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アメリカとメキシコの国境が話題になっている。この国境線は約3,200kmに及ぶ。即ち日本列島の最北端 (択捉島) と最西端 (与那国島) の直線距離の3,294kmとほぼ同じであり、そのあまりのスケールの大きさがわかるだろう。
ちなみに世界で最も長い国境線はアメリカ=カナダ間で8,891kmだが、アラスカとの国境を除くと6,416kmとなる。従って単一の国境線という観点ではロシア=カザフスタン間の6,846kmの方が長い。南北に延びるアルゼンチン=チリ間の国境は5,150kmだ。いずれも日本の感覚ではイメージできない。

一方で世界で最も短い国境線は、アフリカのザンビア=ボツワナ間で僅か150mとなる。そしてここは世界で唯一4ヵ国の国境が近接する地点でもある。



この国境は川幅約400mのザンベジ川の中に存在するのだが、ザンビア=ナミビア=ボツワナとボツワナ=ジンバブエ=ザンビアの三国国境がそれぞれ存在し、その間がザンビア=ボツワナの国境線 (150m) で繋がれているという形となる。従ってとても惜しいのだが、この国境点は四国国境とは言えない。
ちなみに、国境の町はザンビア側もボツワナ側もカズングラ (Kazungula)と呼ばれ、この2つの町を結ぶカズングラ・フェリーが運航している。



またこのフェリーに代わって橋の建設が計画されており、これは日本の政府開発援助によるものである。

JICA ODA見える化サイト カズングラ橋建設事業(ザンビア)
https://www.jica.go.jp/oda/project/ZM-P5/index.html

ボツワナとザンビアを通る南北回廊は、南部アフリカ地域で重要な運輸回廊の一つですが、ボツワナ・ザンビアの国境を流れるザンベジ川で隔てられており、南部アフリカ地域の経済開発上のボトルネックとなっていました。この協力では、ザンベジ川を渡河する橋梁建設と国境管理施設の建替えと併せて、税関、出入国管理、検疫などを両国で一本化するワン・ストップ・ボーダー・ポスト(OSBP)化による国境通過手続き迅速化も支援します。これにより、輸送の効率化を図り、南北回廊周辺地域における物流の改善および経済開発の促進に寄与します。

外務省 カズングラ橋建設計画プロジェクト位置図
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/24/10/pdfs/20121010_01_01.pdf

さて、このように四国国境は現存はしないのだが、歴史的には例がある。
近代における事例として、1839年から1920年の中立モレネの北端のファールゼルベルク (Vaalserberg) が挙げられる。これはオランダ・ベルギー・プロイセン・中立モレネの (中立モレネを国としてカウントするという前提で) 四国国境だった。
それでは中立モレネとはどのような国であったのだろうか。

モレネ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AC%E3%83%8D

中立モレネ (Neutral Moresnet) は、ドイツとベルギーの国境に1816年から1920年にかけて存続した共同主権地域。面積3.5km2の小さな領域。モレネが存続したのは、ドイツ国(当初はプロイセン王国)とベルギー(当初はオランダ)が、互いに他方の主張する領有権を認めなかったことによる。この地帯は両国が等しく統治権をもち、中立地帯とされた。
ナポレオン戦争の終結後、1814年から1815年にかけて開催されたウィーン会議は、ヨーロッパの秩序回復・諸国間の勢力均衡を掲げて領土の再配分を行った。
ウィーン会議で新たに設立されたネーデルラント連合王国(オランダ)とプロイセン王国との国境線も、このとき画定されることになった。両者はほぼ従来の境界線を踏襲することで合意したが、アーヘンの南西に位置するモレネ一帯をめぐって争いが生じた。この地域には、亜鉛・真鍮の加工のために必要な菱亜鉛鉱の鉱山があったためである。
1815年12月以降、プロイセンとオランダの代表はアーヘン近郊で会合を行い、1816年6月26日にモレネを3分割することで合意に達した。
東部はプロイセンに帰属、西部はオランダに帰属、そして中部は将来あらためて合意が結ばれるまで当面のあいだ両国の共同統治区域とした。双方の軍隊をこの区域に進駐させることは禁じられ、中立地帯にとして共同管理が行われることとなった。




このように、モレネの中部は北のファールゼルベルクを頂点とする鋭い三角のような形となり、中立モレネとしてプロイセンとオランダによる共同管理が行われた。その後1830年にベルギー独立革命、および1839年のロンドン条約調印によって、ベルギーのオランダからの独立が認められ、中立モレネ西側のオランダ領部分はベルギーの領土となり、中立モレネにおけるオランダの役割もベルギーが引き継いだ。
その結果として、中立モレネの北端のファールゼルベルクはオランダ・ベルギー・プロイセン・中立モレネの四国国境となったのである。

しかし、1914年8月にドイツがベルギーに侵攻し、中立モレネは1915年にプロイセン王国に併合された。しかしこれは国際的な承認はなかった。
1918年11月に、フランスとドイツの間で休戦が成立し、ドイツ軍はベルギーとモレネからの撤退を迫られた。1919年6月のヴェルサイユ条約によってベルギーに帰属することが決定され、1920年1月に中立モレネは正式にベルギー領に編入され「ケルミス」と名を変えた。そしてこれをもって4ヵ国国境は世界の地図から消えた。
その後ケルミスは第二次世界大戦時にドイツによる再占領があったが、1944年にベルギーへ復帰している。
そして現在でもファールゼルベルクは、ドイツ・ベルギー・オランダの三国国境となっている。



三国国境は世界に約176ヶ所 (国境未確定の地点がある) 存在するが、四国国境となると途端に例がなくなってしまう。国境線が十字にクロスすれば四国国境ができそうなものだが、現実はそんなに単純なものではない。
カズングラ橋の建設を機会に、ボツワナ・ザンビア・ナミビア・ジンバブエは国境を少しだけずらしたら面白いのではないかと思うが、さすがに無理だろうか。


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