YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

おばちゃん達と子供達を引き連れて万屋へ~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-30 06:24:32 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
△荒涼とした大地の旅は人恋しい心境になる(この絵を二度使用)ーPainted by M.Yoshida

・昭和43年11月27日(水)晴(「おばさんの家に泊めて」と懇願)
 ここは、Leskovac(レスコヴァツ)と言う地方都市の郊外であった。昨夜、遠く右方向の高い位置に幾つも灯が見えたのは、この町の夜景であった。このレストラン兼キャンプ場は、その町から坂を下りて来て丁字路の右脇に位置する所にあった。
 軽く食事を取り、ゆっくりコーヒーを飲んでからレストランを後にした。30分間ヒッチした後、トラックをゲットした。割かし直ぐに乗せて貰う事が出来た。200キロぐらい乗せて貰い、Titov Veles(ティトフ ヴェレス)辺りで降ろされた。
 私は既にマケドニア共和国に入った。ここ(ティトフ ヴェレス)は、首都・スコピエからかなりの離れており、南下したした所であった。そしてスコピエはこの街道から大分離れているので、通って来なかった。ここからギリシャの国境へは、後150キロ程の所まで来たのでした。
 セルビアの南部、そしてマケドニアに入ってから村々(町を通らないので、その様子は不明。たいして変わらないと思う)、そして人々の様子は一段と貧しそうであった。家々の作りは貧弱で、しかも大人も子供達も着ている物は、余りにもお粗末であった。履物も履き疲れた様な物で、中には履物も買えないのか、裸足でいる多くの子供達を見受けた。大分南下したので寒さも少し和らいで来た感じであるが、それでも朝夕、素足の子供達にとっては冷たいであろう。
チート大統領の高い理想の下に推し進められている社会主義政策も、共和国、或は地域によってこれほどまでに現実的にギャップ(格差)があるのか、私は悲しい思いがした。
 ティトフ ヴェレスから2台目の車に50~60キロ程、乗せて貰った。降ろされた場所、その周りの景色は原野であった。時折強い風が吹き、草木をザワザワと騒がせた。淋風が私の心の中を通り過ぎて行った。人恋しさが一段とするのでした。
 1時間経ち、2時間過ぎても車は来なかった。ユーゴ人自慢のハイ ウェイに、全く交通量が無かった。この国の第一級の主要道路がこの様な状態であるなる、他の国道、特に地方道路は泥んこ道で全く車が通らないのも頷けた。人の移動や物流の無さが、南部セルビア、特にマケドニアの人々・子供達の服装や履物までも影響している、と感じた。
 私は街道端にじっとして、やって来る自動車を待つ事に我慢出来なかったので、『小樽の人よ』の歌を歌いながら街道を歩き始めた。そんなに重たい訳でもないのに、いやにリックが肩に喰い込み、カバンの重さが堪えた。何処まで歩けば村や町に辿り着くか、宛てなど無かった。ただ、歩き続けるだけで気が紛れた。
いつしか日が沈み、寂しさが更に一段と募って来た。今日も昼抜きの旅であった。疲れた。早く、何処でも良いから休みたかった。如何してこんなに辛い、そして寂しい旅をしなければならないのか、この旅にどんな意義があるのか等、自問・自答しながら歩いた。シンガポールまでの道程は、果てしなく遠かった。しかしもう少しでギリシャに入るのだ。そこには古代から栄えた、そして私の第1の目的地であるAthens(アテネ)があるのだ。もう少しだ、頑張らなければならなかった。
 車は、相変わらず通らなかった。私は歩き、そして又、歩き続けた。暗くなりかけた頃、終に附近に何軒かの家々が点在している村に辿り着いた。食料品店(?)の前で7~8人のおばさん達がお喋り(井戸端会議?)をしていて、そして15人程の子供達も何かして遊んでいた。おばさんや子供達は、薄汚れたボロボロの服を着て、子供達は履物も履いてなかった。余りにも貧しそうで、まさしく物資の無さ、購買力の無さを見た。
 いずれにしても、おばさん達や子供達が集まっている所へ私が突然現れたので、皆ビックリした様子であった。そしておばさんや子供達が私の周りに集まって来て、私の一挙手一投足の様子を物珍しそうに見ていた。私は見世物小屋のサルになってしまった感じであった。
日本人(東洋人)が珍しいのか、リックを背負った貧乏旅行者が珍しいのか、おばさんや子供達の目は、好奇心で満ちていた。腹が減っていたのでパンを買おうと店の中へ入って行った。皆もゾロゾロ付いて来て、店の中は一機に満員状態になってしまった。食料品店と言っても、日本の昭和20年代~30年代初め頃に於ける田舎の万屋(雑貨屋)の様な感じで、店内は薄暗く良く見えないし、雑然として何も無かった。もちろんパン類も売れ切れたのか、見当たらなかったし、口に入れる様な物も無かった。
 私はおばさんや子供達を引き連れて店から出た。夕方の5時過ぎ、既に暗くなって来た。寝る所が心配になって来た。私の周りに集まっている1人のおばさんに、ジェスチャ交じりで「この辺りに宿泊所、寝る所、ホテルがありませんか。もしなければ、おばさんの家に泊めて下さい」と尋ねた。他のおばさんにも、「私は疲れた。眠りたいのです。お金は持っています。おばさんの家に泊めて!!」とジェスチャと英語で必死の思いで訴えたが、通じなかった。
「私は、宿泊所を捜しているのだ。ここに無ければ、寝る場所をどなたか提供して下さい。お金を持っているから」と私は更に皆に訴えた。おばさん達は、私が何を言っているのか、キョトンとただ面食らっている様子であった。
すると、「あそこで聞いてみろ」と言わんばかりに、子供達が私を誘導するように万屋の隣にあるうす汚い貧弱な食堂(?)へ案内された。店に誰か1人いた。店主に聞く(実際はお互いに言葉が通じなかった)と、宿泊はしていない感じであった。
更に粘って村民のおばさん達に、ホテル、宿泊施設を捜している事を訴え続けた。すると男の人が現れ、「1キロ先にキャンプ場がある(?)」と言うのであった。しかしスラブ語だか、セルビア語か分らない言葉で言われたので、定か(確か)でなかった。しかし既におばさん達に訴えても埒があかないので、歩いて行って見る事にした。
 交通量が無い、真っ暗な街道を歩いていると間もなく、こちらに車が向かって来た。必死な思いでヒッチ合図をしたら、幸運にも止まってくれた。あれ程車が来なかったのに、歩き出して直ぐに車が来て止まってくれたのは、あの村人が私の事を他の人に話して、助けに来てくれたのかも知れない、と最初はそう思った。暗がりではっきり分らなかったが、私より少し年上の感じがする男性2人が乗っていた。聞くと、「我々はGevgelija(国境の町)へ行きます。モーテルがあり、貴方はそこに泊まる事が出来る」と英語で言うので乗せて貰う事にした。彼等は少し英語が話せた。それにしても、何と幸運な事か。昨夜にしろ、今晩にしろ、斯かる状態(土壇場)になっても物事は何とかなるものだ。私にはまだ運が付いていると思った。
 乗用車でない小型トラックに、私が真ん中に乗るよう誘導された。右側にドライバー、私が真ん中、左側にもう1人の男と言う配列になった。真中に座ってから、『失敗した』と思った。辺りは真っ暗、交通量も全く無かった。『両方から襲われ、金品を巻き上げられるのでは』と猜疑心に襲われたのだ。
 ヒッチを始めて夜、男性2人の同乗車に乗ったのは、初めてであった。そしてこんな席順で乗ったのも初めてであった。ドライバー1人の場合、運転中に襲う事は出来ないし、停車してから襲って来た場合、片方のドアから充分逃げられる可能性もあるし、銃器を持っていなければ抵抗も出来る。しかし、挟まれていたら停車しても逃げられないし、抵抗しても、もう一方から攻撃が来る。そんな状態を考えたので、『真ん中に座ったのはマズカッタ』と思った。
 実際、私は貧乏な旅人、現金は大して持っていなかったし、後はキャノン カメラ(2万円で昭和38年暮れに買った物)と腕時計だけだ。「出せ」と言えば、出せば良いのだ。トラベラーズチェックやM&Mの乗船引き替え券は、彼等にとって価値が無いのだ。下手に抵抗して殺され、その辺の山中に投棄されたらそれまでだ。決して死体は見付からない。1人のバカな日本人がユーゴにて消息不明になるだけである。割り切ったら、恐怖や不安は無くなった。
 本当は、彼らの親切心から私を乗せてくれたのだ。『強盗の類』と思われたら侵害であろう。2人は、私と話がしたいので、真ん中に乗るように誘導したと分った。それは乗って暫らく経って、彼等の言動は友好的であったからでした。
 途中、この車は昨夜と同じにエンコしてしまった。しかし、今度は直ぐに再出発が出来た。昨夜の事を思うと、本当に参った。この車で80~90キロ位乗せて貰った。彼等は、道路際にあるモーテルまで私を連れて来てくれた。『強盗の類か、と疑ったりしてごめんなさい』と心の中で謝った。でも一時、恐怖を感じたのも確かであった。
 部屋代は、25ディナール(約630円)で、ユーゴのお金を全て使い果たして宿泊した。ザグレブで泊まったペンションの2倍以上、高いが仕方なかった。
この頃の私はその料金・価格が適正なのか、否かについて考えず、ユーゴ人や西洋人に言われた通りに支払っていた。如何してかと言うと、西洋人(イタリア人以外)は料金・値段を吹っ掛けない、と信じていたからでした。