YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

日本の縁日や夜店で売っている綿飴や焼きイカが売っていた~イタリアのヒッチの旅

2021-11-21 10:27:02 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
 △さやかになびく潮風、青い空に青い運河。古の宮殿、寺院が静かな青の水面にその影を落としている。水に囲まれたヴェネチアは、旅情豊かな雰囲気を醸し出し、おおらかな、そして心豊かにしてくれた。ヴェネチアの乗合船にての私。

・昭和43年11月21日(木)晴れ(ヴェネチア観光で旅情を楽しむ)
 昨夜知り会った髭を生やしている鈴木、そしてカナダ人のアーロンと共に3人でヴェネチア観光をする事になった。 
所で、Venice(ヴェニス)をイタリア語でVenezia(ヴェネチア)と言うので、ここでは、「ヴェネチア」と言う呼び名で統一した。
ヴェネチアは本土と海を隔てているので、市内に入るのに本土と島を結ぶ長い橋(リベルタ橋3.5キロ)を渡った。私はこれで3度渡っているのであった。1度目と2度目はローマからウィーンヘ行った時、列車は真夜中の11時近くヴェネチアのサンタ・ルチア駅に停車した。その時、駅に進入進出はスイッチバックの形になるので、2度渡ったのである。今度ヴェネチアを去る時を入れれば4回になる。
ヴェネチアへ入る全ての車は、橋を渡った所までであった。市内に車道が無いので、これ以上車は、乗り入れ出来ない。
ヴェネチアは、多くの島から成っていて、大小の運河が市内の至る所、言い替えれば、個々の家の裏口まで張り巡らし、人や物の移動は、全て船に頼っていた。
タクシーは、『TAXI』と表示されたモーター・ボート、観光用のゴンドラ、そして市民の足はなんと言ってもFerry Boat(乗合船)であった。船の停まる所は、船着場と言わず、「ステイション」(駅)と言っていた。
 ユースの真ん前に運河(カルナ グランテ)があり、駅も直ぐ近くであった。我々はその乗合船に乗って観光に出掛けた。乗船代は50リラ前後であった。このカルナ グランテは、市内の中央に沿って逆Sの字形に走り、ヴェネチアのメイン ストリート(大通り)であった。大通りと言えば、車で混雑しているイメージがあるけれど、時たま船が行き交う程度で、船がしょっちゅう往来している訳ではなかった。日本を含む欧米の車社会にありがちな〝社会問題〟(交通渋滞、事故、排気ガス、騒音等)には、程遠い現実であった。
 運河を行く船上からのヴェネチアの眺め・光景は、最高であった。中世の趣を街並に残し、青色の綺麗な運河の水面に白大理石のゴシック風の宮殿やオリエンタル風ドームの寺院が、その影を落としているのだ。その白と青のコントラストが、とても印象的であった。
ヴェネチアの主たる見所と言えば、サン マルコ広場にあるサン マルコ寺院(オリエントの影響を受けている)やデュカレー宮(中世の政庁)であった。サン マルコ広場はレンガ敷きになっていて、それが中世から現存している古の感じがした。十字軍の兵士が同じこのレンガの上を勇ましく行進し、中近東方面へ戦いに挑んでいったのであろうか。又この広場は、満潮時になると3分の1は海面の下になってしまうので、海水が引いてもあちこちに水溜りが残っていた。この広場だけでは無く、街全体が地盤沈下し、市民にとって最大の悩みの様であった。
 サン マルコ寺院やデュカレー宮は、壮麗かつ壮大で目を見張る思いであった。又、広場にある鐘楼がこの広場に花を添えていた。中世の富と建築、美術の粋を集めて建てられたこれらの建物、広場、そして運河と街全体が調和していて、ヴェネチアの美しさ、素晴らしさ醸し出していた。
私は、こちらに来て色々な素晴らしい、美しい建物や景色を見て来た。最近、私は見慣れて来たのかそれらを見ても、或は初めて訪れる国でされ新鮮味が無くなり、興味さえも沸いて来なくなっていた。しかし、ヴェネチアは違っていた。
 所でこのヴェネチアは、日本の故郷を思い出させる様な、そんな懐かしい雰囲気のある所があった。場所は、はっきり分らなかったが、サン マルコ広場に来る途中、ある宮殿の広場に幾つかのテントを張って、そこで綿飴や焼きいか、焼芋等、日本の夜店で売っている物があった。縁日に来た様なそんな錯覚がした。その雰囲気がとても日本の縁日に似ていた。
 そう言えばイタリア人は、日本人と似ている所を感じさせた。陽気、あけっぴろげ、少し田舎者、そして東洋的であり、そんな所に親しみ易さが感じられた。そんな理由かヴェネチアで、私は日本の縁日の雰囲気に出逢って、余計にそのように感じたのだ。


中世都市の面影を残すヴェネチアの街は、旅人の心を静かに包んでくれた。サン マルコ寺院を背景に旅人のカナダ人のアーロンと後ろ向きの鈴木~ヴェネチアにて。

 私、鈴木そしてアーロンの3人は昼食を取る為、市中を歩き回った末、あるレストランへ入った。イタリア語を少し話せる鈴木も字が読めないのか、我々3人は迷った末に適当に同じ物を注文した。大きなお皿に出て来た料理はスープであったが、一見して違和感があるスープであった。中に動物の腸(はらわた)に似た物が入っていたので尋ねると、ウェイターは犬の鳴き声をした。3人とも犬と聞いて食べるのを拒絶してしまった。最初から何か臭みのある感じがしたし、見た目にも何かグロテスクの様な感じがしたので、誰一人として口を付けなかった。我々は、犬の腸スープを注文してしまったのだ。私はローマでもメニューが分らないので、犬の料理を注文してしまった事があった。今回で2度目になってしまった。   
我々があちこちと適当なレストランを探していた時、肉屋の店先に皮を剥ぎ取られた犬が天井から吊られているのに気が付いていた。又、レストランでそれらしい料理がある事は、ローマで経験したので分っていた。しかしよりによって我々の注文した物が、ドカット大きなお皿で出されるとは、思ってもいなかった。我々は全く手を付けずに支払だけ済ませ、レストランを出てしまった。
 見ているだけで気味の悪いスープをよく彼等(イタリア人)は旨そうに食べるのか。この辺がヨーロッパ人と比べて変わった人種である、と理解した。我々は他のレストランへ行って、スパゲティ ボンゴレ(200リラ)を注文した。私は腹が満たされないので、もう一皿、同じ物を注文した。
 ヴェネチアは、旅人同士で散策、或はショッピング(ジャスト ルッキング)するだけでも楽しい街であった。又、子供達が運河に掛かる橋を利用して板滑りをしているのに出くわした。子供の頃、土手で板滑りをした事を思い出した。子供達が「キャーキャー」言いながら楽しそうに遊んでいるのを見ていると、こちらまで楽しくなって来た。
 我々3人で市内観光している間、アーロンと話をする時は、勿論英語であるが、鈴木と話す時も英語を使った。それは、日本語が分らないアーロンに気を使っての事でした。3人でいるので日本語が分らないアーロンにとって、鈴木と日本語で話をしていたら疎外感を感じるであろう。私達日本人としても、お互いに仲間であると言う意識を持つには、この様な心使いも必要であろうと感じていた。そしてこの様な状況に於いて、日本人同士の下手な英語であっても、違和感が全く無いのだから、不思議であった。ユースで何度も日本人だけの集団を作り、日本語でペチャクチャ話をしている光景に出くわした事があった。その様な集団の中に外人は誰も入れないし、話し掛ける雰囲気も無かった。私でさえ異端児集団に見えたのだから不思議だ。英語は国際語であるように認識されている今日、そこに英語圏の人が居れば、皆の共通語の英語で話をするのが大切である、と思ったからだ。
 我々3人の市内観光も終りに近づいた。街全体が見渡せる眺めの良い運河上のテラスで、カップチーノ(イタリアのコーヒー)を飲みながらの語らいも楽しかった。時たま乗合船やゴンドラが行き交う運河、そしてその向こうに佇む絵になる様な中世都市の面影を残す街並み、或はひっそりとした水面を眺めているだけで、旅の疲れを忘れるのであった。そんな時、何処からともなく教会の鐘の音が我々の心を癒すかの様に優しく響き渡り、いっそう旅情を感じさせてくれた。
暫らくすると夕日が街や運河を黄金色に染め、一段と映えたその景色は、ヴェネチアの忘れ難い思い出として、私の心に深く印象付けた。我々3人は、昨夜知り合ったばかりなのに、今日こうして共に観光を楽しみ、お茶を飲み、語らい、そして最後に我々の観光の中でも最高の印象を与えてくれた黄金のヴェネチア。この時、我々は何の言葉も発せず、各々自分の感激、瞑想、旅情に耽っていた。2人の表情を見ると、『旅は良いなぁ』と感じている様であった。
このヴェネチアは、私の旅の寂しさ、辛さを癒してくれた。そして折角知り会い、旅の友になったのに、明日は別々に別れ、旅して行かなければならない宿命を我々は語らずとも既に理解しているのでした。我々はお互い無言のまま自分の世界に入って行った。遠い何かを見つめる様な2人の表情は、どことなく愁いを帯びていた。
 ユースに帰り、のんびり過ごしていたら午後8時頃、又、日高君と再会した。我々は再会と元気で旅をしている事に喜び合った。彼とは今回で5度目だ。旅をしていて、彼ほどチョクチョク会う人はいなかった。私と彼は、同じ道を同じ方向に旅をしているのだ。最初に会ってから彼は、私と同じアテネに向けて旅をしているのであった。不思議なもので、2人とも会おうと思って会っているのではない。何処かの国のユースで偶然に何回も出会うとは、世界は広いようで狭い感じがした。
 「旅は道ずれ、世は情け」と申しまして、彼と共に旅をしたい好人物であったが、「旅は1人に限る」のが良いのだ。以前、鈴木と言う人とヘルシンキからバルセロナまで旅をして来て、つくづくそう感じたからだ。
 この後、昼間共に観光した鈴木、日高と私の3人で社会主義国家について体験、情報、意見交換等をして、多いに語り合った。
長期間旅をしていると〝色々な意味〟(それは一人旅からの寂しさ、旅愁、或は、日本語の飢えから来るのかも知れない)で、共に気楽に語れる同胞の旅人がユースに居れば、それは『砂漠の中のオアシス』で、明日の旅に勇気を与えてくれるのだ。他の国の旅人も3~4人集まって話し合っていた。
 今日は、良い1日であった。明日も又、無事に旅が出来る事を祈る。おやすみ。

ヴェネチアに辿り着く~イタリアのヒッチの旅

2021-11-20 14:25:41 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
    △カルナ グランテ(運河)とサンマルコ寺院(ヴェネチアにて)

昭和43年11月20日(水)晴れ(外国で初めての高速道路)
 今日も良く晴れていて、ヒッチには最高の天気であった。しかしそれに反してヒッチ率は、駄目であった。と言うのは、パルマからVerona(ベローナ)迄の100キロ強を、朝から午後の4時近くまで懸かって移動しただけであった。
 ベローナ~ヴェネチア間は高速道路になっていて、私はゲートで侵入を断られた。料金所のおじさんは親切で、「ここ(ゲート入口)にいれば、乗せてくれる車が来るので待っていなさい」と言ってくれた。私はボール紙にVenezia(ヴェネチア)と書いて、車が通る度にドライバーにそれを示して、乗せてくれるのをゲート手前で待った。
 既に5時近く、薄暗くなりかけている頃、運良くガソリン車が停まり(ゲート前だから止まるのが当たり前)、乗せて貰った。
その車で一気にヴェネチアまで行った。過去2~3度、東名高速道路を乗せてもらった事があったが、今回こちらに来て初めてであった。100キロ程を1時間と少々であったから、かなり速いスピードで走っていた。ヴェネチアに着いたのは、既に6時を過ぎていた。ヴェネチアに入る前、本土とヴェネチアを結ぶ橋の上から眺めた街の灯りが、とても綺麗であった。
 船のルート線はNo5、ユースがある船着場まで50リラ(約25円。1リラは50銭)であった。ユースのペアレントが親しく、「ようこそ」と日本語で迎えてくれた。日本語であったので一瞬ビックリ、しかし彼が話せるのはこれだけであった。
 ユースで髭を生やし、イタリアに長期滞在し、イタリア語が少し話せる鈴木さん(以後、敬称省略)、そしてもう1人の旅人、カナダ人のアーロンと親しくなった。

ドライブを楽しむ~イタリアのヒッチの旅

2021-11-19 09:46:51 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
             △パルマからアペニン山脈を望む(PFN)

・昭和43年11月19日(火)晴れ雪曇り(リヴィエラからアペニン山脈を越えて)
 ジェノヴァのユースは、高台にあった。直ぐ前が道路、それを挟んでその向こうが、何処までも見渡せる海岸、そしてさらに大海原が果てしなく広がり、とても景色の良い場所であった。
 朝食を済ませ、又、今日も旅が始まる。そんな時、余りにも素晴らしい眺めなので出発前、暫し足も止まってしまった。昨日来た時は、既に暗かったので何も分らなかった。今こうして今日1日が始まろうとするその瞬間に、この景色を眺めていたら、『自然は、不思議なものだなあ』と感じるのであった。
 そうこうしている内、昨夜、言葉が通じ合わなくても心が通じ合ったノルウェーからの旅人ピンターがユースから出て来た。この景色をバックに2人で写真を撮った。その後、私達は道路に出た。ピンターは右ニース方面、私は左のローマ、ヴェネチア方面に別れて行った。
 東リヴィエラの旅も最高であった。天気も良いし、春の様にうららかな陽気であった。道路の直ぐ右下が海、そして左側は山々が果てしなく連なり、その山が海岸線まで迫っていた。そんな地形であるから、崖下を覗き込めば波が岩にぶつかり水飛沫を上げ、それが一条の線となって見えた。顔を戻せばリグリア海が果てしなく広がって見えた。この素晴らしい景色は、La Spezia(ラスペツィア)まで続いた。こんな時のヒッチの旅は、最高であった。
この時に乗ったドライバーとはお互いに言葉が通じず、何を考えているのか分らなかった。愛想も良くなかったが、乗せてくれたので、きっと気持の良い人なのであろう。
 ラスペツィアの手前で道は、二手に分かれていた。直進だとピサ・ローマ方面、左はParma(パルマ)方面になっていた。私はこの人気のない郊外の交差路で降り、左のパルマ方面に向かって歩き出した。
道は急に勾配になり、車は余り走ってなかった。昼食にパンをかじりながら、停まってくれる車を待つ事にした。でも、そんなに待たず又、乗せて貰えた。
 乗ってから直ぐ、勾配と急カーブの連続で、ぐんぐん高度が上って行く感じがした。地図を見るとここは、2000メートル級の山々が連なり、私は『アペニン山脈』越えをしているのであった。道は、何処までも連続上り勾配と急カーブを繰り返し、道幅もかなり狭くなり、ドライバーは慎重に車を運転していた。そして、標高が上って来たので積雪もあり、そして除雪車が活動しているのに出くわした。
 峠まで景色とスリルあるドライブを楽しんだ。峠のドライブインでドライバーからコヒーをご馳走になり、そして彼は去って行った。峠はかなりの積雪があった。そしてとうとう雪が降り出して来た。こんな所で放り投げられたら堪ったものではないと心配したが、それもつかの間、直ぐに他の車が通りかかり、その車に乗せて貰った。
 又、幾つも山を越え、そして今度、車はひたすら山を下りた。私はただ乗っているだけだが、降雪の悪天候に加えて、下り急勾配と急カーブの連続、そして積雪等で運転には最悪条件だったので、落ち着いて乗っていられなかった。何か事故が起こって怪我をしたらどうしようと心配で、後半はこちらまで気疲れしてしまった。いつしか雪も止んで、山又山の向こう、遥か彼方にパルマの町が霞んで見えて来た時は、疲れも飛んでしまい、言い知れぬ気持が胸に迫った。『旅は良いなぁ』万感の思いが込み上げた。
今日のヒッチの前半は、小春日和の良い天気で景色も良く、中盤は、雪降る中の山岳ドライブ、そして後半は、山脈越えをした安堵感と変化に富んで旅の良さを知った。
 パルマは、イタリアの地方都市、古い街並みで落ち着いた雰囲気を醸し出していたが、晩秋の為か寂しさをも感じた。ユースは、街の中央にあった。ホステラーは、男性私1人、女性アメリカ人のヒッチ ハイカー3人であった。明日、ヴェネチアに到着する予定だ。


ユース ホステルの話~イタリアのヒッチの旅

2021-11-18 15:57:12 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
*「旅は良いなあ」からの続きです。

*ユース ホステルの話
 〝ユース〟(『Youth Hostel』ユース ホステル)に泊まるには、財団法人ユース ホステル協会の会員にならなければならなかった。諸事情によりヨーロッパでは、極力ユースに泊まる為、私は出国前の5月14日に会員になった。会員になれば、「IYHF」=International Youth Hostel Federation(国際ユース ホステル連盟)に加盟している全ての国のユース ホステルに適用される。大抵の国(共産圏諸国、中近東諸国、インド、アフリカ等は除く)は、この連盟に入っていて、各主要都市及び地方・地区にユースがあり、我々ヒッチ ハイカーにとっては、安く宿泊出来るので有り難い施設であった。
 食事付ですと勿論、宿泊料もアップします。ユースによって2食付き、又は朝食だけ、或は全く食事が付かないユースもある。都会の大きいユースは夕食、朝食付きが殆どであるが、地方のユースは、食事が付かないのが殆どであった。
 ユースは、若者達に安く宿泊させるだけが目的ではありません。それでは、ユースの目的は何であろうか。会則を見ると、次ぎの様に書いてあります。
 『本会は、IYHFの規約に則り青少年に対して自転車旅行、ハイキング等によるレクリエーション及び教育の機会を与え、自力による簡素な旅行によって、国内外の風物・文化・歴史・産業等各方面の見聞を広め、規律あるグループの行動及び日常生活の良き習慣を体得し、以って世界的市民としての見識及び教養を涵養せしめる事を目的とする』と。
従って、宿泊すれば守るべきルールがあるのは当然で、いくつかの禁止事項があります。中は、これらのルールに違反する者がいますが、大体どのユースに宿泊しても、多くの若者はルールに沿って宿泊していた。
ユースには色々な国から若者が集まり、お互いにもっと語り合いたい気持があったが、お互いに言葉の壁があり思う存分コミュニケーションが図られていると言う現状ではなかった。
 私はユースのペアレント(管理者)が先に立って、折角集まった世界各国の若者を同席させ、色んな催事やお互いの意見・主張を発表出来る場をつくったら、もっとコミュニケーションが深まり、そして友好・友情が深められると思った。もしも万能同時通訳機器みたいな便利な物があれば、更に深く彼等の考え・意見を聞けるし、私も日本語で思いっきり話し、意見を述べたいと思った。何はともあれ、言葉が通じ合わなくても心が通じ合えば、それは1つの素晴らしい小さな国際交流ではないでしょうか。ユースとは、そんな小さな国際交流の場であった。

旅は良いなぁ~イタリアのヒッチの旅

2021-11-18 15:36:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
        イタリアのヒッチの旅(旅は良いなぁ)

・昭和43年11月18日(月)晴れ(コート ダジュールの素晴らしい景色)
 内陸部フランスは、本当に寒かった。しかしここニースは温暖で、本当に気持が良かった。日中、ジャンバーを着ていると、暑いぐらいであった。
 ニースは、Cote d Azur(コート・ダジュール)の中心で、この他に有名なカンヌ、モナコがある。この辺り一帯は、世界的にも有名な海水浴場のリゾート・タウンでもあり又、冬は暖かいので、避寒地としても最適なのだ。ニースを中心に別荘が道路を隔てた山側に数多く散在していたし、その反対の海岸線沿いには、ホテルが建ち並び、それがずっと連なっていた。しかしそれにも拘らず今日は月曜日、しかも夏期休暇、或はクリスマス休暇期間ではないので、海岸や街は閑散としていた。
 天気は良いし、地中海も青々として、こんな素晴らしい所で1・2週間のんびりと過してみたいのだが、1泊しただけで本当に残念であった。『でも、良いではないか。天気は最高、海もきれいだし、このニースの町、そしてコート・ダジュールの雰囲気を肌で感じる事が出来たのだから』と自分に言い聞かせ、納得させた。
 ニースから暫らくの間、車は海岸線に沿って走ったので、景色を十分楽しむ事が出来た。それから海岸沿い7号線から青く美しい地中海は所々しか見られず、そして一気にMonaco(モナコ)へ入り、再び海岸沿いを走った。
バチカン市国に次いで世界最小国のモナコ、そのMonte Carlo(モンテカルロ)で1泊して、カジノを楽しんで行きたい気分であったが、車中から一見しただけで、モナコ王国を通り過ぎてしまった。
 ニースからMenton(マントン)までは、車2台を使って着いた。マントンは、フランス領最後の国境の町、私は海岸沿いにその町を歩いた。昨日まで寒さや雪で悩まされたが、今日は本当に暖かく、ジャンバーを脱いで燦々と降り注ぐ優しい太陽の光を体中浴びながら、歩いてコートタジュールの旅を楽しんだ。
 列車の旅と違った、本物の何か旅らしさがここにあった。『本当に外国へ来て良かった』と心の底から純の気持にさせてくれたのは、この景色と気候の所為であろうか。友達や職場の仲間にもこの感じ、この気持を味わって貰いたい、と思った。しかし多分、故国の仲間達は、相変わらず毎日の仕事や生活に追われ、一生こんな気持を味わう事なく終るのは、余りにも悲しい定めであろうか、とここマントンから思った。
 マントンの街を過ぎ無人のフランス出入国管理事務所を通過し、直ぐイタリア国境の事務所があった。係官は愛想よく私を向かえてくれた。彼は、「ハシシを持っているか」と尋ねた。私は、「ノー」と言ったら、素通り状態でイタリアに入国出来た。しかしおかしな事だが、荷物検査をするならいざ知らず、ハシシを持っている人が役人に尋ねられ、「ハイ持っています」とあえて罪になる様な事を言うバカが何処にいるのか、と思った。ただ彼は、形式的に任務を遂行しているのに過ぎなかった。
 私は、既にイタリア領に入ったのであった。道路の右下は断崖になっていて、透き通るほど青々とした海水が、その崖に打ち寄せ、荒々しさをかもし出していた。『旅は良いなぁ!』、いつしか又、独り言を言ってしまった。そして歩きながら「会いたい♪気持が♪ままならぬ♪小樽の町は♪冷たく遠い♪・・・」と〝小樽の人よ〟(鶴岡雅義と東京ロマンチカの楽曲1967年。ウェールズのヒッチの旅の時も、この歌をよく歌っていた)を歌いながら、コートタジュールとリヴィエラの旅情を楽しんだ。リヴィエラも、山が海岸線まで迫っていて、コート・ダジュール同様に素晴らしい光景の連続であった。
 暫らくの間、街道を歩きながら景色や旅情を楽しんだ後、ヒッチして3時半頃、私はGenova(ジェノヴァ)の郊外に着いて、歩いて市内へ入った。ここまで来たら天気も変わり、今にも雨が降って来そうな空模様に変わっていた。
 ジェノヴァは、市と言っても大きな都会、その中心地へ入るのにも道や方向が分らず、気を使いながら、人に聞きながら歩いて入ったので、大変であった。しかしながら、気を使いつつ市内を歩いていると、多少なりともこの都市の様子が分かった。ある時は何かを発見したり、ある時は又何かを思い出したりした。そうだ、学生時代に社会や歴史の授業に出て来た都市なのだ。現実に、自分がそれらを学んだ場所の真っただ中に居る、そう言う事実が不思議でならなかった。歴史的には、アメリカを発見したコロンブスの生地であったり、都市国家として栄えて中世には中近東や北アフリカまで十字軍を派遣しその勢力を伸ばしたり、ヴェネチアやピサの都市国家と勢力争いをし、ヴェネチアに破れ衰えていったとか。
近代になりジェノヴァは工業化に成功し、現在、商業港と共に北イタリアの工業地帯の中心地として栄えているのだ。いずれにしても、そんなことを思い出しながら市の中央広場に辿り着いた。広場の正面には、ゴシック調の聖アンブロジオ寺院が堂々と建っていた。その寺院は、荘厳・壮観・重量感に溢れ、見る人を圧倒する感じを与える建物であった。この中央広場には、無数の鳩がたわむれ、観光客や市民がその中にいる感じであった。
 バス ターミナルはその寺院の反対正面であった。言葉が互いに通じ合わないが、今まで何人かに聞いた感じからユースは、市の郊外にあり、バスで行った方が便利らしいと分った。でも、どのバスに乗ったら良いのか分らず、バス ターミナルをウロウロしていたら若いイタリア女性から英語で、「どうかしましたか」と声を掛けられた。「ユースへ行きたいのだが、どのバスに乗ったら良いのか分らなくて、困っています」と言った。そしたら、彼女は親切にユース行きのバスを教えてくれた。別れ際に、彼女の方から握手を求められた。親切にして貰い、女性の方から握手を求められたのは、初めてであり嬉しかった。旅の疲れを癒された想いであり又、気候や素晴らしい景色で今日は、特別に気持の良い1日であった。
 ユースに着いたのは6時であった。このユースで4度、日高と出会った。彼とは最初11月13日パリのユースで出会って、翌日に彼とパリ見物をした。2度目は、15日共にユースを去りバスに乗ってパリ郊外へ出て、その夜のリオンのユースで再会した。16日リオンのユースを共に去りバスに乗って郊外に出た。3度目は、17日にニースのユースで藤森君と共に再会し、そして今夜で4回目の出会いであった。同じ方向にヒッチの旅をしていると、時にはこの様に何度か巡り会う事があった。前にも荻さんと北欧のユースで何度か会ったが、しかし4度も出会う事は、本当に珍しいのであった。
「やあ、又会いましたね」と言って、今までの旅の事、或いは世間話して旅の疲れを癒した。
この様に今回は、特にユースを使っての旅になったので、良い機会なのでユースについて話しておく事にしよう。

ヒッチの旅は、常に人々の善意で・・・~フランスのヒッチの旅

2021-11-17 08:11:48 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月17日(日)雪のち晴れ(こんな嫌な感じは初めて)
 起きたら雪はまだ降っていてガッカリであった。今日の天候は、ヒッチするのに最悪の状態を予測して、ユースを出た。
リックを背負い、片手にバッグを持った手は、非常に冷たかった。こんな日もあろうかと思って買ったフード付きジャンパーは、雪を凌ぎ、体の体温を防いでくれたが、手袋無しで、その冷たさに悩んだ。片方の手をポケットで温めておいて、一方の手が悴んで来たら逆にして、その冷たさを凌いだ。
 ユースから街道までは直ぐ近くで、思っていた以上に早めに1台目をゲット出来た。午前中だけで3台釣れた。ヒッチ率は、最悪を予想していたので嬉しかった。南下するにしたがって、天候は雪からみぞれ、そして曇りから晴れて来た。3台目でバランスから200キロ稼ぎ、マルセイユに着いた。  
 ちょうどお昼頃、駅前のマーケット街でパンを買ったが、その店のおばさんに、私は異様な目付きで睨まれた。そればかりか私が街を歩いていると、マルセイユの人々は、日本人である私を見る目が敵視するように睨んでいた。
 フランスを含むヨーロッパ旅行中、或は、滞在中にこんな嫌な感じを受けたのは、初めてであった。多くのヨーロッパ人は、普通に接してくれた。中には、友好的、親切心を持って接してくれた人もいた。今までだって、そして先程までフランス人は私に対して普通に、或は友好、友情的に接してくれたのに、如何してマルセイユは違うのだ。
第2次世界大戦で敵対関係であったからか。それとも、最近日本人がこの街で悪い事をしたからなのか。言葉を発しないし、通じ合わないので、その真意は分らなかった。街の人々皆がそんな目付きで見ていると、私は居た堪れなかった。駅前階段に座り、固いフランス・パンをかじって昼食を取りながら、そんな事を考えた。  
 私の最初の計画では、このマルセイユからフランス商船M&Mで帰国予定(今年の出航予定は9月16日と11月6日であった)であったが、自由の身になったので今のマルセイユは、道中の通過都市にすぎなかった。
 所で、マルセイユは南フランス最大の都市であるのみならず、地中海沿岸でも最大の都市であろう。見るべき名所旧跡もたくさんあるかもしれないが、いずれにせよ嫌な感じがしたマルセイユは、通過するのに未練は無かった。感じの悪い街だし、歩いて郊外へ出るのも面倒だから、Nice(ニース)まで列車で行く事にした。大事な所持金の内から7フラン(約490円)使ってしまった。
 この区間の列車の旅は、久しぶりであった。いつこの区間に乗ったのであろうか。日記を見て調べたら、8月8日のフランスのセルベールからマルセイユ経由イタリアのサヴォーナへ行く時に乗ったのだ。鈴木そしてリターと別れ、1人旅の寂しさや不安を感じながらの旅であったのだ。今でも一人旅の寂しさ不安があるが、近頃は旅慣れして来たので、その感じ方が大分、少なくなっていた。
前の事を思い出しながら乗っていたら、ニースに午後8時頃着いた。駅前にいる人達にユースへ行く道を尋ねていたら、1人の男性が近寄って来て、車でユースまで連れて来てくれた。
ヒッチの旅は、常に人々の善意でなされるも。人の善意が無ければ、ヒッチの旅は出来ない。善意を受けながら、いつまで旅が出来るのであろうか。善意を受けるのではなく、善意を与えうる人間に成らなければいけないのであろう。その様な人になるには、もう少し先になるであろう。
 ユースは、ニース郊外の高台にあった。ここから町の夜景が綺麗であった。そして更にその向こうは、どす黒く見える地中海と点々と漁火が見えるだけであった。
このユースで2人の日本人と出逢った。1人はパリ、リオンのユースで会った日高君、もう1人は藤森康雄さん(以後敬称省略、東京都墨田区出身)、私と同じ位の年齢であった。その藤森から始めて貴重な中近東の情報を得た。例えどんな情報でも、私にとって大変有り難かった。彼は大学生でタイ語が話せて、タイからインド、中近東経由でこちらに来たとの事でした。


手が冷たい、手袋が欲しいョ~フランスのヒッチの旅

2021-11-15 21:12:29 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
昭和43年11月16日(土)曇り後雪(バランスのヒッピーとダンスをする)
 昨日と同様、今日も日高と共にバスに乗り郊外に出た。バスの中に、ユースで会ったヒッチ ハイカー達も乗っていた。余談であるが11月22日、その内のカナダ人男女2人と再びヴェネチアの郊外へ出るバスの中で出会っている。所で、リオンのバス運賃は距離制でなく、〝時間制〟(乗車時間で運賃が高くなったり安くなったりするする仕組み)であった。
 今日は又一段と寒さを感じた。今にも氷雨か雪が降りそうな、そんな空模様であった。1台目、2台目と乗り継いで行ったが、とうとう雪が降り出して来た。土曜日と悪天候でヒッチ率は悪く、道路端に立っていると、とても辛かった。叉、いつもの様に昼抜きで腹が減り、加えて手袋が無いので手が冷たく、寒さが一段と身に沁みた。それでもロンドンで買ったジャンパーがとても威力を発揮して、買って本当に良かったとつくづく感じた。傘やレインコートは無く、ウェールズのダディから貰った古コートが雨雪を凌いだ。
 雪が降り続く中、やっとの思いで3台目をゲットして、Valence(バランス)と言う町に辿り着いた。リオンから110キロぐらい南下した小都市であった。雪は相変わらず降り続いて、一面の銀世界になっていた。
 既に午後の4時になっていた。しかも雪が降っているので無理なヒッチの旅は、控える事にした。今日、9時頃からヒッチを始めて7時間経過したが、進んだ距離は、たった110キロ程度であった。この先のユースは、Avignon(アビニョン)と言う町にあり、そこまで100キロ以上あるので、後2・3時間で辿り着ける保証は無かった。そんな訳で移動距離に不満であったが、今夜はこの町のユースに泊まる事にした。
 街の中を歩いていると、向こうからヒッピーの男性2人がやって来たが、近寄って見ると一人は女性であった。私は2人を地元の人だと思い、彼等にユースの場所を尋ねた。するとその男性は、
「6時頃、ユースはオープンするので、その時間まで我々とダンスしに行こう」と誘ってくれた。特にする事も無いし、折角地元の若者に誘われたので親しくなりたいと思い、彼等の後に付いて行った。もう1人の女性も感じが良かったので、〝安心感〟(本当は内心、変な所へ連れて行かれ、金品を巻き上げられるのでは、とチョッピリ不安感があったのも事実であった)があった。
 彼等と逢った場所から歩いて5~6分、裏通りのある簡易建物の2階へ上って行った。物置の様な感じの部屋には、天井中央から薄暗い裸電球が1個ぶら下がっているだけであった。暗く、周りの状況が良く分らず、一瞬、『変な所へ来てしまった』と後悔の念が過ぎった。しかし次第に目が慣れて来ると周りの状況が分り、そこには25人程のヒッピー達が集まっていた。私を案内した彼は、主要メンバーの何人かを紹介した。彼等は皆、私を快く迎えてくれて、一安心したのであった。
 お互いに余り言葉が通じず、心(気持)が意思疎通となった。今日はヒッピー達のモンキー ダンスの集まりの日であったであろう。私も少し長めの頭髪をしていたので、ヒッピー仲間の様に親しさを感じて私を誘ってくれたのであろう。私は水替わりに持参していた2フランの安いワインを彼等に差し出すと、皆は喜んで回し飲みをした。ワインなんてフランスでは、飽き飽きしていると思うのに、しかも一番安物であるにも拘わらず、「メルシー、メルシー」と皆に言われてしまった。私は返って恐縮してしまった。  
 エレキギターが弾ける何人かで編成され、音の大きなビートに合わせて皆、一斉に踊り出した。私も彼等に混じって踊った。暗い板の間の部屋で一斉に踊っているので、大分、埃がたっているのであろうか、喉がいがらっぽくなってしまった。
 フランス人ヒッピー達と共にモンキー・ダンスを踊り、楽しい時間を過ごした。だが、そろそろ時間になったので、再び連れて来てくれたあの男女2人が、ユースまで私を案内してくれたので、無事に泊まる事が出来た。
 フランス滞在中、若いフランス人と付き合ったのは、数回で珍しいのであった。とにかくフランス人は、取っ付き悪いイメージがあったのが、一変に帳消しになったほどで、快い感じがした。彼等と共に踊った一時は、忘れ難い旅の良い思いでとして心に残るであろう。
 ユースは、暖房設備が無い広い部屋に私1人、雪はまだ深々と降っていて、寒さが一段と堪えた。遅くなってから“Tommy”(トミー)と言うイギリス人が入って来て、何か一安心した様な心境であった。
 今日のヒッチは、100キロチョットしか進まず。シンガポールまでは、遥か遠いのであった。

一気にリオンへ~フランスのヒッチの旅

2021-11-15 07:58:01 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月15日(金)曇りのち雨(最長距離ヒッチと日高君)
 同じマルセイユ方面へヒッチする日高と共にバスに乗り、パリの郊外に出た。あちこちの道路上の水溜りは、氷が張っていた。今日は一段と寒かった。
 郊外の街道に出たら直ぐ、彼は車をゲットして去って行った。私も今日は早めにヒッチが出来て、パリを去った。
 2台目の車は、長く乗る事が出来た。フランスの家並みや田園風景を眺めながら、そして野を越え、山を越えて車は走った。
Lyon(リオン)に入る前の山岳地帯から雨が降り出し、薄暗くなって来た。雨の降りしきる山中でも何組かのヒッチ ハイカーがこの車に対して合図を送っていた。しかしこの中年男性ドライバーは彼等を無視して、幾つかの山を越え、峠を下り、リオンへひた走った。この車に400キロ位、乗ったであろうか、今日は本当にラッキーであった。彼はリオン駅前で降ろしてくれて、ユースへ行くバスを教えてくれて去っていった。
 私は2回バスを乗り換えた。私が市民にユースへ行く道を聞いても言葉が通じないので、苦労しながら捜し求めた。午後8時近くになっても、あちらへ行ってウロウロ、こちらに来てウロウロしていると車が走り寄り、「何処へ行くのか」と聞かれた。「ユースを探している」と答えると、彼は親切にユースまで連れて来てくれた。「有難う御座いました」と彼に感謝した。
 今朝、共にバスに乗り、パリの郊外へ出たあの日高(歳は私と同じ位)が先にユースに着いていた。彼は大分、外国慣れした人であると感じた。
 リオンは、パリ、マルセイユに次いでフランス第3位の都会。ローマ時代から既にこの地域に於ける政治・宗教の中心地になっていたらしく、それらの遺跡や大寺院が点在しているとの事だ。又、近年、商業・工業地帯の中核をなしていると聞いている。そんな理由なのか、リオンに入るや工業地帯である事が直ぐ分った。
何れにしてもリオンに折角立ち寄ったのに、それらを観光しないで去るのは、本当に残念であるが、余り道中、立ち寄ってばかりいられない状況であった。


晩秋のパリの様子~フランスのヒッチの旅

2021-11-14 07:58:58 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月14日(木)晴れ(3度目のパリ)
 1度目、そして2度目に訪れた時は夏で、パリは観光客で賑わっていた。今は落ち着きを取り戻した様であるが、晩秋のパリはなんとなく寂しい感じがした。落ち葉が舞い、行き交う人々はコートの襟を立て、足早に歩いていた。そして通りにあるカフェ店のテーブルも寒い為か、あれ程賑わっていたお客も今は居らず、閑散としていた。
 ユースで知り合った日高修吾さん(以後、敬称省略。大阪府豊中市出身)と共にそんなパリの街へ散策に出掛けた。名残尽きないパリを明日、旅立つ。花の都・パリの印象を心に秘めて・・・。

ホモの車に乗ったアメリカ人~フランスのヒッチの旅

2021-11-13 13:57:45 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月13日(水)晴れ(最初で最後の若い女性の車をヒッチ)
 ロンドンに滞在していた時は、毎日曇りか小雨の日が続いて、部屋にいると居たたまれない気分であったが、フランスに渡ってから3日間連続して晴れの日が続いていた。天気が良いと、それだけで気分も晴れた。そう言う意味で人間の心は、天候でも左右され・昭和43年11月13日(水)晴れ(最初で最後の若い女性の車をヒッチ)るのか、ましてヒッチの旅には有り難い。
 今日も昨日に続いてヒッチの旅が続いた。1台目、2台目、3台目と乗り継ぎパリへと向かった。しかし乗車区間が余りにも短かったので、パリへ近づいていない様な感じであった。車に乗っている時は良いのだが、降ろされて道路に立っている時は、とても寒く、辛かった。イギリスに滞在していた時は、寒い日もあったが、こんなに寒くなかった。ここ3・4日で気温が急に変化したのであろうか。それともフランスへ入って大陸性気候になった為なのか。顔が冷たく、手がかじかむ、手袋が欲しかった。
 4台目は、かなりの長い間(約1時間)、道路端に立たざるを得なかったが、寒さの中を辛抱した甲斐があって、若いフランス女性に乗せて貰った。幸運な事にこの車で160キロ、一気にパリまで行った。
この様な車に乗せて貰うと、ヒッチの旅も最高な気分に変わった。彼女は英語が話せず、私はフランス語が全く話せないので、2時間以上同じ車内に居ても、まるっきり会話が無かった。
 途中2回、警察の検問に引っ掛かった。交通取締ではない感じであった。何か重大な事件が発生し、その為の検問の様な感じがした。
 私を乗せた彼女の年齢は、同じ位か年下と推測した。感じはとても良く、フランス女性そのままの雰囲気があった。途中、人気の無い寂しい所で休んだ時があった。ヒッチ ハイカーが私みたいな純情・純粋な男で、彼女は幸運であったのだ。もし卑屈な男であったら、彼女は犯されても仕方ない様な無防備の状態であったのだ。犯罪的行為をしてはいけないのは勿論であるが、乗せる方も、そして特に乗せて貰う方もお互いマナーだけは守って、楽しい旅でありたいものだ。
パリに近づくにつれて、多くのヒッチ ハイカーを見掛けた。彼女は彼等に目をやらず、パリへと車を走らせた。
 パリのほぼ中心に着いて彼女と別れる時、お礼に日本の絵葉書を数枚差し上げた。 お世話になった人(ヒッチで長く乗せてくれた人)に御礼として絵葉書を上げたいので、私はロンドン滞在中、妹から取り寄せておいたのだ。私が日本から持って来た絵葉書は、既に使い果たし無くなっていた。何故その様な事をするのかと言いますと、長距離乗せて貰い、お世話になって「ハイ、さようなら」では余りにも義理が立たないではないか。日本人の心情を良くしておくのも、我々若い旅人の勤めでもあるし又、絵葉書を贈る事によって日本観光の宣伝にもなるのではないか、と思うからであった。又、私の様な心掛けの人が何千何万と後に続いてくれれば、それは、日本とその国の平和交流、国際親善の一環に役立つ、と信じるのであった。
 パリのユースに泊まったら、ドーバーのユースで会ったアメリカ人の旅人と又、会った。我々は再会を喜び合い握手をした。彼は、「カレーの郊外で私が乗っていた事を覚えているだろう。あのフランス人のドライバーはホモで、危うく犯されそうになったが、君は乗らなくって良かったな」と言った。乗らなくってではない、乗せて貰えなかったのである。しかし彼には失礼だが、犯されそうになったとは、可笑しくて仕方なかった。
 今回でパリは、3回目の訪問になった。夕食後、前にパリ滞在中に部屋を提供してくれたマサオの所へ行って見る事にした。私がロンドンに居る時、彼は手紙を書いてくれる事になっていたが、とうとう1通も届かなかった。でも彼はまだ元気で居るかもしれないと思い、再会を楽しみにしていた。 
一方、彼と別れる時(8月24日)、「僕はもう少し経ったらパリを去り、スペインのある島へ行きます」と言っていたので、若しかしたら既に彼は居ないのでは、と危惧していた。懐かしい階段を上って行った。部屋は鍵が掛けられ、マサオは既に住んでいる様子はなかった。管理人のおばさんや隣部屋の人の話では、「10月中旬頃、彼はここを出て行った。行き先は分らない」との事であった。マサオは、スペインの『楽しい島』へ流れて行ったのであろう。私は彼がそこで元気で居る事を望むだけであった。