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Siouxsie & The Banshees - Cities In Dust [Music Video] / 収容所の音楽家

2013年08月09日 11時33分35秒 | 事件
Siouxsie & The Banshees - Cities In Dust [Music Video]




1915年当時のサグラダ・ファミリア







1915年、世界はまだ戦争と科学の躍進に躍起になっていた。
その歴史の片隅に、たった12日間の、とある事件が小さく記されている。

その事件は後に、世界的な大ヒットとなるシリーズ映画のノンフィクションとなる。












引用先にも記されたように、『JAWS』公開当時は世界中がその恐怖に賞賛を称えたが
その裏評では「フィクションにしては」というようなことが囁かれていた。

しかし、その原題にもなった小説は
1916年ニュージャージーで実際に起きた、鮫による襲撃事件が元になっていた。



ジョーズ-恐怖の12日間





本編の作中で特筆すべきところは
第一に “人を意図的に襲っている” ところだ。


加えて、もっとも重要なところは “河で襲っている”部分。



作中で主人公の友人でもある老人が 「鮫が出た、河に鮫がいる」 と叫びまわっているシーンがあるが
街の市民は誰一人として信じる者はいなかった。

海岸でも最初に襲われた事件で、被害者の損傷幹部を見ていた主人公の「鮫」という意見に
市長や役員たちは 「ありえない」 という見解を、なかば押し付ける形で公表している。



鮫の開発や研究というのは、この数十年にも満たない期間でしか進んでいないことをご存知だろうか。

鮫の分布範囲もまだ正確には把握されてはおらず、その生態も未だに未知の領域だったりするわけだが
1916年にはもちろん、当時の人々には “獰猛な動物” としか目に映っていなかったはずである。







『多くの人々は、サメは捕食する機械であり、本能によって行動し、あらゆる物を攻撃すると考えていますが
こうした概念はもう時代おくれです。

いっぱんに、自然界の大型捕食動物は、獲物の弱点をさぐったり
絶好のチャンスをうかがったりしなければならないことから、知能が発達しているといわれています。

380~400種にも上るサメの多様さのせいで一様にこうと決め付けることはできませんが
やはりハンターとしての知能は高いでしょう。

後に述べられるように、一部のサメは、自分の縄張りの侵入者に対し、明らかな警告を発します。

サメがジェスチャーを行うということは、サメにも社会行動を形成するものがあるということを示唆します。
シュモクザメの仲間の場合も、群れのなかでは大きさと性別によって秩序がつくられています。』




[サメの生態]









鮫は動物を襲い喰らう。さらに、ときには人をも襲う。





【原発事故、全員が不起訴へ 東電前会長や菅元首相ら】

【東電、「想定外」「予見不可能」を16連発】








しかしそれは
けして“想定外”の行動ではなく、動物としての生存本能の裏付けがあり

 彼らが古代から、数億年という長い年月をかけて生き延びてきた知恵でもある。












 『麻生太郎氏ナチスに学べ発言擁護論の意味不明』










『1941年
ナチス・ドイツが、占領下においたチェコスロバキア(当時)の首都・プラハから北へ60キロほど離れた小さな街・テレジンに作った収容所。

当時はTheresienstadt(テレジェンシュタット)とドイツ語で呼ばれ
アウシュヴィッツへの中継地という役割を果たし「地獄の控え室」と呼ばれていました。


14万4000人のユダヤ人が収容され、その四分の一に近い3万3000人がこの町で
飢えと病気と悲惨な生活のため死亡し、8万8000人がアウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所へ送られました。
また、テレジンには1万5000人もの子どもたちが収容されていました』
 














この収容所は町全体が古くから城下町になっており
要塞の形状を施されていたことがヒトラーの目に留まり、町そのものが収容所になっていた。

中心に位置する主要塞の裏後方に“小要塞”があり、そこが開設され閉鎖されるまでの3年半の間で、およそ6万人以上のユダヤ系の人々が殺された。

そしてその半分の人々は、チフス、赤痢などの伝染病によって亡くなったとも言われている。


真ん中に位置する“処刑場”では、一日の定時刻に収容された人々の数十人が選出され処刑されていたのである。

それは、ナチスドイツのプロパガンダのアピールと、“見せしめ”のためである。

















 1943年、1944年

ここで亡くなった多くの人々の名前が記された記念館には、そのほぼ全員の名前のあとに書かれた年数が、「1943年、1944年」である。


収容所のなかでは、ヒトラーが世界に向けて迫害をしていないというアピールのための文化活動が許されていた。
すなわち、音楽である。


その文化活動の中には、才ある演奏家、作曲家、そして歌劇ブランジバールに自分たちの未来を託しながら歌った、多くの子供たちがいた。

その民衆たちもその年
一斉に集められ、アウシュビッツに送られ“ガス室”へ入れられたのである。
その数、6万5000人。


15歳にも満たない子供たち1万5000人も例外ではなく、生き残り帰って来れた子供は、わずかに100人余りだけである。




















収容所に連れて来られた音楽家のなかに、ギデオン・クライン(Gideon Klein) という、若い才能を持ったピアニストもいた。

彼がアウシュヴィッツに送られたとき
強制労働に送るか、ガス室に入れるかの選別が行われていたときの逸話がある。

選別に30分以上もかかっていたとき、ドイツ兵が暇を持て余し
「誰かピアノを弾ける者はいないか」 と尋ねたら、クラインが前に出た。

囚人として連れて来られていたのだから
そこにいたドイツ兵以外は全員が丸裸である。


そしてクラインは、丸裸のままピアノに座り演奏したのが
彼の最後の演奏だと語られている。



そのとき彼は、25歳。

















【3.11福島原発事故とは、なんであったのか、その真実をさぐる。】 




大船渡港に押し寄せる津波







“恥”というのは、恥を知る者を指す言葉ではない。

“恥”を知らない者にこそ相応しい。