ロッテドラ1・佐々木、ハマの番長に感化 「子供たちに憧れられるような存在に」
「NPB新人研修会」が11日、都内で開催され、薬物乱用防止、暴力団、有害行為などについての講義や、昨季限りで現役を引退した三浦大輔氏(元DeNA)の講演が行われた。
研修会に出席したロッテのドラフト1位・佐々木千隼(桜美林大)は「とても勉強になりました。アマチュアの時は、あまり自分には関係がないという意識でしたけど、これからはプロ野球選手としていろいろな事にしっかりと自覚と責任を持って取り組んでいきたいと思いました」とコメント。
また、「三浦さんのお話を聞くのは、とても楽しみにしていました。いろいろと勉強になりましたし、刺激になりました。特に『子供たちに憧れられるような存在になりなさい』というメッセージは強く印象に残っています。あの方のように長い間、現役の最前線で活躍し、ファンの方に応援をしてもらえるような選手になりたいと改めて思いました」と球界の大先輩からの金言に気持ちを新たにした。
(ベースボールキング)
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中後悠平、アメリカでつかんだ転機「メソメソして、びびっても仕方ない。野球を楽しむ原点に帰った」
2015年シーズンオフに千葉ロッテマリーンズから戦力外通告を受けた中後悠平。昨シーズンはアメリカにわたり、アリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下のマイナーに所属。シーズンを通じて安定した成績を残し、今季はメジャー昇格も期待される。中後に昨シーズンを振り返ってもらいつつ、今季の抱負を聞いた。
アメリカと日本のウエイトトレーニングに違い
――9月にアメリカから帰って来て、約3カ月が経ちました。その間どのように過ごしてきましたか?
帰って来てすぐは、まず休みましたね。ずっと家族とは離れ離れだったので一緒に買い物へ出掛けたりしながら約3週間くらいは休んだんじゃないですかね。
――3週間ですか?
はい。9月中旬くらいに帰って来て、10月の1週目くらいに入ってから埼玉県で場所を借りてトレーニングしていました。
――そのトレーニングではどのような課題を持って取り組んでいたのですか?
よくアメリカへ行くと太るとか言われるんですけど、僕の場合は食べ物の問題でむしろ痩せてしまったので、6キロも体重が落ちちゃったんですよ。なのでとにかく体重を元に戻すことと、自分なんかまだまだ体が弱いほうなので、やっぱりウエイトですね。体を大きくするのが目的ではなくて、怪我をしないためのウエイト。体幹を主に鍛えました。
――アメリカと日本のウエイトトレーニングで、考え方の違いのようなものはありましたか?
全然違いますね。僕はアメリカのほうが好きでした。
――それはどのような部分で?
僕はまだマイナーでしか経験がないですけど、アメリカでも一番下のリーグからスタートしたので、そこだと強制的にウエイトをさせられるんですね。でも、そこでウエイトをすると最初の頃は体を大きくするトレーニングもあるんですけど、シーズンに入ると怪我をしないケアの比重が大きくなってくるんです。
日本の場合、ケアをするとなるとマッサージとか治療とかになってしまうんですけど、アメリカはマッサージがほとんどなく、僕はマイナーしか経験していないのでメジャーは分からないですけど、ほとんどマッサージや治療はやってもらっていないんですね。そうしたなか、自分でやっていくんですけど、体のケアのトレーニングを僕は向こうで教えてもらって、それが上手くいった。体の疲れをとりながら同時に強くする一石二鳥的なトレーニングをして体も多少は大きくなりましたし、怪我もなかったですし、そこが良かったです。
――なるほど。
やっぱり休む時間も大事なんですよ。トレーニング自体の時間も短いですし……。
――どれくらいなんですか?
1時間もないくらい。だいたい30~40分です。主に登板日のあとすぐにインナーマッスル、上半身のトレーニングをするんです。体が温まっているうちにする感じで、その後はアイシングしたい人はしてって感じなんです。それで次の日に下半身のトレーニングをする。僕が1Aにいたときは週に3回、そういったトレーニングを入れられてましたね。それが3Aに行くと少し変わるんですけどね。そこはメジャーの1つ下なので調整って感じなんです。
――強制的じゃなくなるってことですね。
はい。逆に何も言われない。でも、みんなそういった環境で下からやってきたので、勝手に出来るんですよね。だから僕も3Aにいるフィジカルトレーナーに相談しながら、今までやって来たことをする感じです。日本のときってシーズン中でもいっぱい走って、みんなでトレーニングしてって感じですけど、そういう環境だから個人的なトレーニングがおろそかになってしまう部分って周りを見ていても結構あったんですよ。それで腰が痛くなったから下半身のウエイトはやめておこうみたいな……。
僕の身体がそれだけ弱かったというのもあるんですけど、日本にいるときはオーバーワークで怪我をしてしまった自分がいたので、それより早く疲れをとりたいとなって、トレーナーさんを呼んで、マッサージしてという流れでそっちにばかり目が行ってしまったので、それを自分でケアしてやっていく感じだったんですよね。
――なるほど。違いはよく分かりました。
日本でもそうやっている人はいると思います。だけど僕は自分に弱かったんでね。ウエイトトレーニングもやってはいましたけど、じゃあどれだけかって問われたら大してやっていなかったんでね。それがアメリカに行って、自分しかいない環境の中で気付きもあって、教えてもらって、そこが僕の中で良かった経験だったと思いますね。
結果を残せない焦りが力みに
――この前も他所のインタビューで、精神面で大きく変わったと話していましたよね。
そうです。これは何回も言っている話ですけど、せっかく単身でアメリカまで乗り込んで野球をしているんだから、マウンドに立って投げることに恐怖心を持ったり、嫌気がさしたりするのがアホくさく思えたんですよ。もちろん給料が少ないというのもありますけど、ここでアカンかったら日本に帰らなきゃアカン。アカンかったら自分の野球も終わりっていうのもありましたからね。ましてや僕は日本人で、シーズン途中から入って来て、ここでメソメソして、びびって投げていてもそりゃあ楽しくないし、それでは日本でやっていたことと何ら変わりないんですよ。
日本でやっていたときはお金をもらって仕事として野球をやっていたわけだから、いつ首を切られるか分からないという焦りの中でやっていた。結果残されへん、その焦りが力みに変わって、力みがマウンドでうまくいかへんと悪循環になって、マウンドに上がりたくなくなる。そうなるとどっかしら体が言うことを聞かなくなるんですよ。
――千葉ロッテマリーンズにいた2年目、3年目はまさにそんな感じでしたよね。
僕はよく強気なピッチングとか周りに言われていたんですけど、それが一つの失敗で、そこからダダダダンと階段を落ちていくような経験もしたんでね。アメリカでも行って、すぐに同じような経験をしたんですよ。1Aで躓いたときに、ヤバくなったときがあったんですけど、そこで自分が変わらないとここに来た意味がないと言い聞かせて、そこでスポーツは楽しむもんだと気付かされてね……。プロでお金をもらうようになって、将来的なこととか、自分には野球しかあらへんとか考えてしまうと、怖くなるかもしれないけど、元々のスポーツの意味ってみんなで楽しむためのものじゃないですか。
僕も野球を始めたきっかけは周りの友達がやっていたとか、うちのオトンが少年野球のコーチをしていて、子どもの一人が野球をやるってなって、それを見た自分が『野球楽しそうだな』ってなったから始めたわけでね。きっと誰だってそうなんですよ。小さいときから嫌々と思いながら、25歳とか26歳まで10何年間も野球をやっているわけないんですよ。みんなと野球をやりたいから、楽しみたいからというのが大前提としてあると思う。だから僕はアメリカに行ってまで野球をして、同じことをしたらアカンって考えて、野球を楽しむという原点に帰ったんです。
(ベースボールチャンネル)
メジャー昇格なるか…中後悠平が追う、20年前の成功例
メジャーキャンプに招待
アリゾナ・ダイヤモンドバックスは現地時間9日(日本時間10日)、球団公式Twitterでキャンプの招待選手を発表。その中にある日本人選手の名前があった。元ロッテの左腕・中後悠平である。
招待選手14名のうち、投手は10名。そのうち左腕は中後を含めて4名いた。招待選手がメジャーの25人枠に入るには、キャンプとオープン戦でよほどの好成績を残さなければ難しいと言われている。ただし、メジャーは年間162試合を戦う長丁場。選手に故障はつきものであり、たとえ開幕メジャーを逃したとしても、マイナーで結果を残していればチャンスは巡って来ることだろう。
中後が所属するダイヤモンドバックスの投手陣は、昨季のチーム防御率が5.09。これはメジャー全体で見てもワーストの数字であり、投手陣の整備が急務となっている。
特に厳しいのが左腕で、昨シーズン25試合以上に登板した救援左腕はたった一人だけ。その投手も防御率は6.75と、投手が苦しいチーム事情の中でも大きな弱点となっている。そのため、中後にチャンスが巡って来る可能性は高いといえるだろう。
どん底から這い上がった男
2015年のオフに、ロッテを戦力外となった中後。年末のテレビ番組でも取り上げられ、大きな話題になった。
現役続行を目指して挑んだトライアウトでも散々な結果に終わってしまうが、番組の特集のおかげで中後の人生が大きく変わる。
その放送をたまたま見ていたメジャースカウトが中後との接触を試み、年が明けて2016年の2月にはダイヤモンドバックスと契約。アメリカから野球人生の再出発を切ることになったのだ。
当初はルーキーリーグからのスタートとなるも、夏場には3Aまで昇格。マイナーでは合計30試合に投げ、防御率は1.23をマーク。29回1/3を投げて40三振を奪う好投を見せた。
その他にも13試合連続無失点や、対左打者の被打率は.154(対右打者は.273)など、与えられた役割を果たしたが、メジャー昇格はあと一歩叶わず。それでも今年、その活躍が認められてメジャーキャンプに招待を受けるまでに至った。
20年前の変則左腕のように
中後といえば、“和製ランディ・ジョンソン”とも評されたその独特なフォームが有名。日本人の変則左腕でメジャーに挑戦した選手と言えば、元巨人の柏田貴史の名前を思い出す。
今からちょうど20年前の1997年、野球留学という形でメジャーに挑戦した柏田。巨人ではなかなか一軍に定着することができず、実績もなかったことから無謀な挑戦と思われたが、5月にメジャーデビューを果たすとその月は11試合に登板して防御率1.64と好成績を残した。
終盤は打ち込まれるケースも増えたものの、それまで日本でプレーした7年間の通算を上回る35試合に登板。中継ぎ専門ながら3勝を挙げ、防御率4.31という成績だった。
翌年、巨人に復帰すると、1999年から2000年にかけては2年連続で50試合以上に登板。左の中継ぎエースとして貴重なはたらきを見せ、チームの日本一に大きく貢献している。
メジャーまであと一歩のところまで来た中後は、20年前の柏田のように日本の野球ファンを驚かせることができるだろうか…。26歳の若さで「戦力外通告」を受けた男が夢を掴む瞬間は、もう目前に迫っている。
文=八木遊(やぎ・ゆう)
【八木遊・プロフィール】 1976年、和歌山県出身。大学卒業後、某スポーツデータ会社に就職。プロ野球、MLB、NFLの業務などに携わる。野茂英雄と同じ1995年に渡米。ヤンキース全盛期をアメリカで過ごした。日本にファンタジーベースボールを流行らせたいという構想を持ち続けている。
(ベースボールキング)
「NPB新人研修会」が11日、都内で開催され、薬物乱用防止、暴力団、有害行為などについての講義や、昨季限りで現役を引退した三浦大輔氏(元DeNA)の講演が行われた。
研修会に出席したロッテのドラフト1位・佐々木千隼(桜美林大)は「とても勉強になりました。アマチュアの時は、あまり自分には関係がないという意識でしたけど、これからはプロ野球選手としていろいろな事にしっかりと自覚と責任を持って取り組んでいきたいと思いました」とコメント。
また、「三浦さんのお話を聞くのは、とても楽しみにしていました。いろいろと勉強になりましたし、刺激になりました。特に『子供たちに憧れられるような存在になりなさい』というメッセージは強く印象に残っています。あの方のように長い間、現役の最前線で活躍し、ファンの方に応援をしてもらえるような選手になりたいと改めて思いました」と球界の大先輩からの金言に気持ちを新たにした。
(ベースボールキング)
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中後悠平、アメリカでつかんだ転機「メソメソして、びびっても仕方ない。野球を楽しむ原点に帰った」
2015年シーズンオフに千葉ロッテマリーンズから戦力外通告を受けた中後悠平。昨シーズンはアメリカにわたり、アリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下のマイナーに所属。シーズンを通じて安定した成績を残し、今季はメジャー昇格も期待される。中後に昨シーズンを振り返ってもらいつつ、今季の抱負を聞いた。
アメリカと日本のウエイトトレーニングに違い
――9月にアメリカから帰って来て、約3カ月が経ちました。その間どのように過ごしてきましたか?
帰って来てすぐは、まず休みましたね。ずっと家族とは離れ離れだったので一緒に買い物へ出掛けたりしながら約3週間くらいは休んだんじゃないですかね。
――3週間ですか?
はい。9月中旬くらいに帰って来て、10月の1週目くらいに入ってから埼玉県で場所を借りてトレーニングしていました。
――そのトレーニングではどのような課題を持って取り組んでいたのですか?
よくアメリカへ行くと太るとか言われるんですけど、僕の場合は食べ物の問題でむしろ痩せてしまったので、6キロも体重が落ちちゃったんですよ。なのでとにかく体重を元に戻すことと、自分なんかまだまだ体が弱いほうなので、やっぱりウエイトですね。体を大きくするのが目的ではなくて、怪我をしないためのウエイト。体幹を主に鍛えました。
――アメリカと日本のウエイトトレーニングで、考え方の違いのようなものはありましたか?
全然違いますね。僕はアメリカのほうが好きでした。
――それはどのような部分で?
僕はまだマイナーでしか経験がないですけど、アメリカでも一番下のリーグからスタートしたので、そこだと強制的にウエイトをさせられるんですね。でも、そこでウエイトをすると最初の頃は体を大きくするトレーニングもあるんですけど、シーズンに入ると怪我をしないケアの比重が大きくなってくるんです。
日本の場合、ケアをするとなるとマッサージとか治療とかになってしまうんですけど、アメリカはマッサージがほとんどなく、僕はマイナーしか経験していないのでメジャーは分からないですけど、ほとんどマッサージや治療はやってもらっていないんですね。そうしたなか、自分でやっていくんですけど、体のケアのトレーニングを僕は向こうで教えてもらって、それが上手くいった。体の疲れをとりながら同時に強くする一石二鳥的なトレーニングをして体も多少は大きくなりましたし、怪我もなかったですし、そこが良かったです。
――なるほど。
やっぱり休む時間も大事なんですよ。トレーニング自体の時間も短いですし……。
――どれくらいなんですか?
1時間もないくらい。だいたい30~40分です。主に登板日のあとすぐにインナーマッスル、上半身のトレーニングをするんです。体が温まっているうちにする感じで、その後はアイシングしたい人はしてって感じなんです。それで次の日に下半身のトレーニングをする。僕が1Aにいたときは週に3回、そういったトレーニングを入れられてましたね。それが3Aに行くと少し変わるんですけどね。そこはメジャーの1つ下なので調整って感じなんです。
――強制的じゃなくなるってことですね。
はい。逆に何も言われない。でも、みんなそういった環境で下からやってきたので、勝手に出来るんですよね。だから僕も3Aにいるフィジカルトレーナーに相談しながら、今までやって来たことをする感じです。日本のときってシーズン中でもいっぱい走って、みんなでトレーニングしてって感じですけど、そういう環境だから個人的なトレーニングがおろそかになってしまう部分って周りを見ていても結構あったんですよ。それで腰が痛くなったから下半身のウエイトはやめておこうみたいな……。
僕の身体がそれだけ弱かったというのもあるんですけど、日本にいるときはオーバーワークで怪我をしてしまった自分がいたので、それより早く疲れをとりたいとなって、トレーナーさんを呼んで、マッサージしてという流れでそっちにばかり目が行ってしまったので、それを自分でケアしてやっていく感じだったんですよね。
――なるほど。違いはよく分かりました。
日本でもそうやっている人はいると思います。だけど僕は自分に弱かったんでね。ウエイトトレーニングもやってはいましたけど、じゃあどれだけかって問われたら大してやっていなかったんでね。それがアメリカに行って、自分しかいない環境の中で気付きもあって、教えてもらって、そこが僕の中で良かった経験だったと思いますね。
結果を残せない焦りが力みに
――この前も他所のインタビューで、精神面で大きく変わったと話していましたよね。
そうです。これは何回も言っている話ですけど、せっかく単身でアメリカまで乗り込んで野球をしているんだから、マウンドに立って投げることに恐怖心を持ったり、嫌気がさしたりするのがアホくさく思えたんですよ。もちろん給料が少ないというのもありますけど、ここでアカンかったら日本に帰らなきゃアカン。アカンかったら自分の野球も終わりっていうのもありましたからね。ましてや僕は日本人で、シーズン途中から入って来て、ここでメソメソして、びびって投げていてもそりゃあ楽しくないし、それでは日本でやっていたことと何ら変わりないんですよ。
日本でやっていたときはお金をもらって仕事として野球をやっていたわけだから、いつ首を切られるか分からないという焦りの中でやっていた。結果残されへん、その焦りが力みに変わって、力みがマウンドでうまくいかへんと悪循環になって、マウンドに上がりたくなくなる。そうなるとどっかしら体が言うことを聞かなくなるんですよ。
――千葉ロッテマリーンズにいた2年目、3年目はまさにそんな感じでしたよね。
僕はよく強気なピッチングとか周りに言われていたんですけど、それが一つの失敗で、そこからダダダダンと階段を落ちていくような経験もしたんでね。アメリカでも行って、すぐに同じような経験をしたんですよ。1Aで躓いたときに、ヤバくなったときがあったんですけど、そこで自分が変わらないとここに来た意味がないと言い聞かせて、そこでスポーツは楽しむもんだと気付かされてね……。プロでお金をもらうようになって、将来的なこととか、自分には野球しかあらへんとか考えてしまうと、怖くなるかもしれないけど、元々のスポーツの意味ってみんなで楽しむためのものじゃないですか。
僕も野球を始めたきっかけは周りの友達がやっていたとか、うちのオトンが少年野球のコーチをしていて、子どもの一人が野球をやるってなって、それを見た自分が『野球楽しそうだな』ってなったから始めたわけでね。きっと誰だってそうなんですよ。小さいときから嫌々と思いながら、25歳とか26歳まで10何年間も野球をやっているわけないんですよ。みんなと野球をやりたいから、楽しみたいからというのが大前提としてあると思う。だから僕はアメリカに行ってまで野球をして、同じことをしたらアカンって考えて、野球を楽しむという原点に帰ったんです。
(ベースボールチャンネル)
メジャー昇格なるか…中後悠平が追う、20年前の成功例
メジャーキャンプに招待
アリゾナ・ダイヤモンドバックスは現地時間9日(日本時間10日)、球団公式Twitterでキャンプの招待選手を発表。その中にある日本人選手の名前があった。元ロッテの左腕・中後悠平である。
招待選手14名のうち、投手は10名。そのうち左腕は中後を含めて4名いた。招待選手がメジャーの25人枠に入るには、キャンプとオープン戦でよほどの好成績を残さなければ難しいと言われている。ただし、メジャーは年間162試合を戦う長丁場。選手に故障はつきものであり、たとえ開幕メジャーを逃したとしても、マイナーで結果を残していればチャンスは巡って来ることだろう。
中後が所属するダイヤモンドバックスの投手陣は、昨季のチーム防御率が5.09。これはメジャー全体で見てもワーストの数字であり、投手陣の整備が急務となっている。
特に厳しいのが左腕で、昨シーズン25試合以上に登板した救援左腕はたった一人だけ。その投手も防御率は6.75と、投手が苦しいチーム事情の中でも大きな弱点となっている。そのため、中後にチャンスが巡って来る可能性は高いといえるだろう。
どん底から這い上がった男
2015年のオフに、ロッテを戦力外となった中後。年末のテレビ番組でも取り上げられ、大きな話題になった。
現役続行を目指して挑んだトライアウトでも散々な結果に終わってしまうが、番組の特集のおかげで中後の人生が大きく変わる。
その放送をたまたま見ていたメジャースカウトが中後との接触を試み、年が明けて2016年の2月にはダイヤモンドバックスと契約。アメリカから野球人生の再出発を切ることになったのだ。
当初はルーキーリーグからのスタートとなるも、夏場には3Aまで昇格。マイナーでは合計30試合に投げ、防御率は1.23をマーク。29回1/3を投げて40三振を奪う好投を見せた。
その他にも13試合連続無失点や、対左打者の被打率は.154(対右打者は.273)など、与えられた役割を果たしたが、メジャー昇格はあと一歩叶わず。それでも今年、その活躍が認められてメジャーキャンプに招待を受けるまでに至った。
20年前の変則左腕のように
中後といえば、“和製ランディ・ジョンソン”とも評されたその独特なフォームが有名。日本人の変則左腕でメジャーに挑戦した選手と言えば、元巨人の柏田貴史の名前を思い出す。
今からちょうど20年前の1997年、野球留学という形でメジャーに挑戦した柏田。巨人ではなかなか一軍に定着することができず、実績もなかったことから無謀な挑戦と思われたが、5月にメジャーデビューを果たすとその月は11試合に登板して防御率1.64と好成績を残した。
終盤は打ち込まれるケースも増えたものの、それまで日本でプレーした7年間の通算を上回る35試合に登板。中継ぎ専門ながら3勝を挙げ、防御率4.31という成績だった。
翌年、巨人に復帰すると、1999年から2000年にかけては2年連続で50試合以上に登板。左の中継ぎエースとして貴重なはたらきを見せ、チームの日本一に大きく貢献している。
メジャーまであと一歩のところまで来た中後は、20年前の柏田のように日本の野球ファンを驚かせることができるだろうか…。26歳の若さで「戦力外通告」を受けた男が夢を掴む瞬間は、もう目前に迫っている。
文=八木遊(やぎ・ゆう)
【八木遊・プロフィール】 1976年、和歌山県出身。大学卒業後、某スポーツデータ会社に就職。プロ野球、MLB、NFLの業務などに携わる。野茂英雄と同じ1995年に渡米。ヤンキース全盛期をアメリカで過ごした。日本にファンタジーベースボールを流行らせたいという構想を持ち続けている。
(ベースボールキング)
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