YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ヒッチの旅は、常に人々の善意で・・・~フランスのヒッチの旅

2021-11-17 08:11:48 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月17日(日)雪のち晴れ(こんな嫌な感じは初めて)
 起きたら雪はまだ降っていてガッカリであった。今日の天候は、ヒッチするのに最悪の状態を予測して、ユースを出た。
リックを背負い、片手にバッグを持った手は、非常に冷たかった。こんな日もあろうかと思って買ったフード付きジャンパーは、雪を凌ぎ、体の体温を防いでくれたが、手袋無しで、その冷たさに悩んだ。片方の手をポケットで温めておいて、一方の手が悴んで来たら逆にして、その冷たさを凌いだ。
 ユースから街道までは直ぐ近くで、思っていた以上に早めに1台目をゲット出来た。午前中だけで3台釣れた。ヒッチ率は、最悪を予想していたので嬉しかった。南下するにしたがって、天候は雪からみぞれ、そして曇りから晴れて来た。3台目でバランスから200キロ稼ぎ、マルセイユに着いた。  
 ちょうどお昼頃、駅前のマーケット街でパンを買ったが、その店のおばさんに、私は異様な目付きで睨まれた。そればかりか私が街を歩いていると、マルセイユの人々は、日本人である私を見る目が敵視するように睨んでいた。
 フランスを含むヨーロッパ旅行中、或は、滞在中にこんな嫌な感じを受けたのは、初めてであった。多くのヨーロッパ人は、普通に接してくれた。中には、友好的、親切心を持って接してくれた人もいた。今までだって、そして先程までフランス人は私に対して普通に、或は友好、友情的に接してくれたのに、如何してマルセイユは違うのだ。
第2次世界大戦で敵対関係であったからか。それとも、最近日本人がこの街で悪い事をしたからなのか。言葉を発しないし、通じ合わないので、その真意は分らなかった。街の人々皆がそんな目付きで見ていると、私は居た堪れなかった。駅前階段に座り、固いフランス・パンをかじって昼食を取りながら、そんな事を考えた。  
 私の最初の計画では、このマルセイユからフランス商船M&Mで帰国予定(今年の出航予定は9月16日と11月6日であった)であったが、自由の身になったので今のマルセイユは、道中の通過都市にすぎなかった。
 所で、マルセイユは南フランス最大の都市であるのみならず、地中海沿岸でも最大の都市であろう。見るべき名所旧跡もたくさんあるかもしれないが、いずれにせよ嫌な感じがしたマルセイユは、通過するのに未練は無かった。感じの悪い街だし、歩いて郊外へ出るのも面倒だから、Nice(ニース)まで列車で行く事にした。大事な所持金の内から7フラン(約490円)使ってしまった。
 この区間の列車の旅は、久しぶりであった。いつこの区間に乗ったのであろうか。日記を見て調べたら、8月8日のフランスのセルベールからマルセイユ経由イタリアのサヴォーナへ行く時に乗ったのだ。鈴木そしてリターと別れ、1人旅の寂しさや不安を感じながらの旅であったのだ。今でも一人旅の寂しさ不安があるが、近頃は旅慣れして来たので、その感じ方が大分、少なくなっていた。
前の事を思い出しながら乗っていたら、ニースに午後8時頃着いた。駅前にいる人達にユースへ行く道を尋ねていたら、1人の男性が近寄って来て、車でユースまで連れて来てくれた。
ヒッチの旅は、常に人々の善意でなされるも。人の善意が無ければ、ヒッチの旅は出来ない。善意を受けながら、いつまで旅が出来るのであろうか。善意を受けるのではなく、善意を与えうる人間に成らなければいけないのであろう。その様な人になるには、もう少し先になるであろう。
 ユースは、ニース郊外の高台にあった。ここから町の夜景が綺麗であった。そして更にその向こうは、どす黒く見える地中海と点々と漁火が見えるだけであった。
このユースで2人の日本人と出逢った。1人はパリ、リオンのユースで会った日高君、もう1人は藤森康雄さん(以後敬称省略、東京都墨田区出身)、私と同じ位の年齢であった。その藤森から始めて貴重な中近東の情報を得た。例えどんな情報でも、私にとって大変有り難かった。彼は大学生でタイ語が話せて、タイからインド、中近東経由でこちらに来たとの事でした。