My Encyclopedia
知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊してから、まもなく30年となる。「東ドイツ」「西ドイツ」という国名の響きもすっかり過去のものとなった。
その東西ドイツの対立のひとつの例として「ルフトハンザ」を取り上げてみたい。伸井太一氏の『ニセドイツ1 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社、2009年) を主に参照する。

「ルフトハンザ」と言えば、当然ドイツのフラッグキャリアとされる「ルフトハンザドイツ航空」(ドイツ語: Deutsche Lufthansa AG) をイメージするだろう。
その前身は1926年に設立された Deutsche Luft Hansa A.G. である。

Deutsche Luft Hansa
https://en.wikipedia.org/wiki/Deutsche_Luft_Hansa

Deutsche Luft Hansa A.G. (from 1933 styled as Deutsche Lufthansa and also known as Luft Hansa, Lufthansa, or DLH) was a German airline, serving as flag carrier of the country during the later years of the Weimar Republic and throughout Nazi Germany.
Even though Deutsche Luft Hansa was the forerunner of modern German airline Lufthansa (founded in 1953), there is no legal connection between the two.


Deutsche Luft Hansa A.G. はナチス時代を通じてドイツ空軍と密接な関係を持ったとして戦後は完全に解体されたが、その再開をめぐって東西でふたつの「ルフトハンザ」」が誕生することになったのである。

『ニセドイツ1 ≒東ドイツ製工業品 』 P84~89 飛行機:煩雑 (ハンザ・ツー) な二つのルフトハンザ

東ドイツでは、1950年代前半から徐々に民間航空事業の再開準備がソ連との協議の下で進められ、1955年5月1日(メーデー)に合わせて。東独政府主導の民間航空が開始されることが決定した。その2か月後の7月1日には、社名をルフトハンザとして、東ドイツ内務省の管轄化で運営されることとなる。
さて、ここである難儀が生じる。実は、東独ルフトハンザに先立つこと3か月、西ドイツにも「ルフトハンザ」が公式に再建されていたのだ。よって、同盟でほとんど同じロゴマークの航空会社が、世界にふたつ存在することになった。これでは各国の空港運営側も利用客も大変だ。つまり、搭乗・到着ゲートなども、「どっちの」ルフトハンザの情報なのかややこしくて仕方ない。
ただし実際は、すでに西側諸国を中心に西独のルフトハンザが「公式な」国際航空会社として承認されていたので、はなから東独のルフトハンザに勝ち目はなかったと言える。西独側は、東独ルフトハンザを企業名の盗用だとして抗議し、逆に東独側はこの抗議は巧妙な東独封じ込めの戦略だと西の政策を非難した。
さすがにこのような状態が続くことは東独の民間航空事業に悪影響しか及ぼさないので、1963年にやむなく東独のルフトハンザは、東独のもうひとつの航空会社であるインターフルークに統合され消滅したのである。


鶴のロゴマークは戦前のDeutsche Luft Hansa A.G.のロゴマークを両社とも採用したものだが、既に登記された商標・マークを使用するとは現在では考えられないお粗末な対応である。
ここで思うのは、東ドイツはルフトハンザをもう3か月早く再建できなかったのかということである。当時から経済的あるいは技術的には敵わなかったはずだが、社名の登記が先行すれば西ドイツに対して優位な立場に立てたはずである。もっともその場合は、西ドイツの航空会社は最初から「ルフトハンザ」ではなかったと思われ、また「ルフトハンザ」は1991年に東西ドイツ統一に伴い営業を終了した東ドイツの国営航空会社という歴史になっただろうが。

さて、名前をめぐる争いで劣勢だった東独ルフトハンザだが、起死回生策として独自の旅客機開発を目指していた。それがバーデ152である。

バーデ152
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%87_152

バーデとはこの航空機の設計者であるブルノルフ・バーデ(Brunolf Baade)のことであり、僅か2機が飛行用に製造された。
最初の試作機の初飛行は1958年12月8日に行われ35分間飛行した。1959年3月4日にオッテンドルフ=オクリラで行われた2度目の飛行で着陸接近の始めに墜落し、全搭乗員が死亡した。墜落の原因は公表されなかったが、燃料系統は傾斜状態ではテストされないことから燃料系統に起因する問題であることが最も考えられる原因である。
飛行テストは2番目の試作機で続けられた。3番目の試作機は地上テストのみに使用された。
旅客機としての飛行テストは1961年初頭にはほぼ終了し、東ドイツの国営航空会社ドイツ・ルフトハンザ用の4機の生産に入った。この時点で東ドイツ政府は全ての航空機産業の活動を停止させた。自国が開発したツポレフ Tu-124を売り込んでいたソビエト連邦が他国からいかなる旅客機をも購入したがらず自国航空機産業の開発に更なる援助をしたためだった。




The Vintage Wings of Canada : The Baade 152
http://www.vintagewings.ca/VintageNews/Stories/tabid/116/articleType/ArticleView/articleId/554/The-Baade-152.aspx

このバーデ152のプロモーション映像がある。


1960年の映像のようだが、飛んでいる機内の映像には見えないし、シートベルトはしていないし、向かい合って座っている点が気になる。前年に墜落した試作段階の飛行機に乗客を載せて飛行することはないだろう。
結局バーデ152が東独ルフトハンザあるいはインターフルークの機体として就航することはなかった。以下のようなおもちゃのモデルしか存在しない。



東独ルフトハンザ、およびバーデ152に見られる旅客機開発の挫折は一例ではあるが、経済力や技術力で東の劣勢は明らかであった。やはりどこかのタイミングで社会主義体制の崩壊は必然であったと言えるだろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 大新聞、小新... パリとロサン... »