なが~ンのごちゃごちゃ、そして長~く続く出口のないジャンクなパラダイス??

ジャンクと戯れている中年オッサンの日常と、嫌々な車いじり、オーディオなことや魚釣り等、仕事以外のことを書きなぐります。

緊急地震速報でプチパニック

2016年10月21日 22時01分33秒 | 日記・エッセイ・コラム

本日の地震にプチパニックになりました。というより、地震そのものではなく緊急地震速報にです。

当地では、街中に緊急放送設備が今年に設置されました。

実は、緊急放送設備運転開始初日にいきなり緊急地震速報が流れたのですが、その時の放送音はそうでもなかったのです。

ところが本日の分は違いました。

放送の音が大きく感じたのです。部屋の中まで「テーロン、テーロン。緊急地震速報です。」が、大きく入り込んだのです。きっと、前回のときより、音量調整がされたのだろうと思います。

 

以前からブログに書いているのですが、私は阪神大震災を尼崎市で経験しています。

そして、阪神大震災がきっかけで1次的、2次的にと、家庭が崩壊し、実家から身ぐるみおいてけーと両親にいろんなものを追いはぎされて追い出されて、今の泉佐野市に移住してきました。

当時に私が経験したのは震度6です。当時は強弱の区別はなかったので今のどれになるのかはしれませんが、近所の大きいマンション1階のガレージが屈解して自動車がプレスされていたので、震度6強相当だったのではないかと思います。ちょっと距離(3Kmほど先)はありますが新幹線の高架も落下しました。

あの経験は、いまだにトラウマになっています。というか、きっと私が墓場に入る最後まで脳裏に鮮明に残るのだと思います。

だって、隣に寝ていた弟が本棚につぶされるのをリアルに見ているんですよ。(弟は今も健在です)

自分が立っていられない、天井に吊っている蛍光灯がブチ切れて弾丸のように目の前に落ちてくる。テレビが突然横に飛んでくる。そんな、超激しいポルターガイストを経験したのです。

あれだけ実家の家が壊れたのに、家族全員が軽傷で済んだのが奇跡です。そういうのを全部思い出すのです。

 

さてさて、過去話は置いといて....

本日の緊急地震速報で私がほぼ無意識に行っていた行動です。

「テーロン、テーロン」の音で一瞬にして超高速で阪神大震災の情景がよぎりました。

地震速報が流れたとき、私は1階でコソコソと内職していたので、すぐに立ち上がって、玄関の扉を開けます。

すぐに嫁さんのいる2階へ行きました。

そして、嫁を部屋からひっぱりだして、階段スペースへ座ります。

外の放送がなんだろう?と、なにかよくわかっていない嫁は、私の行動に唖然としたそうです。

そして、ゆっくりとローリングする大きい揺れがやってきました。

嫁がいうには、揺れが収まるまで私は本当に嫁を丸くかがませて、その上に覆いかぶさって抱きしめていたらしいです。

無心にした行動とはいえ、本当にトラウマでそんな行動をとっていたんだと思います。

揺れが収まっても、嫁がいうには私は半泣きみたいな顔していたとのこと。本当に地震にトラウマなんだねー。と実感したらしいです。

 

さてさて、その後ですが.....

仕事があるので、仕事をしますが、やっぱり地震が気になるのです。

というより、阪神大震災の情景がはっきりと思い返しました。あの地鳴りの音まで出てきます。

なるだけ忘れようと無理に仕事に集中するのですが、仕事が手に付きません。

そして、夕飯になり、ご飯を食べるのですが、あきませんなー、地震のストレスなのかなー、いきなり口内炎ができている。それに食事が喉をとおらない。

無理して夕飯を食ったら、今度は強烈な吐き気と下痢が発生です。

はぁー、体調をいきなり崩すぐらいのトラウマということか....

今も、体のあちこちに蕁麻疹のようなものが出ているし....

それだけ、地震は私にとっては超えげつないストレスということなんでしょうね。

(そんなにデリケートな神経していると本人は思っていないのですが、生死の狭間を経験したので強烈な楔になっているようです)

 

さてさて....

鳥取の被災地の方はこれからです。

私の経験からいいます。

今晩が大変なのはもちろろんですが、それは気が張っているのでがんばれます。

皆で協力して被害が広がらないように注意してください。私の時は近所の人と交代で夜の番人を輪番しました。野戦病院ではないですが、近隣家庭の男衆でグループを組んで二人づつで必ず起きているように3時間おきに交代で寝るようにしました。

泥棒が云々ではないですよ。

余震が来たときに、どんな被害が増えるかわからないでしょ。

だから近所で誰かが起きているようにして、余震が来たら周辺家庭に安否確認ダッシュできるようにしたんですよ。そうしないと、年寄りと赤ちゃん達が心配でしょ。

昼間は主婦の時間です。水が出るのなら水をためる。日持ちする料理を作る、水が出るのならできるだけ洗濯をする。だって、いつに水か止まるか電気が止まるかわからないのです。

昼間の男衆の仕事は、食糧調達と食品を保存する工夫でした。

今はいろんな緊急物資を役所が持っているかと思いますが、阪神大震災ではそんなのはありませんでした。

ついては車を持っているものは、道路が封鎖される前に物資の確保に走りました。ガスボンベ、ポリタン、保冷クーラー等々。食品は同じ考えの人が多数おりますので速いもの勝ちなのですが、震災当日はまだ余裕で入手できました。2日目からは争奪戦がすごかったらしいです。

そんなこんなでがんばれるのは実質2日です。

3日目の夜に一気に披露が苦痛となってのしかかります。

体が元気な人間は、いつもよりよく動いてました。それを2日したら、3日目には体が壊れ始めるのです。

物理的にどうこうというのではなく、精神的にダメージがあるのだと思います。

具体的には集中力が落ちてきて、つまらないミスで怪我をしたり....

そんなことがあちこちで起き始めます。

この3日目の行いが、案外、以降の生活基盤に影響したのも事実でした。

ついては、被災地の方。

今晩も明日の晩はもちろんですが、3日目の晩に体に不調が出ないように気を張って、そして隣近所と声を掛け合って乗り切ってください。

けっして、私の口からがんばれって言えません。頑張れではなく、乗り切れなのです。

自分の身を第一に、そして家族も同様に大事にして、せめて4日間を元気な体で乗り切る努力をしてください。

実際に役所からの支援等が充実してくるのは5日目ぐらいからだと思います。

それまでは、自分たちのことは自分たちでなんとかする。なにより元気な体で乗り切る努力だけ尽くしてください。そのためには、たとえ近所で仲の悪い人だったとしても、地震の時だけは気にかけるようにしてあげてください。自分も大事、家族も大事です。が、しかし、目の前にいる他人様も大事にしてください。

ともかく、自分の目の前にいる人が元気な体で乗り切れるように気を使う努力をするだけでも、その周りの状況は好転していきました。

それが、私が阪神大震災で得た教訓です。

私の周りだけがそうだったのかもしれませんが、震災にあったときは、本当に誰かわからない初めての人とも助け合ったのです。それもお互いの体が大丈夫なのかが最初の挨拶だったのです。

「体は大丈夫だったか?」の挨拶をするだけでも、周りの方が元気に乗り切る努力をやりはじめるものだと思います。

って、偉そうなことを私が言っても仕方がないのですが....

まぁー、地震にトラウマな自分なので、勝手なことをのたまって本当に申し訳ありません。


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