YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

旅は良いなぁ~イタリアのヒッチの旅

2021-11-18 15:36:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
        イタリアのヒッチの旅(旅は良いなぁ)

・昭和43年11月18日(月)晴れ(コート ダジュールの素晴らしい景色)
 内陸部フランスは、本当に寒かった。しかしここニースは温暖で、本当に気持が良かった。日中、ジャンバーを着ていると、暑いぐらいであった。
 ニースは、Cote d Azur(コート・ダジュール)の中心で、この他に有名なカンヌ、モナコがある。この辺り一帯は、世界的にも有名な海水浴場のリゾート・タウンでもあり又、冬は暖かいので、避寒地としても最適なのだ。ニースを中心に別荘が道路を隔てた山側に数多く散在していたし、その反対の海岸線沿いには、ホテルが建ち並び、それがずっと連なっていた。しかしそれにも拘らず今日は月曜日、しかも夏期休暇、或はクリスマス休暇期間ではないので、海岸や街は閑散としていた。
 天気は良いし、地中海も青々として、こんな素晴らしい所で1・2週間のんびりと過してみたいのだが、1泊しただけで本当に残念であった。『でも、良いではないか。天気は最高、海もきれいだし、このニースの町、そしてコート・ダジュールの雰囲気を肌で感じる事が出来たのだから』と自分に言い聞かせ、納得させた。
 ニースから暫らくの間、車は海岸線に沿って走ったので、景色を十分楽しむ事が出来た。それから海岸沿い7号線から青く美しい地中海は所々しか見られず、そして一気にMonaco(モナコ)へ入り、再び海岸沿いを走った。
バチカン市国に次いで世界最小国のモナコ、そのMonte Carlo(モンテカルロ)で1泊して、カジノを楽しんで行きたい気分であったが、車中から一見しただけで、モナコ王国を通り過ぎてしまった。
 ニースからMenton(マントン)までは、車2台を使って着いた。マントンは、フランス領最後の国境の町、私は海岸沿いにその町を歩いた。昨日まで寒さや雪で悩まされたが、今日は本当に暖かく、ジャンバーを脱いで燦々と降り注ぐ優しい太陽の光を体中浴びながら、歩いてコートタジュールの旅を楽しんだ。
 列車の旅と違った、本物の何か旅らしさがここにあった。『本当に外国へ来て良かった』と心の底から純の気持にさせてくれたのは、この景色と気候の所為であろうか。友達や職場の仲間にもこの感じ、この気持を味わって貰いたい、と思った。しかし多分、故国の仲間達は、相変わらず毎日の仕事や生活に追われ、一生こんな気持を味わう事なく終るのは、余りにも悲しい定めであろうか、とここマントンから思った。
 マントンの街を過ぎ無人のフランス出入国管理事務所を通過し、直ぐイタリア国境の事務所があった。係官は愛想よく私を向かえてくれた。彼は、「ハシシを持っているか」と尋ねた。私は、「ノー」と言ったら、素通り状態でイタリアに入国出来た。しかしおかしな事だが、荷物検査をするならいざ知らず、ハシシを持っている人が役人に尋ねられ、「ハイ持っています」とあえて罪になる様な事を言うバカが何処にいるのか、と思った。ただ彼は、形式的に任務を遂行しているのに過ぎなかった。
 私は、既にイタリア領に入ったのであった。道路の右下は断崖になっていて、透き通るほど青々とした海水が、その崖に打ち寄せ、荒々しさをかもし出していた。『旅は良いなぁ!』、いつしか又、独り言を言ってしまった。そして歩きながら「会いたい♪気持が♪ままならぬ♪小樽の町は♪冷たく遠い♪・・・」と〝小樽の人よ〟(鶴岡雅義と東京ロマンチカの楽曲1967年。ウェールズのヒッチの旅の時も、この歌をよく歌っていた)を歌いながら、コートタジュールとリヴィエラの旅情を楽しんだ。リヴィエラも、山が海岸線まで迫っていて、コート・ダジュール同様に素晴らしい光景の連続であった。
 暫らくの間、街道を歩きながら景色や旅情を楽しんだ後、ヒッチして3時半頃、私はGenova(ジェノヴァ)の郊外に着いて、歩いて市内へ入った。ここまで来たら天気も変わり、今にも雨が降って来そうな空模様に変わっていた。
 ジェノヴァは、市と言っても大きな都会、その中心地へ入るのにも道や方向が分らず、気を使いながら、人に聞きながら歩いて入ったので、大変であった。しかしながら、気を使いつつ市内を歩いていると、多少なりともこの都市の様子が分かった。ある時は何かを発見したり、ある時は又何かを思い出したりした。そうだ、学生時代に社会や歴史の授業に出て来た都市なのだ。現実に、自分がそれらを学んだ場所の真っただ中に居る、そう言う事実が不思議でならなかった。歴史的には、アメリカを発見したコロンブスの生地であったり、都市国家として栄えて中世には中近東や北アフリカまで十字軍を派遣しその勢力を伸ばしたり、ヴェネチアやピサの都市国家と勢力争いをし、ヴェネチアに破れ衰えていったとか。
近代になりジェノヴァは工業化に成功し、現在、商業港と共に北イタリアの工業地帯の中心地として栄えているのだ。いずれにしても、そんなことを思い出しながら市の中央広場に辿り着いた。広場の正面には、ゴシック調の聖アンブロジオ寺院が堂々と建っていた。その寺院は、荘厳・壮観・重量感に溢れ、見る人を圧倒する感じを与える建物であった。この中央広場には、無数の鳩がたわむれ、観光客や市民がその中にいる感じであった。
 バス ターミナルはその寺院の反対正面であった。言葉が互いに通じ合わないが、今まで何人かに聞いた感じからユースは、市の郊外にあり、バスで行った方が便利らしいと分った。でも、どのバスに乗ったら良いのか分らず、バス ターミナルをウロウロしていたら若いイタリア女性から英語で、「どうかしましたか」と声を掛けられた。「ユースへ行きたいのだが、どのバスに乗ったら良いのか分らなくて、困っています」と言った。そしたら、彼女は親切にユース行きのバスを教えてくれた。別れ際に、彼女の方から握手を求められた。親切にして貰い、女性の方から握手を求められたのは、初めてであり嬉しかった。旅の疲れを癒された想いであり又、気候や素晴らしい景色で今日は、特別に気持の良い1日であった。
 ユースに着いたのは6時であった。このユースで4度、日高と出会った。彼とは最初11月13日パリのユースで出会って、翌日に彼とパリ見物をした。2度目は、15日共にユースを去りバスに乗ってパリ郊外へ出て、その夜のリオンのユースで再会した。16日リオンのユースを共に去りバスに乗って郊外に出た。3度目は、17日にニースのユースで藤森君と共に再会し、そして今夜で4回目の出会いであった。同じ方向にヒッチの旅をしていると、時にはこの様に何度か巡り会う事があった。前にも荻さんと北欧のユースで何度か会ったが、しかし4度も出会う事は、本当に珍しいのであった。
「やあ、又会いましたね」と言って、今までの旅の事、或いは世間話して旅の疲れを癒した。
この様に今回は、特にユースを使っての旅になったので、良い機会なのでユースについて話しておく事にしよう。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿