スポーツエトセトラ

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千葉県高校出身者・ドラフト指名選手一覧(1981~1983年)

2020-05-06 08:54:03 | 千葉県高校出身者ドラフト指名一覧
過去に千葉県の高校を卒業後、プロ野球界入りした選手を紹介するシリーズ。
4回目は1981年~1983年です。



球歴の緑色は高校生、薄い緑色はドラフト外、名前にグレーがかかっているのが指名拒否選手。

1981年はドラフト指名が5名、ドラフト外が3名。
この年、センバツでは印旛高が準優勝の快挙を成し遂げます。前年秋の関東大会でも優勝するなど、堂々たる戦いぶりでした。
その印旛の主砲としてチームを引っ張ったのが月山です。強打者として期待されましたが、プロではケガもあり、活躍できませんでした。

月山とバッテリーを組んだ佐藤もセットで阪神に。
また切り込み隊長役で、センバツでは19打数7安打3打点をマークした村上は阪急へ。
佐藤は一軍に上がれませんでしたが、村上は代打、守備固め、ときにはスタメンと便利屋として16年という長いプロ野球人生を送ります。

1位指名は2名。田中は高校では無名でしたが電電関東で素質が開花し、81年の都市対抗でベスト8進出に貢献。
プロでは派手な活躍はありませんでしたが、85年にノーヒットノーランをマークしています。

もう一人の尾上は76年の甲子園で2年ながらレギュラーに座り、翌春のセンバツでは本塁打を放ちました。
中大で大学球界屈指の強打者に成長。プロでも即戦力として注目されましたが、レギュラーにはあと一歩届かず。

小川は75年夏の甲子園で優勝した習志野のエース。大学では野手に転向し、プロでも体格を活かした長打力を武器に、35歳まで現役を続けました。
のちに監督としてもヤクルトを3度、Aクラスに導いています。

後関は88年の56試合出場が最高成績。引退後はスカウトとしてキャリアを重ねました。

1982年は3名。関根は78年の秋、エースとして準決勝で山岡(佐倉)に投げ勝ち、千葉工を初の関東大会進出に導きました。
日産では82年の都市対抗ベスト4進出に貢献。プロではもっぱら先発を任されています。

平沼はエースとしてこの年のセンバツに出場。速球を武器に、大会屈指の好投手として騒がれる存在でした。
プロでは中継ぎとして息の長い活躍を見せています。「清原バット事件」の当事者としても知られていますね。

中島は高校3年時、5番エースとして秋はベスト4、春は関東大会出場、夏はベスト8進出に貢献。
社会人では強打者として活躍しますが、プロでは芽が出ませんでした。

1983年は6名が指名され、5名がプロ入り。
高野は創部間もない東海大浦安のエースとして、2年春準優勝、夏はベスト4進出の原動力に。
最後の夏はベスト16で甲子園に出場した市銚子・銚子に0‐1の投手戦の末敗れ、甲子園には届かず。
大学、プロでもエースとして活躍しましたが、49歳で亡くなられたのが惜しまれます。

その高野に投げ勝った銚子は、甲子園に進むと「銚子の銚子くん」と話題に。甲子園での初戦では打球を顔面に受けて途中退場。
その後、チームは負け越して敗れるという悔しい一戦となりました。
名門・法大では野手として活躍。プロでも大洋でレギュラーとなっています。

桜井は最後の夏は県大会ベスト4。強打の内野手として期待されましたが、プロでは主に内野の守備固め的なポジションでした。
山中は3年夏の甲子園でヒットを放つなど、大型遊撃手として注目される存在でした。しかし、一軍出場を果たすことなく4年で現役を退いています。

加藤は勝浦ではエース兼主砲として3年春に銚子商を破り準優勝、関東大会進出の立役者に。
社会人では名門・日通のエースとして都市対抗で活躍。81年に近鉄3位指名を拒否し、満を持してのプロ入りでしたが、一軍のマウンドには上がれませんでした。


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