「ギリシャ人は、アキレウスの状況にわが身をおきかえ、彼の悲しみや怒りと一体化した。彼ら自身がアキレウスになり、彼らが傾聴する朗誦者もまたそうした。彼らはアキレウスが語ったことやアキレウスについて詩人が語ったことを30年たっても機械的に引用することができた。ただし、詩を記憶するこの並はずれた能力は、客観性の完全な喪失を犠牲にしてしか得られなかった。実のところ、プラトンの標的はこうした教育方法と生活様式全体にあったのである」(ハヴロック/『プラトン序説』1963)
マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』(1962)と『メディアの理解』(1964)の間に挟まれるように出版された『プラトン序説』は、マクルーハンのメディア論、特にアルファベットが視覚を強化し、人間の意識のあり様を変えていった、というマクルーハンの主張への強力な援軍となった。『序説』は、それまで古典学者を悩ませてきた問題、すなわちプラトンが『国家』で芸術家、とりわけ詩人を激しく攻撃する理由についてまったく新しい解釈を提示した。すなわち、プラトンの詩人への攻撃は、古代ギリシャの口承的な精神状態に対する新興のアルファベット・リテラシー文化人(プラトン)の攻撃であったという解釈である。詩人は声にせよ所作にせよ、誰かに似せてせりふを語る。その時詩人はその人を模倣(ミメーシス)し、その人になりきっている。その時、聴衆もまた詩人の朗誦の魔術のとりこになり、詩人と一体化(ミメーシス)する。プラトンが攻撃したのは、そうした理性(アルファベット・リテラシーが強化した精神状態)を失わせるギリシャの口承の伝統(=教育制度)であった。当時のギリシャ人にとって、詩は芸術形式ではなく、有能な市民が教養の核心として学ばなければならない一種のエンサイクロペディアであった。
こうした古代ギリシャ人の精神状態は我々日本人には分かりやすい。「私」という主語を持たないこと、家族と組織と国家と一体化していくこと(=ミメーシス)が、日本文化の伝統であったし、今もそうである。電子メディアの浸透によって、日本人は近代を経ないままポスト近代に突入しているのである。マクルーハンとハヴロックは直接の交流はなかったが、ともに口承の文化と識字の文化の対立に目を向けていた。マクルーハンは、印刷技術が強化した視覚が口承の伝統を侵食し始めていたエリザベス朝期の両者の対立に、ハヴロックは、古代ギリシャの口承から識字への移行期における両者の対立に着目した。1960年前後というのは、北米において西欧近代合理主義の「反環境」としてのテレビ文化が浸透し始め、それまで目に見えていなかった「環境としてのアルファベット・リテラシー」が浮かび上がってきた時期であった。ハヴロックは、ケンブリッジ大学で学んだ後、一時期トロント大学ヴィクトリアカレッジの古典学の教授でもあった。メディア論の理論的支柱の二人(もう一人はハロルド・イニス)がトロント大学ですれ違っていた(マクルーハンがトロント大学に着任したのが1946年、ハヴロックがトロント大学を去ったのが1947年)というのも不思議なトロントマインドというべきか。
マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』(1962)と『メディアの理解』(1964)の間に挟まれるように出版された『プラトン序説』は、マクルーハンのメディア論、特にアルファベットが視覚を強化し、人間の意識のあり様を変えていった、というマクルーハンの主張への強力な援軍となった。『序説』は、それまで古典学者を悩ませてきた問題、すなわちプラトンが『国家』で芸術家、とりわけ詩人を激しく攻撃する理由についてまったく新しい解釈を提示した。すなわち、プラトンの詩人への攻撃は、古代ギリシャの口承的な精神状態に対する新興のアルファベット・リテラシー文化人(プラトン)の攻撃であったという解釈である。詩人は声にせよ所作にせよ、誰かに似せてせりふを語る。その時詩人はその人を模倣(ミメーシス)し、その人になりきっている。その時、聴衆もまた詩人の朗誦の魔術のとりこになり、詩人と一体化(ミメーシス)する。プラトンが攻撃したのは、そうした理性(アルファベット・リテラシーが強化した精神状態)を失わせるギリシャの口承の伝統(=教育制度)であった。当時のギリシャ人にとって、詩は芸術形式ではなく、有能な市民が教養の核心として学ばなければならない一種のエンサイクロペディアであった。
こうした古代ギリシャ人の精神状態は我々日本人には分かりやすい。「私」という主語を持たないこと、家族と組織と国家と一体化していくこと(=ミメーシス)が、日本文化の伝統であったし、今もそうである。電子メディアの浸透によって、日本人は近代を経ないままポスト近代に突入しているのである。マクルーハンとハヴロックは直接の交流はなかったが、ともに口承の文化と識字の文化の対立に目を向けていた。マクルーハンは、印刷技術が強化した視覚が口承の伝統を侵食し始めていたエリザベス朝期の両者の対立に、ハヴロックは、古代ギリシャの口承から識字への移行期における両者の対立に着目した。1960年前後というのは、北米において西欧近代合理主義の「反環境」としてのテレビ文化が浸透し始め、それまで目に見えていなかった「環境としてのアルファベット・リテラシー」が浮かび上がってきた時期であった。ハヴロックは、ケンブリッジ大学で学んだ後、一時期トロント大学ヴィクトリアカレッジの古典学の教授でもあった。メディア論の理論的支柱の二人(もう一人はハロルド・イニス)がトロント大学ですれ違っていた(マクルーハンがトロント大学に着任したのが1946年、ハヴロックがトロント大学を去ったのが1947年)というのも不思議なトロントマインドというべきか。