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政治とレトリック

2014年10月08日 | 研究
マクルーハンは、政治的な発言をあまり行っていない。例えば、ノーム・チョムスキーのように辛辣の言葉では。政治的なことに関心がなかったわけではない。だが、マクルーハンは政治的な批判を直接的・ロジカルな表現で行うことの限界をよく知っていた。例えば、「〇〇は不当である」とか「〇〇を許すな」といったネガティブ表現の政権批判は言うまでもなく、非のうちどころのない正論であっても、それだけでは政治は動かない。政治的な論争をロジカルな表現で行うということは、結局、相手(官僚や政権など支配側)の土俵で闘うということである。ロジカル言語は近代社会のプラットフォームなのだから、権力サイドの方が上手に決まっている。ロジカルな批判に対しては、いくらでもロジカルに返せる。だいたいロジックでは人は動かないのである。政治状況を動かすにはアフォリズムやレトリックが欠かせない。古代ギリシャの民主政治はレトリック(弁論術)が支えていたのである。政治的な停滞とは、言語の停滞、レトリックの停滞である。レトリックは、洋の東西を問わず、かつては社会のいたるところに存在していたが、今では、文学と宗教の一部に押し込まれたままである。近代の学校教育とはプラトンに始まる詩的表現(=レトリック)の圧殺の最終形態である。西欧近代国家はロジックで構築されている。宗教国家はレトリックで構成されている。日本はその中間にある。近代国家の官僚機構は、レトリックが復権すること、即ち自らの存立基盤であるロジカル言語が揺るがされることを恐れている。ロジカル言語を揺るがす中心にいるのは真の宗教者と真の文学者である。言語の潜在力が電子メディアによって回復retrieveしたとき、政治は停滞を脱するであろう。傍目には混乱に見えようとも。
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