スポーツエトセトラ

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千葉県高校出身者・ドラフト指名選手一覧(1987~1989年)

2020-07-29 08:01:39 | 千葉県高校出身者ドラフト指名一覧
千葉県の高校出身プロ野球選手を紹介するシリーズの6回目は、1987年~1989年です。



球歴の緑色は高校生、薄い緑色はドラフト外となります。

1987年は4名で、全員が高校生でした。
八木政義は名門・銚子商で入学早々ベンチ入りすると、3年春には2試合連続で14奪三振をマークする快投を披露するなど
県内では右腕の好投手として知られていました。プロでは1年目に一軍デビューを果たすも、プロ生活4年で引退しています。

小林茂生は横芝敬愛高で高木晃司の1年後輩。高校時代は目立った実績はありませんが、高木を見に来たスカウトに注目されたのでしょうか。
プロ6年間で一軍登板はゼロに終わり、引退後は打撃投手やスコアラーを務めています。

城友博は習志野高の1番センターとして、この年の夏の甲子園では18打数7安打、3盗塁と切り込み隊長として活躍し、ベスト8入りに貢献。
プロでは90年から2年連続でイースタン盗塁王。一軍でも代走がメインながらときおりスタメンを任され、チームの優勝に陰ながら貢献しています。
ルックスがよく、アイドル的な人気を誇っていました。

加藤博人は細身のサウスポー。2年秋の千葉大会を制し、関東大会では甲府工の中込伸(のち阪神)と投げ合っています。
プロでは2年目に早くも一軍に定着し、91年には7勝をマークしました。97年にはセットアッパーとして60試合に登板しています。

1988年は7名。そのうちドラフト外は5名で、いずれも高校生となっています。
酒井勉は2球団の重複の末、オリックスに1位指名され入団。高校、大学ではパッとしませんでしたが、社会人では公式戦で33勝をマークするなど素質が開花。
プロでは即戦力の期待に応え、1年目に9勝をマークして新人王を獲得。92年には二ケタ勝利をマークも難病にかかり、その後は活躍できませんでした。

小川博文は拓大紅陵高時代に3番打者として春夏連続で甲子園に出場。
4試合でホームランを含む5安打をマークするなど当時からセンス抜群の好選手として知られていました。
社会人の名門・プリンスでもすぐにレギュラーを任され、88年のソウル五輪では二塁手として7安打を放ち、銀メダルに貢献。
プロでも1年目から遊撃のレギュラーに定着し、オリックス、横浜で通算1720試合に出場しています。

石毛博史は巨漢の剛球投手として高校1年からエースに収まり、2年秋には県大会で準優勝。
故障の影響などでドラフト外でのプロ入りとなりましたが、5年目に30セーブを記録してタイトルを獲得しており
抑えの切り札としてチームに貢献しています。
伏島良平は正捕手として88年春、市船橋高の初のセンバツ出場に貢献。初戦で敗退するも2安打2盗塁をマークしています。
プロでは1年目にいきなり右足首のケガに襲われ、一軍出場はゼロに終わりました。

小川祥志は高校ではエースでしたが、通算48本塁打、打率4割6分と打力を買われて内野手としてプロ入り。
一軍出場は1試合に終わっています。
松本和弘は高校通算83盗塁と俊足が武器で、3年夏の大会ではチーム初のベスト4進出に貢献しています。
プロでは一軍出場を果たすことはできませんでした。
八島祥司は高校2年からエースに座り、3年の夏の千葉大会ではチームを準優勝に導きました。
プロ入り2年目に一軍で勝ち星をマークするなど期待されましたが、93年限りで引退。裏方に回っています。

1989年も7名。野茂英雄ら社会人選手を中心に大豊作ドラフトとして知られたこの年、千葉の高校出身者2名が1位で指名されました。

“単独1位”で中日に指名されたのは与田剛。大学までは結果を残せませんでしたが、社会人では日本代表に選ばれるなど急成長。
89年の都市対抗では佐々岡真司(のち広島)と壮絶な投手戦を展開しています。
150キロ越えの速球を武器に、プロ1年目に31セーブをマークしてセーブ王と新人王を獲得。19年より中日の監督に就任しています。

同じく1位指名の小宮山悟は高校時代は無名でしたが、二浪して入学した早大では20勝をマークするなどエースとして活躍。
プロでも当時は弱小球団だったロッテでローテの軸としてチームを支えました。後にメジャーを経験、現在は母校の監督を務めています。

佐久間浩一は高校時代、巨体のスラッガーとして“東の佐久間・西の清原”とうたわれた逸材でした。
大学でもベストナインに選出されるも右ヒジの故障に悩まされ、プロ生活4年で引退後に調理師を目指すも
日本ハムで現役に復帰します。しかし、一軍出場はゼロに終わりました。

押尾健一は速球派右腕として知られ、この年の夏にエースとして県大会7試合を一人で投げ抜き、
成東高を初の甲子園に導きました。早大進学を表明もヤクルトに入団。
しかし、一軍では活躍できませんでした。のちにスコアラーに転向し、陰ながらチームを支えています。
その押尾に県大会決勝で投げ負けたのが知野公昭。
夏の県大会準々決勝で13奪三振をマークするなど長身右腕として期待されるも、一軍登板はなし。

大野和哉は2年春のセンバツで、1番センター兼控え投手として出場しています。
俊足を生かしてプロ入り3年目に外野手転向も、一軍に定着することはできませんでした。
野口寿浩は甲子園とは無縁でしたが、プロでは2年目に一軍デビュー。
古田敦也のカベが厚く、98年に日本ハムに移籍後に素質が開花。
俊足・強肩・強打を活かして正捕手に定着しており、00年には捕手ながらリーグトップとなる11三塁打を放っています。

次回は1990年~1993年です。