≪2018/10/15≫
2501打席ホームランなしで引退。
岡田幸文が試合に出続けられた理由。
引退試合を4日後に控えた10月4日。
千葉ロッテマリーンズ・岡田幸文は、思い出が詰まったロッテ浦和球場で最終調整していた。
打撃練習で5球目のボールを強く右に引っ張ると、打球は右翼フェンスをダイレクトで越えていった。
「ホホーウ!」
まるで少年時代に戻ったかのように、雄叫びの声をあげて練習に取り組む岡田。
「最後くらいは笑って、野球を終わりたい」
そんな彼の強い意思が感じ取れたシーンだった。
「いやあ……甘くないですよ」
自身の打撃練習が終わると、その日の練習相手を務めた石田雅彦に感謝の意を示しながら、こんな会話を交わした。
「最後まで打てなくて本当にすみませんでした!」
「こちらこそ、気持ちよく打たせてあげられなくてごめんな」
結局、この日の打撃練習で柵越えは、前述の1本だけだった。
「二千何百も打席に立って、試合では1本も打てなかったわけですから仕方ないですよ」
岡田は、寂しさを包み隠すようにそう言った。
そんな岡田に、石田もこう言葉を返す。
「でも、入ったときから狙っていたら絶対に何本か打っていたはずだから。俺はそう思うよ」
そんな労いの言葉に対し、岡田もやや謙遜気味だった。
「いやあ……そんなに甘くないですよ」
そう言って軽く頭を下げ、バットとグラブを持ち替えると、彼は自身の持ち場とも言うべき外野の守備位置まで走っていった。
ホームランより足を活かしたい。
プロ入りから10年間、2501回打席に立って、本塁打はついにゼロのままだった。
不名誉な記録か、むしろ名誉とするかは人の価値観にもよるだろう。
この数字はプロ野球記録になったわけだが、この件について岡田に質問をすると彼はこんな言葉を返した。
「こんなに打席に立たせてもらったわけですから、チャンスはありましたよね。ただ、『ホームランを打ちたかったですか?』って問われると、僕は違うと思う。それは塁に出て、僕の持ち味である足を活かすのを常に意識してきたからであって。正直、狙っていなかったからです。何でもいいからとにかく塁に出たい……ただそれだけ。今でもそう思う」
プロ10年間、守り続けてきた矜持をこう語った。
岡田は2008年の育成ドラフト6位で千葉ロッテに入団した。
この年、千葉ロッテに入った育成選手は全部で8名。
高卒が5名、独立リーグ出身者が2名で、岡田は唯一の社会人クラブ(全足利クラブ)出身者で、年齢も最年長だった。
「自分には他の(育成)選手と比べて時間がない。1日でも早く支配下登録されるようどんなことでもアピールしたいと思っています」
育成選手時代、彼は事あるごとにそう口にしていた。
代田コーチからのアドバイス。
プロ最初の目標である支配下選手登録を目指して。練習量はもちろん、誰よりも早く守備位置につき、誰よりも大きな声を出して首脳陣へのアピールを心がけた。そうした姿は他の育成選手の模範にもなり、入団わずか4カ月で支配下登録されたのも必然といえた。
そんな岡田に、当時二軍の外野守備走塁コーチだった代田建紀はこう諭した。
「プロはたった1つの武器を持っていれば食べていけるんだよ」
代田自身も、俊足を生かした守備と走塁で10シーズン、生存競争が厳しいプロ野球の世界に身をおいた。
通算出場試合数は191、打席に立ったのは試合数よりも少ない131しかない。そんな代田の言葉だからこそ岡田も耳を傾け、強い感銘を受けた。そして自身の方向性を定めた瞬間でもあった。
スパイクの細部に宿るこだわり。
そんな岡田に、代田がさらにこんな助言を加える。
「もし、そこ(守備と走塁)で食べていく気なんだったら、スパイクとか道具にも、もっとこだわりを持っていかなきゃダメだよ」
この助言をきっかけに、岡田は様々なこだわりを持つようになった。
岡田はこう振り返る。
「スパイクだったら歯や紐の位置を変えたりとかね。ホントに試行錯誤しながらメーカーさんとも意見交換もしましたね。僕なりに道具へのこだわりは凄くありましたよ」
力を外に逃がさないよう、スパイクの紐の位置を通常のものよりも外側につけた。
「スパイクは足袋みたいな感覚を大事にしたかったので、ソールも薄くしてもらったり、サイズも少し小さめにしたりとかね。とにかくフィットすることだけを考えました」
歯の位置も通常より前目につけて、つま先で噛むイメージで地面をより蹴れるように改良を施したのだ。
打球に対して早く動き過ぎない。
もちろん道具だけではない。
「AREA66」と称された彼の守備範囲の広さについても彼なりの工夫が見られる。
まずは打球の追い方について彼はこんな言葉を残している。
「とにかく打球に対して早く動き過ぎないことですよね。たとえば(二軍本拠地の)浦和では凄く打球が見づらいので、打った瞬間に動いてしまうと、後ろだったり、前に行ってしまうんです。だからとにかくギリギリまで待つことを心がけましたよ。
結局、外野に飛んでくるまで5~6秒の時間はあるので、打球が捕れるギリギリのところまで待つ。そこから目切りをして、全力で打球に対して一直線で走る。ランナーがいなければ打球の後ろから入る必要もないですからね。落下地点に直線で入った方が、より捕れる可能性も高くなる。みんなボールに合わせてしまうから球際で抜けたりしてるんだと僕は思いますね」
打球を追う際、ボールを見ながら走ればどうしても走る速度は落ちてしまう。ならば、打球の落ちる場所をギリギリまで予測して、打球に向かって全力で走った方が獲れる打球も増えていく。岡田はそう考えた。
2011年には外野手としてのNPB記録となるシーズン連続守備機会無失策となる359を樹立。ゴールデングラブ賞も、その年と翌年(2012年)の2回受賞した。堅守の秘訣はそうしたところにもあったのだろう。
驚くべき“球出しの速さ”。
さらに岡田の守備で評価が高かったのは“球出しの速さ”だ。
捕球からホームに到着するまでの時間は平均の3秒台を切ってなんと2.8秒。
他の外野手、二軍外野守備走塁コーチを務める諸積兼司でさえもその速度に驚きを隠せなかったという。
「特に清田(育宏)はよく『どうすればいいの?』って聞いてきましたね。たとえばボールの握り方について『どうしたら、捕ってからそんなに早く放れるんですか?』って。僕は聞かれたら全部話していましたよ。
ただ向こうから聞いてこないうちは、その人なりの感覚がある。だから『もっとこうした方がいいよ』って言ったら少し違うじゃないですか。聞かれたら答える。そんな感じでしたね」
数々の好守を支えた彼のグラブには、2011年から愛する3人の娘の名前が記されている。
入団から単身赴任を続けてきた岡田だからこそ、家族を愛する想いも強かった。10月8日の引退試合では、そんな家族の前で約2年ぶり60打席ぶりのヒットも見せた。しかも、左線、中前、右前と全ての方向に打ち分ける猛打賞のおまけ付き。
現役生活最後の打席でこの日3本目のヒットを放つと、一塁ベース上で今にも溢れそうになる涙を必死にこらえる岡田の姿があった。
引退セレモニーでの熱い言葉。
試合後、岡田は引退セレモニーの中でこんな言葉を残した。以下全文を掲載する。
「このようなセレモニーを開いていただいた千葉ロッテマリーンズ、球団の皆様、井口(資仁)監督を始めコーチ、選手、裏方さん、そして福岡ソフトバンクホークスの皆様、ソフトバンクファンの皆様、本当にありがとうございます。
正直こんな日が来るとは思いませんでした。ただガムシャラにボールを追いかけ、グラウンドを駆け巡るそういったプレーでした。ホームランも打ったことありません。なのに10年間も出来ました。本当にありがとうございました。
そしてマリーンズファンの皆様、いつも変わらぬ、良いときも悪いときも熱い声援をくださったファンの皆様本当に感謝の気持ちでいっぱいです。今日でユニフォームを脱ぎます。マリーンズはまだまだ強くなります。これからもマリーンズをよろしくお願いします。10年間本当にありがとうございました」
記録にも記憶にも残った名手、岡田幸文。
彼が過ごしたこの10年間は千葉ロッテファンだけでなく、多くのプロ野球ファンの間で長く語り継がれていくことだろう。今後は指導者を目指して第二の人生を歩んでいくという。そんな彼に送る言葉はやっぱりこの言葉しかない。
「10年間お疲れ様でした、そしてありがとうございました」と。
文=永田遼太郎
(Number)
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≪2018/10/15≫
2000本安打の福浦和也に、浦和レッズから胡蝶蘭が届いた深い事情
視点というものは面白いものだ。福浦和也内野と14年の付き合いになるが、この名前の中に「浦和」という文字が隠れていることなど考えもしなかった。サッカーJリーグの浦和レッズから10月4日に同選手の2000本安打を祝う綺麗な胡蝶蘭が届いた時は勝手に千葉ロッテマリーンズの二軍本拠地が浦和にあるというご縁だと思っていた。それでも十分に粋な計らいだと感じていたが、実際はさらに奥が深い事を知った。
「浦和」に「福」を
「福浦和也さんの2000本安打の記事を見たときに、まず『浦和』という文字が目に飛び込んできました。我々のホームタウンである『浦和』に『福』。非常に縁起もよくご縁を感じてお花を届けたいと考えました。福浦選手にも喜んで頂いたようでうれしかったですし、ここから何かご縁を強くして行ければと思っています」とチームマネージャーの水上裕文氏。
福浦選手が2000本安打を達成した翌日の9月23日の朝。同氏がなにげなくスポーツ紙の1面を見ていると、「浦和」という文字が目に飛び込んできたという。「はて、ウチが一面になることが昨日あったか?」。その見出しは「福 浦和 也」。福浦選手の2000本安打を報道する記事。この日、埼玉スタジアムでヴィッセル神戸戦を控えてきた中で目にした縁起の良い文字に、なにかいい事があるかもと気分よく臨んだ試合は青木拓矢、興梠慎三、武藤雄樹、長澤和輝がそれぞれ得点を挙げ4-0で快勝。さらなる縁を感じたということで花を届けたいと考え親交のある西武ライオンズを通じて我々、千葉ロッテマリーンズの方に連絡が入ったという流れだ。
しかし、これまで何度も福浦選手の名前は、いろいろな報道の見出しとしてしっかりと目にしてきたが一度たりとも「浦和」という文字が潜んでいることに気が付くことはなかった。人間の固定観念、思い込み、指摘感覚とは面白いもので見る人が見れば、しっかりとまったく違うものが浮かび上がってくるのである。
「オレも気が付いていなかったよ」
今回、福浦選手2000本安打関連で100本を超えるスタンド花や胡蝶蘭などが届いた。基本的にはプロ野球関係、その他はマスコミ関係、球団に関連した企業など。その中でサッカー・浦和レッズの胡蝶蘭はやはり特別な存在感を醸し出している。
この件に関して福浦選手は「まさか浦和レッズさんから祝福のお花を頂けるなんて夢にも思っていなかった。正直、オレも自分の名前の中に『浦和』という文字として読めることに気が付いていなかったよ。言われてみればそうだなあと。それにしても2000本安打の記録の凄さを改めて感じた。ありがたいこと。サッカーはずっと好きで中学校2年生の長男も好きなのでぜひ機会があれば応援に行かせてもらいたいと思っています。まだ一度もJリーグを見た事がないのでぜひ生観戦に行きたいですね。今回は本当にありがとうございました。また気持ちを入れ直して頑張ります」とコメント。サッカーのビッククラブによる粋な計らいに心から御礼を述べた。
今回の件は私も一人の広報マンとして視点の転換の大事さを改めて感じた。なぜもっと早くこのことに気が付かなかったのか。嫉妬すら感じる。ちょっとした気づき。なによりも速やかに行動に移す浦和レッズの柔軟性に感服した。サッカーJリーグとプロ野球の間に起こったほんのちょっとしたご縁。でもこの事はほっこりと心温まる出来事で多くの人を幸せな気持ちにした。我々も浦和レッズの姿勢を見習い、日々、ちょっとした出来事を逃さないようにしていきたいと改めて感じた。改めまして浦和レッズの皆様、本当にありがとうございました。
梶原 紀章
(文春オンライン)
2501打席ホームランなしで引退。
岡田幸文が試合に出続けられた理由。
引退試合を4日後に控えた10月4日。
千葉ロッテマリーンズ・岡田幸文は、思い出が詰まったロッテ浦和球場で最終調整していた。
打撃練習で5球目のボールを強く右に引っ張ると、打球は右翼フェンスをダイレクトで越えていった。
「ホホーウ!」
まるで少年時代に戻ったかのように、雄叫びの声をあげて練習に取り組む岡田。
「最後くらいは笑って、野球を終わりたい」
そんな彼の強い意思が感じ取れたシーンだった。
「いやあ……甘くないですよ」
自身の打撃練習が終わると、その日の練習相手を務めた石田雅彦に感謝の意を示しながら、こんな会話を交わした。
「最後まで打てなくて本当にすみませんでした!」
「こちらこそ、気持ちよく打たせてあげられなくてごめんな」
結局、この日の打撃練習で柵越えは、前述の1本だけだった。
「二千何百も打席に立って、試合では1本も打てなかったわけですから仕方ないですよ」
岡田は、寂しさを包み隠すようにそう言った。
そんな岡田に、石田もこう言葉を返す。
「でも、入ったときから狙っていたら絶対に何本か打っていたはずだから。俺はそう思うよ」
そんな労いの言葉に対し、岡田もやや謙遜気味だった。
「いやあ……そんなに甘くないですよ」
そう言って軽く頭を下げ、バットとグラブを持ち替えると、彼は自身の持ち場とも言うべき外野の守備位置まで走っていった。
ホームランより足を活かしたい。
プロ入りから10年間、2501回打席に立って、本塁打はついにゼロのままだった。
不名誉な記録か、むしろ名誉とするかは人の価値観にもよるだろう。
この数字はプロ野球記録になったわけだが、この件について岡田に質問をすると彼はこんな言葉を返した。
「こんなに打席に立たせてもらったわけですから、チャンスはありましたよね。ただ、『ホームランを打ちたかったですか?』って問われると、僕は違うと思う。それは塁に出て、僕の持ち味である足を活かすのを常に意識してきたからであって。正直、狙っていなかったからです。何でもいいからとにかく塁に出たい……ただそれだけ。今でもそう思う」
プロ10年間、守り続けてきた矜持をこう語った。
岡田は2008年の育成ドラフト6位で千葉ロッテに入団した。
この年、千葉ロッテに入った育成選手は全部で8名。
高卒が5名、独立リーグ出身者が2名で、岡田は唯一の社会人クラブ(全足利クラブ)出身者で、年齢も最年長だった。
「自分には他の(育成)選手と比べて時間がない。1日でも早く支配下登録されるようどんなことでもアピールしたいと思っています」
育成選手時代、彼は事あるごとにそう口にしていた。
代田コーチからのアドバイス。
プロ最初の目標である支配下選手登録を目指して。練習量はもちろん、誰よりも早く守備位置につき、誰よりも大きな声を出して首脳陣へのアピールを心がけた。そうした姿は他の育成選手の模範にもなり、入団わずか4カ月で支配下登録されたのも必然といえた。
そんな岡田に、当時二軍の外野守備走塁コーチだった代田建紀はこう諭した。
「プロはたった1つの武器を持っていれば食べていけるんだよ」
代田自身も、俊足を生かした守備と走塁で10シーズン、生存競争が厳しいプロ野球の世界に身をおいた。
通算出場試合数は191、打席に立ったのは試合数よりも少ない131しかない。そんな代田の言葉だからこそ岡田も耳を傾け、強い感銘を受けた。そして自身の方向性を定めた瞬間でもあった。
スパイクの細部に宿るこだわり。
そんな岡田に、代田がさらにこんな助言を加える。
「もし、そこ(守備と走塁)で食べていく気なんだったら、スパイクとか道具にも、もっとこだわりを持っていかなきゃダメだよ」
この助言をきっかけに、岡田は様々なこだわりを持つようになった。
岡田はこう振り返る。
「スパイクだったら歯や紐の位置を変えたりとかね。ホントに試行錯誤しながらメーカーさんとも意見交換もしましたね。僕なりに道具へのこだわりは凄くありましたよ」
力を外に逃がさないよう、スパイクの紐の位置を通常のものよりも外側につけた。
「スパイクは足袋みたいな感覚を大事にしたかったので、ソールも薄くしてもらったり、サイズも少し小さめにしたりとかね。とにかくフィットすることだけを考えました」
歯の位置も通常より前目につけて、つま先で噛むイメージで地面をより蹴れるように改良を施したのだ。
打球に対して早く動き過ぎない。
もちろん道具だけではない。
「AREA66」と称された彼の守備範囲の広さについても彼なりの工夫が見られる。
まずは打球の追い方について彼はこんな言葉を残している。
「とにかく打球に対して早く動き過ぎないことですよね。たとえば(二軍本拠地の)浦和では凄く打球が見づらいので、打った瞬間に動いてしまうと、後ろだったり、前に行ってしまうんです。だからとにかくギリギリまで待つことを心がけましたよ。
結局、外野に飛んでくるまで5~6秒の時間はあるので、打球が捕れるギリギリのところまで待つ。そこから目切りをして、全力で打球に対して一直線で走る。ランナーがいなければ打球の後ろから入る必要もないですからね。落下地点に直線で入った方が、より捕れる可能性も高くなる。みんなボールに合わせてしまうから球際で抜けたりしてるんだと僕は思いますね」
打球を追う際、ボールを見ながら走ればどうしても走る速度は落ちてしまう。ならば、打球の落ちる場所をギリギリまで予測して、打球に向かって全力で走った方が獲れる打球も増えていく。岡田はそう考えた。
2011年には外野手としてのNPB記録となるシーズン連続守備機会無失策となる359を樹立。ゴールデングラブ賞も、その年と翌年(2012年)の2回受賞した。堅守の秘訣はそうしたところにもあったのだろう。
驚くべき“球出しの速さ”。
さらに岡田の守備で評価が高かったのは“球出しの速さ”だ。
捕球からホームに到着するまでの時間は平均の3秒台を切ってなんと2.8秒。
他の外野手、二軍外野守備走塁コーチを務める諸積兼司でさえもその速度に驚きを隠せなかったという。
「特に清田(育宏)はよく『どうすればいいの?』って聞いてきましたね。たとえばボールの握り方について『どうしたら、捕ってからそんなに早く放れるんですか?』って。僕は聞かれたら全部話していましたよ。
ただ向こうから聞いてこないうちは、その人なりの感覚がある。だから『もっとこうした方がいいよ』って言ったら少し違うじゃないですか。聞かれたら答える。そんな感じでしたね」
数々の好守を支えた彼のグラブには、2011年から愛する3人の娘の名前が記されている。
入団から単身赴任を続けてきた岡田だからこそ、家族を愛する想いも強かった。10月8日の引退試合では、そんな家族の前で約2年ぶり60打席ぶりのヒットも見せた。しかも、左線、中前、右前と全ての方向に打ち分ける猛打賞のおまけ付き。
現役生活最後の打席でこの日3本目のヒットを放つと、一塁ベース上で今にも溢れそうになる涙を必死にこらえる岡田の姿があった。
引退セレモニーでの熱い言葉。
試合後、岡田は引退セレモニーの中でこんな言葉を残した。以下全文を掲載する。
「このようなセレモニーを開いていただいた千葉ロッテマリーンズ、球団の皆様、井口(資仁)監督を始めコーチ、選手、裏方さん、そして福岡ソフトバンクホークスの皆様、ソフトバンクファンの皆様、本当にありがとうございます。
正直こんな日が来るとは思いませんでした。ただガムシャラにボールを追いかけ、グラウンドを駆け巡るそういったプレーでした。ホームランも打ったことありません。なのに10年間も出来ました。本当にありがとうございました。
そしてマリーンズファンの皆様、いつも変わらぬ、良いときも悪いときも熱い声援をくださったファンの皆様本当に感謝の気持ちでいっぱいです。今日でユニフォームを脱ぎます。マリーンズはまだまだ強くなります。これからもマリーンズをよろしくお願いします。10年間本当にありがとうございました」
記録にも記憶にも残った名手、岡田幸文。
彼が過ごしたこの10年間は千葉ロッテファンだけでなく、多くのプロ野球ファンの間で長く語り継がれていくことだろう。今後は指導者を目指して第二の人生を歩んでいくという。そんな彼に送る言葉はやっぱりこの言葉しかない。
「10年間お疲れ様でした、そしてありがとうございました」と。
文=永田遼太郎
(Number)
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≪2018/10/15≫
2000本安打の福浦和也に、浦和レッズから胡蝶蘭が届いた深い事情
視点というものは面白いものだ。福浦和也内野と14年の付き合いになるが、この名前の中に「浦和」という文字が隠れていることなど考えもしなかった。サッカーJリーグの浦和レッズから10月4日に同選手の2000本安打を祝う綺麗な胡蝶蘭が届いた時は勝手に千葉ロッテマリーンズの二軍本拠地が浦和にあるというご縁だと思っていた。それでも十分に粋な計らいだと感じていたが、実際はさらに奥が深い事を知った。
「浦和」に「福」を
「福浦和也さんの2000本安打の記事を見たときに、まず『浦和』という文字が目に飛び込んできました。我々のホームタウンである『浦和』に『福』。非常に縁起もよくご縁を感じてお花を届けたいと考えました。福浦選手にも喜んで頂いたようでうれしかったですし、ここから何かご縁を強くして行ければと思っています」とチームマネージャーの水上裕文氏。
福浦選手が2000本安打を達成した翌日の9月23日の朝。同氏がなにげなくスポーツ紙の1面を見ていると、「浦和」という文字が目に飛び込んできたという。「はて、ウチが一面になることが昨日あったか?」。その見出しは「福 浦和 也」。福浦選手の2000本安打を報道する記事。この日、埼玉スタジアムでヴィッセル神戸戦を控えてきた中で目にした縁起の良い文字に、なにかいい事があるかもと気分よく臨んだ試合は青木拓矢、興梠慎三、武藤雄樹、長澤和輝がそれぞれ得点を挙げ4-0で快勝。さらなる縁を感じたということで花を届けたいと考え親交のある西武ライオンズを通じて我々、千葉ロッテマリーンズの方に連絡が入ったという流れだ。
しかし、これまで何度も福浦選手の名前は、いろいろな報道の見出しとしてしっかりと目にしてきたが一度たりとも「浦和」という文字が潜んでいることに気が付くことはなかった。人間の固定観念、思い込み、指摘感覚とは面白いもので見る人が見れば、しっかりとまったく違うものが浮かび上がってくるのである。
「オレも気が付いていなかったよ」
今回、福浦選手2000本安打関連で100本を超えるスタンド花や胡蝶蘭などが届いた。基本的にはプロ野球関係、その他はマスコミ関係、球団に関連した企業など。その中でサッカー・浦和レッズの胡蝶蘭はやはり特別な存在感を醸し出している。
この件に関して福浦選手は「まさか浦和レッズさんから祝福のお花を頂けるなんて夢にも思っていなかった。正直、オレも自分の名前の中に『浦和』という文字として読めることに気が付いていなかったよ。言われてみればそうだなあと。それにしても2000本安打の記録の凄さを改めて感じた。ありがたいこと。サッカーはずっと好きで中学校2年生の長男も好きなのでぜひ機会があれば応援に行かせてもらいたいと思っています。まだ一度もJリーグを見た事がないのでぜひ生観戦に行きたいですね。今回は本当にありがとうございました。また気持ちを入れ直して頑張ります」とコメント。サッカーのビッククラブによる粋な計らいに心から御礼を述べた。
今回の件は私も一人の広報マンとして視点の転換の大事さを改めて感じた。なぜもっと早くこのことに気が付かなかったのか。嫉妬すら感じる。ちょっとした気づき。なによりも速やかに行動に移す浦和レッズの柔軟性に感服した。サッカーJリーグとプロ野球の間に起こったほんのちょっとしたご縁。でもこの事はほっこりと心温まる出来事で多くの人を幸せな気持ちにした。我々も浦和レッズの姿勢を見習い、日々、ちょっとした出来事を逃さないようにしていきたいと改めて感じた。改めまして浦和レッズの皆様、本当にありがとうございました。
梶原 紀章
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