YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ジャガイモ畑の中で立ち尽くす~フランスのヒッチの旅

2021-11-12 09:02:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月12日(火)晴れ(ヒッチの効率の悪さ)
 イギリス人の彼と共にユースを去り、ヒッチし易いブローニュの郊外の街道に出て、そこで左右に別れた。
 1台目は、1時間半ぐらいしてやっと釣り上げた。2台目はゲットしても直ぐ逃げられてしまった。
この地方は、昼から2時か3時頃まで店を閉じてしまうので、昼食用のパンも買えなかった。今日も腹を空かせてのヒッチの旅。3台目でブローニュから37キロ位パリ寄りのMontreuil(モントルーユ)と言う町に辿り着いた。 
 リックを背負いバッグを片手に持ち、見知らぬ街をトボトボ歩いて郊外に出て、再びヒッチ合図をした。4台目は7キロほど行って直ぐ降ろされた。乗せてくれた車は畑の中に消えて行った。降ろされた場所は何も無い、両側にジャガイモ畑の地平線が見渡す限り広がる畑のど真ん中であった。『フランスの畑は、雄大だなあ』と感心するが、そんな余裕気分は直ぐ吹き飛んだ。
 私1人、何も無い道路端で午後の2時から5時頃までの3時間、立ち尽くした。車は通らず、忘れた頃時折、車が遣って来ても止まってくれず、素通りして行った。パリへの道程は遠かった。辺りは薄暗くなり、不安が過(よ)ぎった。もし止まってくれる車が無ければ、見渡す限りのジャガイモ畑の何処で寝ろと言うのだ。道路端の1か所に留まっていると寂しさと不安で堪らなくなり、歩きだした。しかし地平線の長い道程を人間が歩いて行っても距離的な事を考えたら、たかが知れている。今夜中に何処かの町へ辿り着ける保証は無かった。ただ、不安を紛らわす為に歩いているに過ぎなかった。その事は良く分って承知して歩いているのであった。1時間ほど歩いたであろうか、時刻は既に6時過ぎになり、辺りは真っ暗になってしまった。。
 ここから次のユースまで130キロはある。もう今日は無理であろうから、近くの農家の家に泊めて貰おうかと何度も思った。思っただけで1時間歩いたが、農家らしき家は、一軒も見当たらなかった。
パリまでは、あと250~300キロ先であろう。既に2日費やしてカレーから60数キロ、1日30キロそこそこしか進まないのでは、どうしょうもなかった。フランスでこんなにもヒッチ率が悪く、精神的肉体的に苦労するのでは、シンガポールまでの道程は、余りにも遠かった。そしてその道程に対して私は、『金銭的、肉体的、精神的に持つであろうか』、と言う不安や心配がいつも付き纏っていた。真っ暗になった旅は寂しさ、そして怖さもあった。迷った揚句、今来た道をモントルーユの町まで戻った方が一番良い方法なのだ、と判断した。
 決断した途端、今までと違う反対方向から車が来た。私は暗闇の中を必死にヒッチ合図をした。そうしたら運良く、車は停まってくれた。そしてそのドライバーの好意で、ユースまで連れて行って貰った。
 先程まで寝る場所も決まらず心配であったが、今夜もベッドに寝られて、取り敢えず安心した。幸運と言っていいでしょう。私にはまだツキは落ちていないようだ。 
 ホステラーは私1人であった。広い部屋に1人で寝るのも初めてであり、淋しい気がした。

腹ペコのイギリス人と出会う~フランスのヒッチの旅

2021-11-11 06:16:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月11日(月)晴れ(イギリスとフランスの天候の違い) 
 イギリスのドーバーから船で、フランスのカレーへ渡った。4度目の船旅、そしてとうとうイギリスを離れたのであった。
 11時頃出航、私はデッキでイギリス本土が見えなくなるまで眺めていた。イギリスは厚い雲で全土が覆われていて、暗く寂しい国の様な感じであった。この天候の様に私のロンドン生活も同じであった。生活も天候に左右されるものであろうか。それでも過ぎ去ってしまえば、数多い楽しい思い出を残してイギリスを去るのは、感無量であった。胸が張り裂ける思いで、いつまでもイギリス本土の方に目をやっていた。
 イギリスとフランスを結ぶこの航路(この区間)は最も短く、2~3時間の乗船であった。
フランスに近づくにつれて、天候は晴れて来た。それは全く対照的な天候で、空が突き抜けるように晴れ渡っていた。ドーバー海峡1つ隔てて、こんなにも天気が違うものなのか。何はともあれ旅の気分は天気しだい、晴れている事は有り難かった。
 乗船中に出入国の手続きを済ませ、私はカレーで下船した。多くの乗船客は、カレー駅からそのまま列車でパリへ行くのであった。
私はカレーの街をパリ方面の街道へ行く為、アメリカ娘3人と共に歩いた。街道に着いて、4人でヒッチした。直ぐに停まってくれたが、私だけ乗せて貰えなかった。女性のヒッチ率は、良いのだ。私もドライバーであったら、どちらかと言えば女性の方を乗せるでしょう。仕方ない事であった。
暫らくの間、そこの場所に立たざるをえなかった。その間、ドーバーのユースで会った旅人を乗せた車が一瞬停まったが、乗せて貰えず行ってしまった。その旅人は「悪いな」と言った様な合図を残して去って行った。2日後、パリのユースで再びそのアメリカ人の旅人と再会した。その彼は「ドライバーはホモで、危うく犯されそうになり、散々な目に遭った」と、あの後の事をこの様に語っていた。
確かに、乗せてくれる人も色々な人がいると思う。時には女性なら乗ったら強姦されたり、脅迫され金銭を巻き上げられたり、先程の話の様にホモに遭ったり、『ヒッチは、決して安全・快適な旅の手段ではない』と私は認識していた。
 そう言えば、ウィーンで照井さんと再会した時に彼は、「我々のグループのOさんと言う彼女にある所で再会したが、彼女は何回も姦淫されている感じであった」と言っていた言葉が思い出され る。やばい感じを経験した事があるから容易に想像出来た。
しかし、怖れていたら何にも出来ない。ヒッチは、私にとってなくてはならない手段だから、危険だからと言って止めよう、との考えは全く無かった。 
フランスの車は道路の右側を走る規則になっていて、日本やイギリスと反対であった。ヒッチする場合は当然、道路の右側に立つ事になる。カレーの郊外に来て大分時間が経つが、乗せてくれる車は無かった。車が余り走ってないので当然であった。この場所は、家が数件並んで見えるだけで、周りは一面の畑が点在していた。その様な所で、私はヒッチ合図を送りながら車が停まってくれるのを待った。
そうしたらやっと1台目の車が停まってくれた。後ろの席にドーバーのユースで会ったアメリカ人2人が乗っていた。 カレーから40キロ程来たBoulogne(ブローニュ)の町まで乗せて貰った。私はこの町にユースホステル(以後、「ユース」と言う)があるし、間もなく夕暮れになるので、無理をしないでここで泊まる事にした。アメリカ人2人は先まで行くらしく、降りなかった。
ユース利用者は、私とイギリス人男性の2人だけであった。彼はスペインからヒッチして帰る途中であった。その彼が「ドーバーを渡る船賃しか持っていないので、腹が減っても今日、何も食べてない」と言った。同じ旅人同士、ロンドンで買った香港製の中華ラーメンを2人分作り、半分彼に分けて上げた。このラーメンは、日本の即席ラーメンでないので余り美味しくなかった。でも、昨日と今日、私は昼抜きで腹が減っていたのでまあまあであった。腹が空いて何も食べていない彼にとっては旨かったであろう。
彼は何も上げる物が無いが御礼にと言って、フランスの道路地図を私にくれた。彼は、義理堅い、そして礼儀を知っている人だと感じた。
 食後、ペアレント(管理人夫婦)と4人でピンポンをして、楽しい一夜を過ごした。


これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話

2021-11-10 10:34:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話
 今、私が持っている旅費はトラベラーズチェックで230ドル(1ドル360円。外貨持出し最高額500ドルの内、ソ連の旅行代金は70ドル建てで、既に200ドル使った)、イギリスのお金10ポンドと少々の小銭、それに15万円相当のM&M乗船券引換券(これはエール フランスの航空券も買える便利な券)でした。私はこのM&M乗船券の書替え手続きの為、ロンドンに滞在しなければならなかった。それに滞在したお陰で内側からイギリスの情勢やロンドンについて知る事が出来、更に色々な体験する事が出来ました。
しかし、レストランの皿洗いの仕事は生活するのにやっとで、今後の旅費の足しには、全くならなかった。金銭的な事だけを考えたら、手持金を余り減らさずに滞在する事が出来た、と言うだけであった。
 今後の旅の事を考えると、これだけの旅費では、心細かった。しかし15万円相当の乗船券があるだけで、『何か最悪の状態になった場合、日本までこれに多少のお金を足せば帰れる』と言う保証が有り、多少の安心感があった。
 「シンガポールまで陸続きで行く」と言ってもビルマは、渡航が禁止されて入国出来ないし、東パキスタンの道路は全く不明・不備の状態であるらしく、陸路で行くのは困難な状態が予想された。又、国によって政情不安や、自分の気まぐれによりどんなコースを取ったら良いのか、全く分らなかった。
2週間ほど前に受け取った妹の手紙と共に、鶴村さんの手紙が同封されていた。鶴村さんはヘルシンキからストックホルムまで照井さん、鈴木さんと共に行動を共にした4人仲間であった。その彼からの手紙によると、「ストックホルムで我々と別れた後、弟さんと車でヨーロッパ旅行をしてからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンを列車・バスを使ってインドのニュー デリーから飛行機で帰国した」との事でした。そして、彼からの助言・忠告として、「イスラムの国とインドは分けの分らない、信用出来ない人達が多く、死に物狂いの旅であった。中近東、インドへは行かない方が良い」と書いてあった。
しかし、英語も全く知らないおじさんが、その経路を通ってニュー デリーへ行けたのだから、私だって出来ない事はない、と確信した。又、「行かない方が良い」と言われれば、どんな所であるのか、余計に好奇心が沸くのを感じ得なかった。
 今の時点(1968年11月11日現在)、シンガポールまでのルート、行く方法等について私は全く分らなかった。後日、何処で逢ったか忘れてしまったが、複数の旅人(アメリカ人かカナダ人か、或は日本人か定かではない)から、イスタンブールからシンガポールへ行く幾つかのルート、方法の情報を得た。纏めて見て以下のルートが最も良かった。
イスタンブール→汽車3等62リラ(2,480円)→エルズルム→バス25リラ(1,000円)→バザーゲン(イラン国境)→バス320リアル(1,536円)→テヘラン→バス200リアル(960円)→メシェッド→150リアル又は100アフガニ(720円から800円位)→ヘラート→バス240アフガニ(1,920円)→カブール→バス165アフガニ又は15ルピー(1,140円、7ルピーは通行税)→ペシャーワル→汽車16ルピー(1,216円)→ラホール→タクシー又バス5ルピー(380円)→国境→力車5ルピー(240円)→バス発車所→バス4ルピー(192円)→アムリツァール→力車・輪タク2ルピー(96円)→アムリツァール駅→汽車2等25ルピー寝台料金6.5ルピー(合計1,600円)→ニューデリー→汽車2等40時間95ルピー寝台料金12ルピー(合計5,350円)→マドラス→船(デッキクラス22ドル・3等34ドル月2度出航)→ペナン島→汽車3等20マレーシアドル(2,400円)→クワラルンプール→汽車3等132マレーシア・ドル(1,560円)→シンガポール
 尚、この情報と併せて中近東やインドは、道路も整備されておらず、自動車の通行量は殆んど無い状態との事であった。従って、ヒッチは出来ないからバスや列車を利用した方がより効率的で、しかも金銭的に返って安くつくとの事であった。
これによると、乗り物料金は約98ドル(約35,000円)、ロンドン~アテネ間約1ヶ月掛かるとして最低1日3ドル要するとして旅費は約90ドル(32,400円)、アテネ~シンガポール間2ヵ月間、最低1日1.5ドル要するとして約90ドル(32,400円)、合計278ドル(100,080円)。ロンドン~シンガポール間は食事代、乗り物代、ユース ホステル、或は安いホテルを利用して、最低限の概算で280ドルから300ドルは必要なのだ。しかし手持金は230ドルと数ポンドしか持ってないので、50~70ドル程不足であった。
『陸続きで行って見たい』と言う想いだけで、金銭的に厳しい旅になる事は予想出来たが、ロンドンを去る時点で、この様なハッキリとした数字的裏付けは全く無く、常にお金に対する心配や心細さが付き纏っていた。
 ヨーロッパ、特に北欧やロンドン、パリ等大都市のユースに於いては、旅に必要な情報交換が全く無かった。その反面、非西洋諸国のユースや安ホテルでは、旅人同士が密接にルート、乗り物、宿泊所等についての情報交換がなされていた。
例えば、ニューデリーで旅人が集まる場所で、シンガポールから来た者がテヘランへ行く場合は、テヘランから来た旅人からテヘラン~ニューデリー間のルート、安い宿泊所、交通等の情報を得て、その逆にその人がシンガポール~ニューデリー間の情報を教えてやる、と言った情報交換をしていました。
又、アメリカ人やカナダ人は、『1日5ドル世界の旅』とか『1日10ドルで経済的なヨーロッパ旅行』と言った本を片手に旅をしている者が多かった。その本には世界各国の最も安く行くルート、方法、宿泊所、観光、レストラン、買物等が集約され、彼等の旅の手助けになっていた。
私も外国へ行く前に本屋を見て回ったが、主にヨーロッパや北アメリカの物ばかりで、アフリカ、中近東、インド周辺、東南アジア、特に地方の情報が掲載されている本は無いに等しかった。情報があったとしても険約旅行を求める旅人に参考になる本は無かった。欧米の他に線で結ぶ旅をした者がいない様であり、それらの本は出版されてなかった。アメリカやカナダでは、それらの本が若者の間でポピュラーになり、彼等は世界を線で結んでいたのでした。
 イスタンブールからシンガポール間を陸続きで旅をすれば、私も先駆者の1人として仲間に入れるであろう。そんな意味で鶴村さんも先駆者の1人になったのだと思う。
所で、鶴村さんの「死に物狂い」とはどの様な事か、ある程度想像が出来た。私もそのルートを旅して見たかったので、彼に先を越された様な感じがした。私は高校時代からユーラシア大陸に憧れ、何度も世界地図を広げて見ていた。特にイスラム諸国特有の文化、何処までも続く砂漠、そして昔栄えたシルク ロード、或いは中学の時に見た映画「砂漠は生きている」の場面を一目でよいから垣間見たいと思っていた。
そんな訳で、中共(現中国。当時「中国」と言えば国連から承認された中華民国であり、台湾政府の事を示す。現中国は承認されてなく、大陸の事を「中共」と言っていた。渡航制限の処置が取られていた)へは行けないが、せめてシンガポールからヨーロッパへ列車、バス、徒歩等で横断したいと思っていた。その中間にある中近東諸国は、イスラムの教えに従って生活しているらしく、そう言う中のシルク ロードの旅は、考えただけで何かゾクゾクするものを感じた。このルートは、世界でいろんな意味で一番変化に富み、旅を志す者にとって先ず目に付く地域であろう。

惜別の情でロンドンを去る~フランスのヒッチの旅

2021-11-10 07:02:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
フランスのヒッチの旅(千里の道も一歩から)

・昭和43年11月10日(日)曇り後晴れ(惜別の情でロンドンを去る)
 明日、ロンドンを去る予定であったが、何もする事が既に無い状態で部屋に居るのは、寂しくて堪らず、1日早く出立する事にした。昨日、予め旅支度、身の回りの整理をしておいたので、1日早くても問題は無かった。
 今後の旅について考えるとここ2・3日、部屋に居ると居ても立っても居られない気持であった。そして今、ロンドンをいざ去ろうと思うと、如何してか寂しさ、悲しさが募った。
朝食を軽く済ませた。今朝、霜が下りて特に寒かった。ストーブ料金がまだ残っていたので、暖を取ってから部屋を出た。
 思えば一宿一飯、そしてこの部屋を借りるのにお世話になったミルスおじさんにその後、一言もお礼を言わずロンドンを去る事は、本当に心苦しかった。早く心臓の病が良くなり、退院出来るように祈るばかりであった。
 8時半頃、住み慣れた部屋を出て階段を下り、別れの挨拶がしたい為、2階のマリアンのドアをノックした。彼女はまだ寝ていたのか、眠たい目をしながらパジャマ姿で出て来た。
「マリアン、私は今からロンドンを去ります。一昨日、マリアンのお陰で、私は楽しい一時を過ごす事が出来ました。有り難う御座いました」と私。
「Yoshi、ドーバーまで送ってあげるよ」とマリアン。
「有り難う。でも、ヒッチで行きます。マリアンに余り迷惑を掛けたくないし、気持だけで充分です。今日は日曜日、それなのに早く起こしてごめん」
「いいのよ、Yoshi。それでは元気で旅をして下さい。時々手紙を書いて下さいね」
「約束します。君も書いて下さい。それではマリアン、さようなら」と私。
「グッド ラック、Yoshi」とマリアン。私達は固い握手し、そして私は階段を下りた。
マリアンは、私が階段を下り切るまで、手を振って見送ってくれた。本当に別れ難い、そして私好みの女性であった。シーラから心変わりしたのでないが、もっと早くマリアンと知り合えたならば、私のロンドン生活も違った、もっと楽しいものになっていたかも知れない、再びそう思うと残念でならなかった。
 大家さんの所にも挨拶に行った。おばさんが出て来て、今から去る旨を伝えた。2日分の部屋代をバックして貰えるか聞いたら、断られてしまった。「又、ロンドンに来た時、ここに来ればその分の部屋代は取らない」とおばさんは言った。しかし、再びロンドンに来る事が果たしてあるであろか。
アンテスィペイト エンジェルのアパートを出た。ストーブで暖を取って来たが、外は一段と寒く、直ぐ身体は冷え切った。私がこちらに来て以来、一番寒い日になった。
通い慣れたアーボン ロードのこの道も、そして周りの建物も何もなかったように静まり、日曜日の朝はまだ目覚めていなかった。
 アンダーグランドでロンドン ブリッジ駅まで行き、そこから列車でDortford St(ドートフォード ストリート駅)で下車し、そこからドーバーに向けてヒッチする予定であった。このコースは予めハイド パークにあるロンドン大地図で調べておいたのだ。大都市のヒッチは難しいので、郊外からの方が良いと思った。そして何処の郊外まで出たら良いのか、その地図で検討しておいたのでした。
 ロンドンで買った暖かそうなカーキ色のジャンパーを着て、青のジーパンを履いて、そして灰色のリックを背負い、フランスで買った茶色の布製バッグを持ち、颯爽とした旅姿で、私は住み慣れた街を後にした。
 日曜日のアンダーグランドは空いていた。そしてロンドン ブリッジ駅から郊外通勤用列車に乗り、ロンドンを後にした。この列車は、日本の中距離列車と異なっていた。お互いに向き合った座席は長く(8人~10人座れる)、その中央に出入り口用のドアが付いて、各車両にこのドアが6つ~7つ付いていた。
 マリアンは、「私をドーバーまで送ってくれる」と言っていたが、実際はシ-ラに送って貰いたかった。ロンドンを1人寂しく去るのは、余りにも虚しかった。
7年間文通し、色々なプロセスを通してイギリスに遣って来た。そして2ヵ月半滞在し、色々な事があった。車窓からその光景が、1コマ1コマ走馬灯の様に私の頭の中を過って行った。それらの思い出は、6年半の苦悶と外国へ行って見たいと言う想いの結晶でもあった。もう2度とイギリスには来られないのであろうか。青春の一時を過したこの大都会・ロンドン。する事が無くなり、寂しくてロンドンを早く去りたかったが、現に去ろうとしていると何故か心残りと言うのか、名残惜しく感じるのでした。しかし列車はそれらを打ち消し、ロンドンを離れて行った。
「又、いつかきっと来るぞ。きっと又、来るのだ。シ-ラ、私は心に決めたぞ。シ-ラも元気で、さようなら」
彼女も間もなく去るロンドンの方に目をやり、心の中で何回も自分に言い聞かせた。寂しさ、不安さ、そんなごっちゃ混ぜの心境でシンガポールに向けて1人旅が今、始まった。
 ドートフォード駅は、ロンドン ブリッジ駅から10キロ程度であろうか、ここまで来ると田園風景、既に郊外になっていた。
 駅からドーバーに向かう街道に出た。日曜日のヒッチ率は案の定悪く、1時間経っても私をピックアップしてくれる車は無かった。少し歩いて行くと道路際に旅行用移動ハウス車があり、そこに人が住んでいた。貧しそうな家庭であった。そこの親子が焚き火をしていたの
で、寒かったので暖を取らせてもらった。
 その後、直ぐヒッチ合図をしたら1台目が止まってくれた。この車で半分以上来てしまった。ロンドンの薄暗い部屋に1人で居るよりも、こうしてヒッチの旅をしていた方が、よっぽど楽しいのであった。
 午後の2時頃、3台目でドーバーに着いた。明日の乗船券を買おうと発売所を探したが見付からず、ユースへ行って泊まる手続きをした。
 ドーバーは、イギリスとフランスの交通の要、大きな街にも拘らずホステラーは、アメリカ人男性3人とカナダ人12歳の女性3人であった。彼女達は3人でヨーロッパをヒッチで旅行しているとの事であった。日本の中学生よりずっと行動力を感じた。同時に12歳と言えば小学6年か中1なのだ。学校は如何したのであろうか。夏季や冬季の休みではないし、娘3人連れの旅を、親はよく許したものだと思った。
 このユースにペアレントの手伝いをしているアメリカ女性も居た。彼女は旅費が無くなってしまい、本国から送金されて来るのを待っていた。その間、ユースの仕事をして無料で泊めて貰っているとの事であった。色々な外国女性が居るものだ。
 ペアレントに乗船場所と乗船券について尋ねたら、乗船場所と乗船券は明日、そこへ行ってからでも買える旨を教えてくれた。
 私はイギリス最後の夜をドーバーのユースで過した。8月24日から11月11日まで計80日間、イギリスに滞在した事になった。

ロンドンを間もなくして去るその日々~人生(旅)の話

2021-11-09 14:42:07 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・人生(旅)の話(昭和43年10月25日付けの友達へ送った手紙の一部)
 前文・・・は省略します。
旅に出て、『人生とは』と考えるのも大事であると思うのです。旅の仕方も十人十色あるように、人生も人それぞれ違ったその人の人生がある、と思う。従って、『人生とは、こうあるべきだ』と定義する事は出来ないと思う。又、定義出来ない所に人生の面白さがある、と思う。よく人は人生を旅に例えますが、私も旅をして実感し、本当にその通りであると思った。何故なら、『旅は、プロセス(過程)であり、人生もプロセスである』と思うからだ。
 しかし、今までの私の人生は、意義ある又は楽しんでいる人生であったのか。それはむしろ、プロセスでなく、毎日が決まりきった、若しくは繰り返しの生活であった。これは何も私だけでなく、多くの人達もその傾向があるように思われた。それは昨日無事に過したように、今日も無事に過し又、明日も同じように過す。そこには、人生の意義や楽しみ、と言う概念が存在していなかった。それはただ、穏便に過す様な、或いは砂を噛む様なあじけない繰り返しの生活、これも人生と言うのでしょうか。
私はこの様な味気ない生活、人生に飽きし、いつも旅に出たい、外の世界を見てみたい、と思っていた。それは取り敢えず、何処でも良かった。日本を脱出して、1人で静かに人生について、自分の人生について考え、又その様な情緒に自分の身を置いてみたかった。そして若い時には、この様な時期があっても良いではないか、と思っていた。幸いにも私は文通しているシーラがロンドンに居たので、ここまで来る事が出来た。そしてその出会いは私の人生で2度と無い、ドラマチックなものであった。ここ(外国)から日本を、そして自分を見つめ直した時、色々な事を思い、そして感じた。そして何はともあれ、この旅を実現させた事は、自分自身の勝利である、と思ってる。
私はまだ旅の途中で、『今後の自分の人生について、かくあるべきだ』と言う、答えを見出してないのです。否、見出してないと言うより、今何も考えられない、と言った方が正しいかもしれません。『今後の自分の人生、生き方』を考えると、如何しても就職、仕事の事へ行ってしまうのです。男の人生は、仕事を抜きにして考えられないのであろうか。経済的確立を抜きにして、人生について論じても所詮、それは絵に描いた餅に過ぎないのであろうか。とすれば、旅の途中に於いてこの事について考えても結局、ナンセンスなのであろうか・・・。 
否、そうではない。長い人生に於いて旅をする事は、必要であると私は思いたい。その人の経済的や仕事の状況によって、長期間の旅から1泊2日程度の短期間の旅、或はブラットした日帰りの旅も旅なのだ。その旅先で1人じっくり、人生の事を含めて色々な事を考えて見る、それが大事である、と思う。
そこで改めて言いますが、ここで言っている『旅』は、旅行ではありません。旅行と旅は、本質が違うと思うのです。旅とは、心にゆとりを持ち、日程、時間やルートに拘束されず、自分の行きたい所を気ままに移動する事である。そして旅行とは、日程、時間、ルート、行き場所、交通手段、宿泊施設等が前もって決められ、それらに拘束されて移動する事である、と思うのです。    
我々は時に友達や職場の仲間達と短い旅行をする事がある。その旅先で色々な事を考え、仲間と話し合ったりする事もある。時には人生について論議する事もある。それは大切な事であると思う。そしてその根底にあるものは皆、仕事や生活基盤を持っていると言う事である。しかし、今私は旅の途中、職も生活基盤も持たない自由人、ここに大きな相違があります。この相違こそが曲者なのか。今、私がそれは考えると堂々巡りになってしまうから、結論を見出せないのか・・・。
 今まで旅を通して色々な物を見て、体験して、或いは色々な事を感じて、大いに人生勉強になった、と思う。そしてこれからの旅もその様にありたい、と自身願っているのです。その様な事であるとすれば、『今の時点で、人生とはかくあるべきだ、と結論すべきでないのかも・・・』と思うのです。
私は間もなくロンドンを去り、再び旅に出ます。そしてその旅を通して色々な事を体験、経験する事が当面の課題である、と私はそう思っています。 
 末文・・・は省略します。 

ロンドンを間もなくして去るその日々~旅に想いを巡らす

2021-11-08 09:05:20 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
            △市長就任披露行列(PFN)

・昭和43年11月9日(土)晴れ(旅に想いを巡らす)
 今日はロンドン市長行列の日。今日は晴れ、晴れの日が5日振りに再び来たのは珍しかった。しかし大分寒くなった。ガス ストーブを使うのには、器具の投入口にお金を入れなければならなかった。今までお金を無駄にしたくなかったので我慢していたが最近、我慢出来ず使うようになった。
 今日は既に何もする事が無かったので、部屋の中に閉じこもっている状態であった。火事騒動があった日から毎日、大家のおばさんは火事を起こしたおばさんに罵声を浴びせ「出て行け」と怒鳴り散らしていた。私は大家のおばさんの方が行き過ぎではないかと感じていた。
 今日も午前中、4階の方で又、怒鳴りあっているのが聞こえた。いつもとどうも様子がおかしいので行って見たら、4階の階段近くで2人がお互いに髪の毛を引っ張り、取っ組みあって喧嘩をしていた。お互いにその形相は凄かった。この時、両方とも主人は居らず、私が中に入って喧嘩を止めた。大家のおばさんは彼女に対して、「マッド(きちがい)」と言ってわめいていたが、どちらもマッドになった。夕方、警察官が来て警察沙汰まで発展していた。私は状況を聞かれ、その警官に「10時頃、2人が4階で頭髪を引っ張り、取っ組み合いの喧嘩をしていたので、私が仲裁に入った」とその事実を述べた。おばさん達も凄い者だと感心すると同時に、こう毎日おばさんが4階のおばさんに非難、屈辱的な暴言を浴びせているのを聞きたくないし、見たくもなかった。
契約がハッキリしていないので、火事やトラブルが起きたら大変だ。私はロンドンを去る日まで、火事を起こさないように改めて注意する事にした。
 私は昼食に肉を買って料理して食べた。昨晩は魚を買った。魚、肉と奢ってしまったが、これらを買う事自体、初めてであった。気分転換と栄養を付けて元気でロンドンを去り、旅をしなければ、と思うからであった。
 午後もする事が無く、寂しい日であった。こんな時によく、人生について自問自答した。私は旅に出てそれらの事を考えるのも大事である、と思っていた。又、旅をしていると必然的にそれらを考えざるを得なかった。そんな訳で今日現在、自分は何を考え、何に悩んでいるのか。忘れない為に記して置く事にした。

ロンドンを間もなくして去るその日々~初めての魚料理

2021-11-08 06:42:00 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・昭和43年11月8日(金)曇り(初めての魚料理)
 今日、再びマービル アーチの病院へ行き、コレラの予防接種をして貰った。これをもってロンドンでしなければならない用事は、全て済ませた。後はシンガポールに向けてロンドンを去るのみであった。
途中各国の査証は、必要になった時点で取れば良いと思った。途中ルート変更もあるし、例え取っていても、いつその国へ入国出来るのか分からなかった。したがって今、慌てて取る必要が無かった。そう思うと、『如何してイラクやイランの査証を取ったのか』と思った。
マービル・アーチから通い慣れたボンド ストリート駅まで歩いて戻って見た。レストランの皆はどうしているのか、気になった。しかし既に辞めた身なので、店の中へ気楽に入れなかった。外から中の様子を眺めたが、相変わらず忙しそうであった。 
 午後、ロンドンを去る準備をして過ごした。こうしていてもシ-ラの事が気掛かりであった。彼女は、今どうしているであろうか。お互いにロンドンに居ながら、会える機会は既に無かった。彼女は、「週末、ロンドンを去る」とも言っていた。その準備で忙しいのであろうか。共にロンドンを去ろうとしていると思うと、悲しくなって来た。ロンドンに来た時、こんな事になろうとは夢にも思わなかった。
 夕方、Highbury Street(ハイバリー通り)の商店街にある魚屋で、初めて魚を買って来た。夕食に食べた久し振りの魚料理は美味しかった。

ロンドンを間もなくして去るその日々~2階のマリアンと知り合う

2021-11-07 07:20:47 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
                       △2階に住んでいたマリアン ワッツ

・昭和43年11月7日(木)雨後曇り(2階のマリアンと知り合う)
 昨夜、私はシーラ、そしてシーラの友達のジャネットと別れて来た。真っ直ぐにアパートへ帰れない状況であったので、いつものパブに立ち寄り、それから帰った。  
 あれ程に会いたかったシーラと昨夜別れ、今日は寂しさが余計に感じていた。私は既にロンドンに滞在している意義を無くしていた。そして今、雨が降っているので1人部屋に居ると余計に憂鬱であった。部屋の電気を点けないと、まるで夜の様に暗かった。その様な状況で今日、私は朝から居たたまれない感じに襲われていた。
 ロンドンでしなければならない大事な用事も無ければ、観光も殆んど終ったし、行って見たい所も特に無かった。2・3の用事を済ませば、後はロンドンを去るのみであった。楽しかった事、面白くなかった事が頭の中を駆け巡っては消えた。孤独、寂しさ、そして今後のシンガポールまでの旅の事を思うと、胸が押し付けられる思いであった。と言うのは、そこまでどの様なルートで行けばよいのか。いくらお金があれば足りるのか。中近東は日本やヨーロッパと違って価値観、習慣や風習も異なり、全く私にとって未知の世界であった。そして国によって情勢が不安定な所もあるのだ。それらの事を思うと私の精神状態は、パンク状態でここ何日か、ぐっすり寝られない夜もあった。
 部屋の中でじっとしていられない状態なので、早々2・3の用事を済ませる事にした。先輩のOさんから借りたトランクを、「必要になったので送り返してくれ」と先日手紙が来た。トランクは重く、持ち運びが大変でヒッチの旅に不向きであった。その様な事で代わりに、リックを既に買ってあった。用事の1つとして、まず手始めにトランクを荷造りして、船便で送る為に郵便局へ行った。
 私は日本で6月にコレラの予防接種をしたが、免疫力期間は6ヵ月間であるので、後1ヶ月で切れる。これからコレラが発生し易い地域、衛生観念が低い国へ行くので是非、予防接種しておく必要があった。そんな理由で郵便局へ行った後、近所の病院へ行ったら、「ここではコレラの予防接種はやっていない」と言われ、キングス クロスの方の病院を教えて貰った。そこへ行ったら先生は不在で、しかも今度コレラ予防接種をする日は、11月28日であると言うのであった。私は、「その日まで待てない」と言ったら受付の女性は、マービル アーチの方の病院を教えてくれた。その足で直ぐにその病院へ行ったら、「午前中で終った」と聞かされ、ガッカリして部屋に戻って来た。
 自分で作った貧しい昼食(ジャガイモ、パン、コーヒー)を、今日も1人で食べた。いつものように変わらない食事であったが、今日は一段と味気ない、そして侘しい食事であった。
 2・3日前、ウェールズのダディから、「ロンドンを去る前に、良かったらもう1度来なさい」と再招待の手紙が届いた。私自身本当はもう一度行って見たかったが、色々な事を考えると難しいのであった。それにウェールズを充分楽しんだので、これ以上の望みは無かった。午後、ダディの再招待の返事と共に、ウェールズ滞在中お世話になったお礼の手紙を書いて過ごした。ダディへ手紙を書いていたら、自然と涙が出て来てしまった。
 夜の8時頃になったら、もうどうする事も出来ない状態になってしまった。誰かと話がしたかった。話をしないと気が狂いそうな感じがした。昨日の火事騒動で2階に女性が住んでいる事を、私がここに9月22日に住んで以来、初めて気が付いた。そして今夜はその部屋から明かりが漏れて、彼女は部屋に居るようであった。私は彼女と話がしたい、友達になりたい、とそんな衝動に駆られてしまった。『迷惑がられたら、或は、断られたら如何しよう』と思いつつも、彼女に縋る想いでドアをノックした。彼女はドアを開けてくれた。
「Now I ‘m very lonely as I haven’t friends in London . If you don’t mind , please talk to me about something (私はロンドンに友達がいないので、今とても寂しいのです。宜しければ、話し相手になって頂きたいのですが)」と救いを求めるように彼女に言った。彼女は快く私を部屋に招き入れてくれた。10畳程度の細長い部屋で、私の部屋の方が広い感じがした。色々な写真や小物類で部屋は飾られ、まさしく女の子の部屋の感じであった。何も無い殺風景な私の部屋と違って、人が住んでいる、女の子が生活している感じがする部屋で、ここに居るだけで癒される感じがした。
彼女は私の為にコーヒーを煎れてくれた。彼女の暖かい心が伝わってくるようで、私の寂しさが和らぐ思いであった。彼女の名前はMarian Watts(マリアン ワッツ)、美人だし素敵な女性で私より2つ若かった。彼女の仕事は馬の獣医で、話から仕事に対する熱意が感じられた。マリアンはダンディーな中年紳士と撮った写真を私に見せて、昨年行ったアムステルダム旅行の話をしてくれた。私も今回の旅行で撮った写真を部屋から持って来て、それらの写真や旅の事について話をした。
 私が、「11月11日(月)に、ヒッチでドーバーに向けてロンドンを去る」と言ったら、マリアンは、「仕事を休んでドーバーまで送りますよ」と言ってくれた。マリアンの気持が嬉しかった。本当は送って貰いたかったが、断った。だって今日初めて話をした間柄なのに、わざわざ仕事を休んで私の為に送ってくれるのは、余りにも申し訳ないからであった。でもマリアンがその様に言ってくれただけで私は本当に嬉しく、満足であった。
 如何してもっと早い時期にマリアンと知り合えなかったのであろうか。もっと早く知り合っていれば、私のロンドンの生活はもっと楽しい日々であったかも、と思うと、残念でならなかった。私達はお互いの写真と住所を交換し、そして文通の約束をした。私は彼女の部屋を出た。気持はもうスッキリ晴れていた。

   
   △アムステルダムにてのマリアンと素敵な中年男性とのワンショット


ロンドンを間もなくして去るその日々~火事騒動とシーラとの別れ

2021-11-05 16:26:47 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
        △私の部屋の上、4階部屋の火事騒動(Painted by M.Yoshida)

・昭和43年11月6日(水)曇り(火事騒動とシーラとの別れ)
 朝の5時頃か、はっきりは分らないが、「ファイアー、ファイアー(火事だー、火事だー)」と家主のおばさんの悲鳴に近い声と同時にドアを激しく叩く音がして、眠りから覚めた。窓の外を見ると火の塊が、1つ又1つと、上から落ちてくるのを確認した。私の部屋の上、4階が火事現場と推測した。私はズボンを前と後を逆に履いてしまうほど慌ててしまい、そして一瞬何をしたら良いか分らなかった。直ぐ気を取り戻し、現金、トラベラーズチェック、旅券、乗船券類を腹巻に押し込め階段を駆け下りた。階下でおばさんは、「ファイアー、ファイアー」と言いながら、半狂乱の状態であった。
 火事現場がどんな状態であるか分らないが、私はおばさんに、「Call the fire station!(消防署へ電話しろ!)」と指示した。それから3階へ駆け上がり、消火用に自分の部屋にあるポリバケツを持って、4階へ駆け上った。アメリカ人夫婦が住んでいる部屋から出火していた。その部屋へ入ると、家主のおじさんとこの部屋のおじさんが、果敢に燃えている家具類等を外へ投げ下ろしていたのだ。
私は持って来たバケツが空なので消火の為、水を汲もうと再び階下へ。3階の私の部屋を通り越して(私はまだ相当動転していたのだ)、2階に住んでいる部屋(1ヵ月半住んでいてこの時、初めて女性が住んでいる事に気付いた)のドアを開けさせ、水道水を汲んで、再び4階へ駆け上って行った。 
水を掛けようとしたら大家に、「水を掛けるな」と怒鳴られてしまった。私は何して良いか分らず、呆然と立っていた。2人は燃えている物を放り投げ、或いはカーテンやじゅうたん等を洋服で叩き消して消火していた。そして火事はそれらを燃やしただけで延焼は免れた。私は動転して、消防車の手配を奥さんに言っただけで、何ら消火活動に役立たなかった。
私は、『火事と言えば水を掛ける、或は消火器で消火する』と言う発想しかなかった。動転していたとは言え、燃えている物を手で抱え放り投げる、或いは叩き消して消火する方法は、考えられなかった。
そうこうしている内に、消防車2台が到着した。幸いにもこの時は既に鎮火していた。このアパートは、日本の家屋の様な木造作りでなく、又、部屋の中に燃え易い物(障子、襖、畳等)がなかった為、延焼は免れた。叉、石油製品類や新建材等の燃え易く猛毒な煙が発生しない古いレンガ造りが幸いした。
 火事の原因は、住民が昨夜から古いタイプのラジオを点けっ放しにして寝てしまい、真空管が過熱して回りの物に燃え移り火事になったとの事。家具類等は燃え、或いは投げ落され、室内は消火の為、かなりメチャメチャになってしまった。
それにしても早朝から本当にビックリした。階下の私の部屋まで延焼せず、そして私の持ち物に何の影響も無く、本当に良かった。
 ここの大屋はとても火の元を心配性なほど注意していた。ある時、私が少し酔って帰って来て、料理(ジャガイモを煮ていた)していたのだが、煮えるまでベッドに横になっていたら、家主のおじさんがノックもしないで入って来て、ガスを止めてしまったのだ。
「ノックをしないで部屋に入るな」と私。
「酔ってガスを使うな。しかも寝込んでしまっては危険だ」とおじさん。
「大丈夫だ。ただ横になっていただけだ。それより無断で私の部屋に入るな」と私はキッパリ言った。
ガスや火の元を心配してくれるのは有り難いが、黙って部屋に入られるのは、良い気持はしなかった。私が居ない時、おばさんが部屋に入って掃除してくれるのは有り難いが、掃除の為に最低限、私の物を触り、又それを移動したりするのはまだ許されるが、荷物を開けたりしている様な感じがした。
ある日、万年筆がなくなっているのに気付き、部屋中捜したが見付からなかった。おばさんに話したら、おばさんの娘(小学2・3年生の感じ)が持ち出していた。返して貰ったが、不愉快極まりなかった。
大屋夫婦は、人に部屋を貸していても、自分の部屋と思っているのだ。部屋(家)は、その人の『城』と言う概念があり、『誰からも侵されるべきではない』と言うのがイギリスの考え方なのだ。大屋がイタリア人だから、その辺が理解していないのか。それとも私が何処の者とも分らない、東洋人だからであろうか。賃貸人とは言え、イギリス人にこんな不法侵入をしたら、黙っていないであろう。
 干渉はこればかりで無かった。電気を点けたまま一寸トイレへ行ったら、「部屋の電気を消して行け」と言うし、又ある日、2階のマリアンの部屋に遊びに行った時、直ぐに戻って来る予定であったので、電気を消さなかったら、大家は黙って部屋に入って消したのだ。如何もここの大家は、少し常軌を逸脱した管理方をしていた。いくら「経済的な使用方をしてくれ」と言っても、管理方が行き過ぎではないかと思われるが、如何であろうか。
「トイレへ行くにも、電気をこまめに消し、少しでも消費電力を減らす」と言う心掛け(習慣)は、普段の生活の中で、私には無かった。しかし無理もない点もあった。週3ポンドで掃除はしてくれるし、生活必需品は全て整っていた。おまけに部屋を借りる際の契約書の取り交わしはなかったし、保証金、権利金、敷金等も無かったので、大屋さんも何かあったら大変だと思っていたのでしょう。
 午前中、火事を起こしたおばさんは、髪を乱して放心状態で汚れた階段の掃除をしているのを見掛けたが、哀れさを感じた。その彼女に向かって大家のおばさんが怒鳴っていた。そしてこの日以来、大家のおばさんは火事を起こしたおばさんに見ると寄ると罵声を浴びせ、「出て行け」と怒鳴り散らしていた。私は大家のおばさんの方が行き過ぎではないかと感じた。
 早朝から火事騒動があって落ち着かなかったが、午前中イラン大使館へ査証申請に出掛けた。「17時に出来るので、その頃に再度来て下さい」と言われた。
その足でレイセスタ スクウェアの本屋へ外国の道路地図を買いに行った。ヒッチの旅になるので地図が如何しても必要であった。何軒か行ったが、ヨーロッパ諸国の地図はギリシャまでならあったが、中近東、インドや東南アジア諸国の地図は無かった。仕方がないのでそれらの諸国の道路地図は、現地で買い求める事にした。  
 私は一旦アパートへ帰り、そして16時頃、査証が出来るので再び出掛けた。お陰で出来ていた。
 今夜は、シーラとの最後の会う日になってしまった。いつもの様にいつもの時間、ブレント駅19時に会う約束になっていた。以下、『シーラ、ジャネットとの永遠の別れ』を参照。

ロンドンを間もなくして去るその日々~査証を取るのも国際情勢が大いに関係

2021-11-05 07:20:26 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・昭和43年11月5日(火)曇り(査証を取るのも国際情勢が大いに関係)
 今日はガイ・フォークスの日(Guy Fawkes Day)であった。イラク大使館へ行って、査証を取得した。イラクまで行くなら、『イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の聖地・イスラエルへ行かない手はない』と自分の手持金、行先の国の情報や自分の知識、能力、体力を省みないで、『旅への想い』だけが飛躍して行った。 
 イスラエルへ行くなら、レバノンから国境を越えて行ける。レバノンとイスラエルは、紛争(戦争)状態である事は承知していた。しかし、両国の国境付近の状況を見たいので、行けるものなら陸続きで行って見ようと思った。そんな理由でレバノンの査証を取りに大使館へ行った。
大使館員から、「レバノンから何処へ行くのですか」と笑顔で聞かれた。
「陸続きで国境を越えて、イスラエルへ行きたいのです」と私は答えた。
その途端、大使館員の眉間は険しくなり、睨み付けるように、「両国は交戦状態にあって、貴方はイスラエルへ行く事が出来ません。イスラエルへ行く人には、査証の発給を認めません」ときっぱり断られた。
結局、中東戦争の影響でレバノンからイスラエルへ行けず、レバノンの査証の取得を諦めた。それに第一の目的は、シンガポールを目指して行く事であり、レバノン及びイスラエルはそのルートから外れているので、影響は全く無かった。
 それにしても、イスラエルとレバノンを含むアラブ諸国とは、戦争状態である事は知っていたが、『陸続きで行ける可能性があるかも』と思った事は、第三次中東戦争(1967年のイスラエル対アラブ諸国戦争)後の中東情勢についての私の知識、認識が甘い証拠であった。 
レバノン大使館から今度、イラン大使館へ査証申請手続に行った。その大使館員の方が、「旅券の渡航先にイラン国名が未記入なので日本大使館へ行って、渡航先を記入して貰うように」と言われた。私は渡航先を確認しないで来てしまったのだ。しかしそれならイラクも渡航先未記入であったのに、如何してイラク大使館は、査証を発給してくれたのであろうか。分らないが多分、イラク館員は見落としたのであろう。
その様な訳で、直ぐに日本大使館へ行った。館員にトルコからイラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インド、ビルマ、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、マレーシア及びシンガポールまでの各国を旅券の渡航先に記入してくれる様お願いした。しかし館員は、「インドまで加えましょう。必要であったらその先の国は、インドの大使館・領事館でして貰って下さい」と案内された。結局、渡航先を追加して貰った国名はトルコ、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタンそしてインドであった。
この時、その大使館員からビルマ情勢の事で、「現在、ビルマは軍が政権を掌握し、内政不安定の為、渡航禁止の処置が取られ、ビルマへは行けない」との情報を得た。
又その館員から、「最近、若者が中東諸国やインドの渡航先記入が多いが、イギリスからどの様にそれらの国々を回るのか」と質問されてしまった。私の知っている情報を彼に教えて上げた。前に来た時の大使館員の態度は、慇懃無礼であったが、今日の館員はそんな感じでなかった。
所で、インドへ行くルートは、欧米の若者や日本人倹約旅行者、そしてハシシ(大麻の一種)を求めてヨーロッパのヒッピー達で最近多くなったようであった。
私は日本大使館を出た後、先週分の賃金を受け取る為、そして私の仕事の最終日にマネージャーのミセズ レーミンと相棒のホーさんが休んでしまい、挨拶が出来なかったのでボンド ストリートのウィンピー ハウス レストランに立ち寄った。レーミンさんにはお世話になり帰国後、手紙を書きたいと思ったので彼女に住所を聞いたら教えてくれた。そして彼女から最後のウィンピー料理をご馳走になった。