YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ベオグラード観光と盗難事件~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-25 14:19:40 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月25日(月)晴れ後曇り(ベオグラード観光と盗難事件)
 今日、昨晩知り会った感じの良いカナダ人のヘンリーと共に市内、そしてベオグラードの古城見物に出かけた。その古城は、市の北端ドナウ川とサヴァ川の合流した場所にあった。古城から市街、ドナウ川とサヴァ川の眺めが、とても素晴らしかった。又城内には、中世の刀剣、鉄砲、絵画、骨董類等、数多く展示された博物館があった。素晴らしい古城にも拘わらず、観光客は少なかった。そしてドナウ川から吹く風は、強く冷たかった。
 ユースに着いたら相棒のヘンリーが、「リックの中からトランジスター ラジオが無くなっている」と騒ぎ始めた。「Yoshiも調べた方が良い」と言うので、私もリックの中を調べた。すると、確かにある筈の万年筆が無くなっていた。
部屋には3人宿泊していて、私とヘンリー、それとヨルダン人であった。午前中、私とヘンリーは彼が部屋に居る間に街へ出掛けた。そして夕方、我々がユースに帰って来たら、既に彼も部屋に居た。そんな訳で、ヘンリーはヨルダン人の彼に、「リックの中に入れておいたトランジスター ラジオが無いのだ。そして彼のリックからも万年筆が無くなっているのだ。貴方が盗んだのだろう」と詰問した。
「私は先ほど帰って来たばかりで、何も知らない」とヨルダン人は惚けた。
ユースは我々ホステラーが外出中、部屋の鍵を掛ける事はしないし、誰でも部屋へ入る気になれば入れた。しかもリックは鍵が付いてないので、簡単に盗む事は可能であった。その様な訳で、他の者が部屋に入って、盗ったかも知れないのだ。しかし一番怪しいのは、ヨルダン人であったが、決定的な証拠は無かった。
 所で、何かを盗まれたのは、これで3回目であった。1回目は、北欧のユースで折りたたみ傘がいつの間にか無くなっていた。私は盗まれたと思っている。しかもそれは、日本人であると。大体欧米人は、多少の雨では傘を差さない習慣がある。しかも、夏の好天が続く時期に、欧米人の旅人が傘を盗んでまでもする行為とは、考え難かった。
2回目は、正露丸であった。パリまであった正露丸が、その後いつの間にか無くなっていて、腹が痛くなったイタリアのサヴォーナで気が付いた。正露丸は黒い丸い粒で臭いし、服用すると苦いのだ。これが何だか欧米人には分らないし、分らない物を盗る人はいないと思うのだ。薬の入れ物を見て、『正露丸』と一目で判るのは日本人なのだし、盗ったのは日本人以外、考えられなかった。お陰でサヴォーナ、ピサ、そしてロンドン滞在中に腹痛で散々な目にあった。せめて正露丸があったなら、あんなにも苦しまず済んでいたにちがいと思うと、悔しくて堪らなかった。
 そして今回で3回目であった。私は万年筆で良かったが、トランジスター ラジオは、彼にとってさぞ悔しかったであろう。ペアレント経由で警察沙汰にして、今日中に出て来るのか疑問だし、私は明日、去る身であった。そしてヨルダン人が怪しいと言っても、証拠が無いのに調べてくれるのか。もし調べて、出て来なかった場合はどうなるのか。返って〝名誉毀損〟(社会主義国に於いても、個人の人権が保障されているのか。)で薮蛇になるのでは、との推測もした。
 ヘンリーは私より怒っていたが、我々は諦めるしかなかった。そして、「アラブ人は手が早いし、嘘をつく。彼等を余り信用しない方が良い」とヘンリーは忠告してくれた。
 話しによると、彼はヨルダンでは学校の先生をしていて、現在留学の為に当地に来て、数日間ここに滞在している、との事であった。彼は昨夜から同じ部屋に居たが、3人だけなのに愛想がなく、人を寄せ付けない雰囲気を持ち、何を考えているのか分らないのであった。学校の先生であるにも拘らず、そんな雰囲気を持った人物(本当に学校の先生だか、眉唾物であった)であった。私はここに来て、初めてアラブのヨルダン人と出逢った。先入観であるが、『アラブ人は、日本人や欧米人と違った違和感のある人種である』という認識を持った。そしてアラブ人の第一印象は、悪かった。

ユーゴ スラビアの話~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-25 14:12:19 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・ユーゴ スラビアの話
 ユーゴは、複雑な国家なのだ。その理由は、一つの国家であるが、2つのアルファベット文字を持ち、3つの宗教があり、4つの言葉があり、5つの民族が共存し、そして共和国が6つもあるからであった。
 『バルカン(半島)は、世界の火薬庫』と学校で教わった事があった。各共和国は、第2次世界大戦以前にも、何回かの戦火を経験し、分裂と混乱を繰り返して来た。大戦中、ナチス・ドイツに侵略されたが、チートがパルチザンを結成し、勇敢に戦い、侵略から解放に導いたのだ。
大戦後、その偉大な指導者・チート大統領によりこの複雑な国家が統一され、そしてユーゴは、ソ連とは一味異なった社会主義を目指しているのであった。それは、同じ社会主義国家であるが、ユーゴの方がソ連と比べて自由な雰囲気に溢れている様な感じがしたし、ある一面、西ヨーロッパ的な感じもした。
ユーゴは、共産圏国家でありながら、入国の際に査証が要らないのだ。そして、イタリアからの入国は、全く“フリッパー”(特別な入国出国審査、手続き、或は、係官の厳しい検査、質問等もなく、気楽に入出国出来る状態の意味で、我々旅人の隠語)の状態であったので、私の想像外であった。ソ連人の表情は、けばけばしさを感じたが、ユーゴの人々の表情は、その様な所は微塵もなく、むしろ明るい感じがした。ベオグラードの中央広場やアメリカ領事館とアメリカ文化センター附近は、多くの若者が集まっていて、活気に満ちていた。彼等は、西ヨーロッパの雰囲気を楽しみ、憧れているかの様であった。
 チートは、イタリアのトリエステに隣接する国境の村からリュブリャーナ、ザグレブ、ベオグラード、ニーシュ、ヴラニエ、そして、スコピエを経てギリシャに至る、ユーゴの国土の真ん中に、北から南に縦断する道路を造ったのだ。ユーゴにとっては、過ってない画期的な道路であり、この大動脈は、リュブリャーナ以外、幾つかの大都市と多くの小都市を縫うように通っているのであった。
我々から見たらこの道路は、平面交差の一般的な2車線道路であるが、彼等はこれをハイ ウェイ(高速道路)と言っていた。近い将来、西ヨーロッパから多くの観光客が訪れ、又、ユーゴとヨーロッパの間で、そして、ギリシャ、トルコ、中近東諸国とヨーロッパ間の中継基地として、多くの物流や人の往来が活発になり、ソ連より寧ろユーゴの方が経済発展する可能性があるのでした。この様に色々な視点から、ユーゴは、ソ連と少し異なった“チート的社会主義”(ソ連型社会主義とヨーロッパ型社会民主主義を融合したもの)を目指しているようであった。
 しかし、現実的には、確かに街の中を観察して見ると消費物資は貧しさが見られ、衣類や“高級品”(カメラ、時計、テレビ等)の品質は悪かった。しかも、値段の方もたいそう“割高感”(日本と同じ位の値段)があった。そんな訳で、彼等の着ている物は貧弱で、女性は化粧して“ファッション”(ミニ・スカート等)を楽しむ、そんな雰囲気は感じられなかった。
 社会主義国には関係ないのか、街には高級レストランや宝飾店も見られなかった。又、街の中は広告宣伝看板灯等の商業的ネオンや街灯が無く、夕方になれば街全体が暗く、淋しさが漂う感じがして、そんな所はソ連と同じであった。
もう少しこの首都の様子ついて述べると・・・、市中央のロータリーの通路と緑地帯等はよく整備されていて、又、充分にその空間が保たれヨーロッパの雰囲気があった。しかし、市内見物していた時、アベックは見当たらず、恋を語り合う事も出来ない社会状況の様であった。雰囲気的にもっとオープンに私は感じたのだが。
何はともあれ、リュブリャーナ、ザグレブ、そして、ベオグラードを北から南へと縦断して垣間見たユーゴの様子を見て、何かを感じる事が出来たのであった。