず)、
(清和天皇から陽成天皇に繋がる血筋を)断ち切った「たか(高)」<高子><二条后>は、
「唐紅」<鮮紅色><血の色><天皇家の純血の血統>に、
「水」<在原業平の血><薄まった天皇家の血統>を「括る」<束ねる>とは。
「唐紅に水潜る(くぐる)とは」なら、
<(表面は真っ赤に見える)天皇家の純血の下に、在原業平の水(薄まった天皇家の血)が流れているなんて!>
とでも言ったところかも知れません。
水面を覆った真っ赤な紅葉の葉をめくり上げて、その下を覗いて見ると、
そこには透明な水が流れていただけだった、
ということです。
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高子の清和天皇への入内が遅れたのは、年齢差の為ばかりではなく、業平との関係が知られてしまったため、後見の良房が入内を躊躇したからだ、との説もあるそうです。(wikipedia)
貞明親王(のちの陽成天皇)の本当の父親は、清和天皇ではなく、在原業平だった可能性もあるのではないか、と私は思います。
そして、「ちはやぶる(血は破る)」<天皇家の血筋が破断した>の和歌は、
臣籍降下した家格によって出世コースから閉め出されていた在原業平から、朝廷の上級職を独占する皇族と少数の上流貴族たちに対する、せめてもの「しっぺ返し」のメッセージだったのではないでしょうか。
無論、おおっぴらにそんなことを言えば、直ちに自分は流罪になり、高子は廃后とされてしまうでしょう。
もっとも、どの道恋多き女、高子は、業平亡き後、五十過ぎてからも幽仙や善祐という僧侶たちとの情事がバレて、廃后になってしまったわけですが。。。
ちなみに坊主の善祐は伊豆に流刑となりました。高子さんは結構人騒がせな女性だったようです。
在原業平は、あからさまには言えない「しっぺ返し」「してやったり!」のささやかな快哉を、和歌に隠して伝えているように見える気もします。
まあ、単なる「強がり」「遠吠え」なのかも知れませんが。
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***「古今和歌集」と「紀氏」<鎮魂>*******************
源氏物語に先立つ勅撰和歌集「古今和歌集」は、紀貫之や紀友則で知られる「紀氏」が編纂に携わりました。
ちなみに、勅撰和歌集とは天皇の命令(勅命)により国家事業として作られる和歌集のことです。
「古今和歌集」では、僧正遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主らが「六歌仙」と称えられています。
その六歌仙に、僧正遍照や大友黒主など、他の歌集ではさほど取り上げられない人が含まれていることや、彼らがみな惟喬親王の側近であったり、血縁者であったりしたことから、「古今和歌集」は紀氏を始めとする藤原氏による他氏排斥の被害者の<鎮魂>のために作られたのだろう、と井沢元彦さんはおっしゃっています。(井沢元彦「常識の日本史」)
文徳天皇に嫁いだ紀名虎の娘、紀静子が産んだ、紀氏の最後のホープ、惟喬親王は隠棲の地小野で897年に亡くなりました。
その八年後の905年、醍醐天皇の勅命によって、「古今和歌集」が編纂されます。
その撰者に選ばれたのは紀氏の子孫である紀貫之でした。
(参考:井沢元彦「井沢式 日本史入門講座4」)
この頃には、藤原氏の独走態勢は確立しており、紀氏の家格は、政界の主要ポストを望めるようなものではなくなっていました。
つまり、藤原氏の独裁が完成したのを見計らって、その<鎮魂>のための「はなむけ」として紀氏が抜擢されたのです。
文徳天皇は、良房の娘、明子が産んだ第四皇子惟仁親王が清和天皇として即位する直前に、32歳の若さで亡くなりました。
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上記の伊勢物語の和歌は、古今和歌集にも収められています。
(古今集294).ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは (秋下、在原業平)
この歌は、同じ場で詠まれた(古今集293)と、セットにして並べられています。
(古今集293).
(詞書) 二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる。
(古今集293).もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん (素性法師)
「みなと(水門、湊)」の「な」は、もともと上代の格助詞で、「の」と同じ意味があります。
「みなと」とは「水な門(と)」で、<川や海の水の出入り口><水門><河口><船着場>の意味です。
そこから<物事が行き着く場所>という意味が生じました。
***「みなと」<物事が行き着く場所>************
(新古今集169).暮れて行く春の湊は知らねども 霞に落つる宇治の柴舟 (二、春下、寂蓮)
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ここでは、「みなと」とは、<川面の紅葉葉が流れ集まって溜まっている場所>を指します。
「や」係助詞<疑問><反語>
ここでは、
「や」<疑問>としてみましょう。
@(古今集293)A.
紅葉葉の流れ集まって溜まっている場所には、深い紅色の波が立っているのだろうか。
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この歌の詠み手が「素性」法師であることは興味を引きます。
「素性(そせい)」は「素性(すじゃう)」をも連想させます。
「素性(すじゃう)」<家筋><家柄><生まれ><育ち><本来の性質><本性>
「らん」は「らん(乱)」「らん(濫)」「らん(卵)」をも連想させます。
「らん(乱)」<乱れ><皇統乱脈>
「らん(卵)」<卵><托卵><陽成天皇>
(古今集294)と同様に、
「紅葉葉」「紅」<鮮紅色><血の色><天皇家の純血の血統>、
「水」<在原業平の血><薄まった天皇家の血統>
としてみましょう。
***「宿」「雲居雁」「真清水」「増し水」**********
(夕霧17).なれこそは岩もるあるじ見し人のゆくゑは知るや「宿」の真清水
(雲居雁4).なき人のかげだに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの水
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詳細はこの和歌のファイルをご参照下さい。
「ながれ(流れ)」は「なかれ(泣かれ)」の掛詞として常用されます。
「なみ(波)」は「なみ(無み)」「なみだ(涙)」の掛詞として常用されます。
「なみ(無み)」<無いこと><無いので>
「なみ(波)」は「なみだ(涙)」を連想させます。
「紅の涙」は「紅涙(こうるい)」の訓読で、
<深い悲しみの涙><血の涙>や<感動の涙>という意味を持つ慣用句です。
***「紅の涙」<血の涙>***********
藤英(とうえい:人名)、「紅の涙」を流して、恥づかしく悲しと思ひて、、、(宇津保物語「祭の使」)
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「て」は「で」を連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「て」と表記されました。
「で」= 打消「ず」連用形 + 接続助詞「て」
= <~しないで><~せずに>
を連想させます。
「紅深き波」<天皇家の血><本来の皇統>
「波が立つ」は、<次々と立ち現れる><継嗣>をも連想させます。
「や」には様々な品詞があります。
****(注669942)参照
「や」係助詞<疑問><反語>
ここでは、
「や」<反語>としてみましょう。
「紅深き波」は「紅深き涙」<血の涙><皇統断絶の悲劇>をも連想させます。
上記の連想イメージを重ねて、この和歌を解釈してみましょう。
流れ 留まる 波 立つ
もみぢ葉の ながれ て とまる みなとには 紅深き なみ や たつ らん
なかれ で 止まる 無み 断つ 卵
泣かれ 涙
(古今集293)B.<鎮魂>
「紅葉葉」<紅色><血の色><天皇家の純血の血統>が流れずに止まってしまった所には、
「紅深き波」<天皇家の血><本来の継嗣>が次々と立ち現れるのだろうか。(いや、そうではないようだ。)
(<本来の皇統>を断ち切る「らん(卵)」<托卵><陽成天皇>が立ちはだかり、
悲しい「紅深き涙」<血の涙><皇統断絶の悲劇>が流れている。)
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「源氏物語」も、藤原氏に追い落とされた他氏の<鎮魂>のために書かれた、と井沢元彦さんはおっしゃっています。
源氏物語は「ちぎり」の物語です。
しかし、それは、<男女の色恋>の物語、という意味ではありません。
源氏物語では、
「ちぎり(契り)」<絆(血筋、血縁)を結ぶこと>というコトバが、
「ちぎり(血切り)」<絆(血筋、血縁)を断ち切ること>
という、<正反対の意味>を背負わされて、暗号に組み込まれています。
「皇統断絶」とは、<天皇家の血筋が途切れる>ということであり、
「他氏排斥」とは、藤原氏が<他氏と天皇家との血縁を遮断する>ということです。
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(光源氏85).別れしに悲しきことは尽きにしを またぞこのよのうさはまされる
(夕霧21).ことならばならしの枝にならさなむ葉守の神のゆるしありきと
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「皇統断絶」については、これらの歌のファイルをご参照下さい。
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(紫上22).絶えぬべきみのりながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを
(花散里5).結びおくちぎりは絶えじおほかたの残りすくなきみのりなりとも
(薫57).法の師と尋ぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまどふかな
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「他氏排斥」については、これらの歌のファイルをご参照下さい。
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正史に伝えられない真相が、「伊勢物語」などの文学作品には書かれています。
文学作品からの情報を歴史認識に外挿することに対して、我々が慎重の上にも慎重を期さねばならないことはもちろんです。
しかし、「正史」が<隠蔽>である他はない以上、「正史」のみを絶対視することはむしろ危険であり、さらに、歴史を動かすような重要な出来事に関しては、ますます「文学」が歴史認識に重要な視点をもたらす度合いが強くなる、と私は思います。
我々は、歴史書や公的記録文書ではなく、文学作品からこそ、<歴史の真相>を探らねばなりません。
為政者に都合の悪い事実は「公式文書」には残らないことを考えれば、それは唯一と言ってもいい手がかりであるようにも思えます。
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「暗示」「象徴」による「連想」「イメージ連鎖」に基づく解釈の、極端な事例を見てみましょう。
***「連想」「イメージ連鎖」の解釈の極端な例 *************
(万葉集2-158.高市皇子).山振(やまぶき)の立ちよそひたる山清水 酌みに行かめど道の知らなく
@(万葉集2-158.高市皇子)A.山吹が傍らに咲いている山の清水を酌みに行きたいが、道を知らない。
これは、
<高市皇子が異母妹の亡き十市皇女を恋偲び、黄泉の国に思いを馳せる歌>
と解釈されるそうです。
ここでは、山吹の花の黄色の「黄」と清水の「水」が「黄泉(よみ)の国」<よみのくに><あの世>を暗示するものと考えられています。(小学館「新編日本古典文学全集、万葉集1」など)
「花」という字も「黄」という文字も、この歌には含まれていないにも拘らず。
また、「山吹」と「清水」とが何文字も離れた位置にある別々の単語であるにも拘らず。
どうですか。みなさん、この(万葉集2-158)の歌を見たとき、「黄泉」というイメージが浮かんできましたか。
私は全然浮かびませんでした。万葉集では、この歌の前に二首、この歌に関する和歌があるのですが、それを読んだ上でも、「黄泉の国」なんていう発想は全く沸いて来ませんでした。
ことほど左様に、古人の言語空間は、現代人の想像の及びもつかない、豊かな連想で結ばれた世界であった、ということなのかも知れません。
イメージのアクロバティックともいえる連結の世界に古代の人々は生きていたのです。
その中でも突出した天才である、紫式部なら、それはなおさらのように感じます。
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ところで、高校の古典の便覧などには、
(1)万葉集は、素朴に自然の美や人間の感情を詠い、
(2)それに対し、古今集の和歌は、知的に再構成された重層的な構造を持つ、
(3)さらに新古今集ではそれが技巧的に洗練され、また、別の歌を参照する本歌取りなどの手法により、和歌の奥行きが一段と深まった、
との説明があります。
素朴な感情の発露であるはずの、万葉集の歌なのに、上記の「山吹」と「水」から<黄泉の国>を暗示する、というような、断絶を含む構造、飛躍した発想があることに、みなさんは違和感を感じませんか。
***「違和感」<隠れ蓑>***************
しかし、そうした「違和感」こそ、作者たち、あるいは紫式部にとって、暗号を隠すための絶好の<隠れ蓑>だったのではないでしょうか。
紫式部のような超人は、凡人が近寄り難い自らの「天才」の中に<真意への鍵>を隠していたのではなく、我々凡人の「常識」の中にこそ隠していたのだ、と私は思います。
我々は、今一度、常識を剥ぎ取ってゼロベースから和歌を読み直す必要があるのではないでしょうか。
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それはそれとして、
この歌で「黄泉の国」という発想が自分では思い浮かばなかったにも関わらず、その分野の権威が認めているという理由で、この歌でだけそのような発想を受け入れるような態度を「権威主義」と言います。
人は何かを学ぶとき、多かれ少なかれ権威主義的であらざるを得ないわけですが、とはいえ盲信のしっぱなしは危険で、時には一歩引いて、その権威を疑って見ることも大切です。そのように自分の頭で考え直すことによって、逆に通説の理解を深めるきっかけになることもあるし、また歴史的には、そうした批判的検討が学問を発展させる原動力となってきました。
ちなみに、私自身の感覚では、
どんな権威が是認していようと、上の高市皇子の和歌の解釈は、さすがに飛躍しすぎ、という気がします。
別のところで述べますが、その解釈を認めるのなら、他の和歌の同程度に飛躍のある解釈も認めなければ、ダブルスタンダードになってしまうように思えます。
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(万葉集2-158.高市皇子).山振(やまぶき)の立ちよそひたる山清水 酌みに行かめど道の知らなく
「山吹」と「水」から<黄泉の国>を暗示する、というような、断絶を含む構造、飛躍した発想に、みなさんは違和感を感じませんか。
それと比べれば、下記の和歌、
(伊勢物語).ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは
において、最初に目に飛び込んでくる文字「ち」から「ち(血)」を連想し、
「唐紅」<鮮紅色>を<血の色>として、「血」と結びつける方が、はるかに素朴で共感しやすい発想(イメージ連鎖)だという気が、私にはしなくもありません。
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日本の古典文学の最大の魅力は、「あはれ」や「をかし」ではない、と私は思います。
その程度のことなら、どんな国の古典文学にも、いや、現代文学にすら、あふれ返っています。
<日本の古典文学ならでは>の最大の魅力は、古語の言語学的特性が生み出す、極端なまでの「意味の重層性」と、
それを利用して真意を<隠しつつ伝えようとした>「社会性」にある、と私は思います。
いわば、「文学」と「社会」の間を、「言語学的特性」がブリッジした、とでも言えるでしょうか。
その「社会性」「命がけの訴え」の、ギリギリの綱渡りの危うい<緊張感>が、日本古典の最大の魅力です。
そして、それは、日本の古語以外では、絶対に創作不可能な緊張感です。
また、例えば源氏物語で用いられる修辞(比ゆや象徴)には、花鳥風月を巡る自然現象が巧みに織り込まれており、自然科学への興味を誘うものでもあります。
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さて、「ちはやふる」と言えば、
映画「ちはやふる」のヒットは喜ばしいことです。おそらく文科省が何かするより、あの映画は和歌や古典に興味を持つ子を増やしたことでしょう。それをすくい上げ、ブームが去った後もつなぎとめることが出来ないとしたら、これほど残念な話はありません。
かつて、囲碁においても、漫画「ヒカルの碁」が若年層の囲碁人口を爆発的に増やしました。
それは、日本棋院の普及活動を、ある意味上回るインパクトがあった面も大きいでしょう。
いま「ヒカルの碁」は日本のみならず外国でも読まれているそうです。
ところで、コトの良し悪しは抜きにして、
百人一首「かるたとり」競技は、もはや瞬発力を競うだけの<運動会>に近いものになっています。
既に出たカードから、残りの候補を逆算する、といった<頭脳戦>の要素も、もちろんあるとは言え。
ちなみに、
百人一首は、歴史の影に追いやられた人々への<鎮魂>のために、<はなむけ>として歌人が選ばれた、という説があります。
そのため、必ずしも評価の高い和歌ばかりでは無い、と考える人もいます。(参考:井沢元彦「逆説の日本史」)
ところで、
「令和」という元号は、万葉集からとられたそうですね。
万葉集、古事記、古今和歌集、拾遺集、後撰集、、、
伊勢物語、大和物語、源氏物語、栄花物語、大鏡、平家物語、とはずがたり、とりかへばや、、、
日本には、様々な「古典和歌遺産」があります。
それらの遺産の中から、上述の、
<日本の古語以外では、絶対に創作不可能な緊張感>を体現する、
<日本の古典文学ならでは>の「暗号和歌集」を編纂し、
「令和版勅撰和歌集」「令和版百人一首」として、
現在もっとも流布している、「定家版百人一首」と置き換えて、学校教育やカルタ取り競技などを通じて、普及させる方が、
若い人たちに古文に興味を持ってもらえる、というようなことは無いのでしょうか。
そしてそれは、古典文学のみならず、歴史学や社会学や生物学への興味にもつながるのではないでしょうか。
また、外国の方々にも、「定家版百人一首」より、「令和版百人一首」の方が、わが国の古語の特異性、古典文学の重層性を、はるかに印象的にアピール出来るのではないのでしょうか。
仮に、上記の「暗号和歌集」「令和版百人一首」が出来たなら、
それは、文部科学省にとって、<千年の価値>を持つ、教育史に残る「金字塔」となる、偉大な事業になるだろう、と私は思います。
***「我々の仕事」********************
ここから先は、我々の仕事だ。
彼の魅力を、余すところなく、極上のアルバムにまとめる。
(映画「イエスタデイ」)
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そして、そのカルタ取り競技に、
<表の意味>と<裏の意味>とを問う、誰でも満点が取れるような、ごくごく簡単な選択肢方式の<内容に関する試験>を付け足して、「百人一首」が、単なる<運動会>に近いものとなることから、わずかながらでも、一線を画する競技とすることが、仮に出来るとすれば、それは大きな意義のあることのようにも思えます。
何しろ、たった百首について、参加者は学べばいいだけです。
そして、その学習は、「日本古語」という、<世界的に見ても極めて価値の高い文化遺産>の真髄に、直に触れることになるでしょう。
生徒にとって、それが仮に、最初は「苦役」と映るとしても、
実際に学んでいる内に、必ず<驚嘆><感動>に変わるだろう、と私は思います。
恐らく、古典和歌の真髄に触れて、<感動>しない人はいないだろう、と私自身は思います。
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藤原定家が絶対的にエライわけではありません。
大伴家持が絶対的にエライわけではありません。
藤原定家にしろ藤原公任にしろ柿本人麻呂にしろ紀貫之にしろ、
その存在価値は、紫式部の足下にも及ばない、と私は思います。
そして、上記の「令和版歌集」は、従来の百人一首の価値をはるかに凌駕するものになるだろう、と私には思えます。
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200 years is long enough.
<二百年も使えば、もう十分でしょう>
(映画「マダム・マロリーと魔法のスパイス」)
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古典文学を本当に好きになってもらおうと思うなら、
文科省は、もっと<攻めの教育>を行ってもいいのではないでしょうか。
従来の百人一首カルタ取り競技を、
「令和版百人一首」で置き換えるくらいのことがあってもいいのではないか、と私は思います。
仮にそれでは支障が大き過ぎるなら、
古文教育における現在の「定家版百人一首」の占める位置を、「令和版百人一首」で置換することは、十分に大きなプラスの意義がある、
と私は思います。
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さらに、中学高校における古文教育のみならず、
「令和版百人一首」の代表的な和歌を一首でも二首でも、
その<表の意味>と<裏の意味>とを、様々な国の言語に訳して東京オリンピックのパンフに載せ、
古典和歌の驚嘆すべき言語学的特色を、世界中の人々に知ってもらうことが、仮に出来るなら、
それは、アニメやゲームに匹敵する価値を持つ、「大人向けクール・ジャパン」となるのではないでしょうか。
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メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など
あくまでこれは「タタキ台」として、試みに私の主観を提示したものに過ぎません。
連想に幅を持たせてあるので、自分の感覚に合わない、と感じたら、その連鎖は削って下さい。
逆に、足りないと感じたら、好きな言葉を継ぎ足していって下さい。
そして、自分の「連想詞」のネットワークをどんどん構築していって下さい。
詳細は「連想詞について」をご参照下さい。
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「ちはやぶる」<「神」を導く枕詞>
「龍田(たつた)川」<奈良県生駒郡を流れる生駒川の下流><紅葉の名所>
「からくれなゐ(唐紅)」<鮮紅色>
「くくる(括る)」ラ行四段<括る><結んでまとめる><束ねる><縛る><縛りとめる><束縛する><首をくくる><「くくり染め」にする>
「くくり染め」<染色法の一種><別名「しぼり染め」>
「くぐる(潜る)」ラ行四段<くぐる><物の間や下を抜けて通る><すり抜ける><(水に)潜る>
「水にくぐる」<水に潜(もぐ)る><入水する>
「首をくくる(括る)」<縊死する>
「水にくぐる(潜る)」<入水する>
「唐紅」<鮮紅色><「血」の色>
<水面が真っ赤な紅葉で覆われた一本の川><一条(ひとすじ)><血の流れ><血筋><万世一系><天皇家の血脈>
「唐紅」<血流><血脈><天皇家の血筋>
「水」「増し水」<血を薄める><在原業平><平城天皇の孫><武内宿禰><孝元天皇の孫><臣籍降下>
「みづ(水)」「みつ(見つ)」
「みつ(見つ)」<恋仲になった><契った>
「見る」<男女の関係になる><契る><結婚する>
「血流」「水流」<合流>
***「宿」<武内宿禰>「雲居雁」*********
(夕霧17).なれこそは岩もるあるじ見し人のゆくゑは知るや「宿」の真清水
(雲居雁4).なき人のかげだに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの水
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「一条の滝」「条(でう)(ジョウ)」「条(すぢ)」<線状の物><細長い物>を数える単位
<高子皇后の別名>「二条后」<二条通りに邸がある皇后>「二条(ふたすぢ)」の<流れ>
「唐紅」<鮮紅色><血の色><純血><天皇家の血統>
「ちはやぶる(千早振る)」「ちはやぶる(血は破る)」
「やぶる(破る)」ラ行下二段自動詞<破れる><壊れる><砕ける><崩れる><負傷する><だめになる><敗北する>
「ちはやぶる(血は破る)」<血統は破れる><(天皇家の)血統が敗れる><(天皇家の)血統が壊れる>
<「清和天皇から陽成天皇に繋がる血統」が、藤原高子と在原業平の「水」の交わりによって、断ち切られた>
「神代も聞かず」<神代の昔から聞いたことがない><前代未聞だ>
「神代も」「よも(代も)」「よも」
「よも」<(打消を伴い)よもや~しない><決して~しない><断じて~無い><全く~無い>
「神よも聞かず」<神「天皇」は全く知らなかった><畏れ多い「天皇」の言葉に耳を貸さなかった>
「たつたがは(竜田川、龍田川)」
「たつ(断つ)」「たか(高)」「は」
「たか(高)」<高子><二条后>
「水」<在原業平の血><薄まった天皇家の血統>
「二条后」「二条」:
「一条(ひとすぢ)の血流」と「一条(ひとすぢ)の水流」を束ねた<合流>
「神」「天照大神」「天皇」
「ちはやぶる(血は破る)」<天皇家の血統が敗れる><天皇家の純血が壊れる>
「括る」<束ねる>:
「唐紅」<鮮紅色><血の色><天皇家の純血の血統>に、
「水」<在原業平の血><薄まった天皇家の血統>を「括る」<束ねる><合流させる>
高子の清和天皇への入内が遅れたのは、年齢差の為ばかりではなく、業平との関係が知られてしまったため、後見の良房が入内を躊躇したからだ、との説もあるそうです。(wikipedia)
「貞明親王(のちの陽成天皇)の本当の父親」
<清和天皇ではなく、在原業平だった>
「ちはやぶる(血は破る)」<天皇家の純血が破断した>「しっぺ返し」
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「な」<上代の格助詞>「の」
「みなと(水門、湊)」「水な門(と)」<川や海の水の出入り口><水門><河口><船着場><物事が行き着く場所>
「みなと」<川面の紅葉葉が流れ集まって溜まっている場所>
「素性」法師:
「素性(そせい)」
「素性(すじゃう)」<家筋><家柄><生まれ><育ち><本来の性質><本性>
「らん」「らん(乱)」「らん(濫)」「らん(卵)」
「らん(乱)」<乱れ><皇統乱脈>
「らん(卵)」<卵><托卵><陽成天皇>
「紅葉葉」「紅」<鮮紅色><血の色><天皇家の純血の血統>、
「水」<在原業平の血><薄まった天皇家の血統>
「ながれ(流れ)」「なかれ(泣かれ)」
「なみ(波)」「なみ(無み)」「なみだ(涙)」
「なみ(無み)」<無いこと><無いので>
「紅の涙」「紅涙(こうるい)」<深い悲しみの涙><血の涙><感動の涙>
***「紅の涙」<血の涙>***********
藤英(とうえい:人名)、「紅の涙」を流して、恥づかしく悲しと思ひて、、、(宇津保物語「祭の使」)
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「て」「で」
「で」= 打消「ず」連用形 + 接続助詞「て」
=<~しないで><~せずに>
「とまる(留まる)」「とまる(止まる)」
「紅深き波」<天皇家の血><本来の皇統>
「波が立つ」<次々と立ち現れる><継嗣>
「や」係助詞<疑問><反語>
「紅深き波」「紅深き涙」<深い悲しみの涙><血の涙><皇統断絶の悲劇>
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ここまで。
以下、(注)
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(注669942)
「や」には様々な品詞があります。
(1)「や」係助詞<疑問><反語>
(2)「や」間投助詞<詠嘆><感動><呼びかけ><強調><整調><列挙>
<詠嘆>(万葉集02/0095).我れはも「や」安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり (藤原鎌足 相聞歌)
<詠嘆> さむしろ「や」待つ夜の秋の風ふけて月を片敷く宇治の橋姫 (新古今、秋上)
<整調:音の調子を整えるために添える>
<整調> 石見の「や」高角山の木の間より 我が振る袖を妹見つらむか (万葉集 0132 柿本人麻呂)
<整調> 春の野に鳴く「や」鶯なつけむと わが家の園に梅が花咲く (万葉集、5-837)
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伊香保の「や」伊香保の沼のいかにして 恋しき人を今一目見む (拾遺集 859)
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<呼びかけ> あが君や。いづかたにかおはしましぬる。(源氏物語、蜻蛉)
(3)「や」感動詞<呼びかけ><おい><もしもし>、<驚き><思いつき><あっ>、<囃し声><掛け声><えい>
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(空蝉は)物におそはるる心地して、「や」とおびゆれど、、、 (源氏物語、帚)
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