このブログは、あまり分野を特定せずにいろいろと調べごとをして、わかったことを記録している。記事のテーマがすぐに決まることはなく、関連するいろいろな内容を調べて纏められそうなものを掘り下げている。
ソースは基本的にはネットが中心で、今の世の中たいていのことはネットで調べることができると言っても過言ではないが、それでもはっきりしたことがわからなかったり、ソースによって記載内容が異なることもある。当然だが私はその分野に精通しているわけではないので、なるべく合理的に判断できる内容で記事を纏めている。
さて、今回調べた内容はほとんど正確なことがわからなかったということを予め断っておく。
かなり以前に、在任期間がわずか20分だったというポルトガル王国ブラガンサ公のルイス・フェリペについて調べたことがあるが、昨年タイのプミポン国王が在任70年で88歳で亡くなったことを受け、在任期間が長い首長について調べてみたが、これは極めてはっきりしないようだ。
ギネスブックによると以下のような記載がある。
Guinness World Records - Longest ever reigns
http://www.guinnessworldrecords.com/world-records/longest-ever-reigns
Who : Phiops II, Minhti, King of Arakan,, Musoma Kanijo
Where : Arakan
Minhti, King of Arakan, which is now part of Myanmar (formerly Burma), is reputed to have reigned for 95 years between 1279 and 1374.
The longest documented reign of any monarch is that of Phiops II (also known as Pepi II or Neferkare) a Sixth-Dynasty pharaoh of ancient Egypt. His reign began c. 2281BC, when he was 6 years of age, and is believed to have lasted c. 94 years.
Musoma Kanijo, although not a monarch, was chief of the Nzega district of western Tanganyika (now part of Tanzania) and reputedly reigned for more than 98 years from 1864, when aged 8, until his death on 2 February 1963.
このようにPhiops II (ペピ2世)、Minhti (Min Hti) 、Musoma Kanijo という時代も地域も全く異なる3名の君主が出てくる。この3名や国家・歴史について調べてみた。
最も古いのは、エジプト古王国時代最後の王朝であるエジプト第6王朝のファラオ (王) のペピ2世(ネフェルカラー・ペピ、Pepi II Neferkare) だ。
ペピ2世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%942%E4%B8%96
ペピ2世は紀元前2383年頃 (紀元前2278年が正と思われる)、僅か6歳でファラオに即位した。ペピ2世は100歳まで生き、実に94年の在位期間を保ったとされている。彼は後世のエジプトでは長寿の代名詞として知られるようになった。
ペピ2世の治世の間に州侯の勢力はますます拡大した。増大する官吏の人件費を確保するために、元来葬祭儀礼等に関わるピラミッド都市などの管理職や領地を、給与・恩賞として分与する政策を採っていた。この方法は少なくとも各官吏の職権と給与を確保する手段としては有効であり、第6王朝の長期安定と対外遠征の勝利はこうした措置によって得られた強力な官吏に支えられたものであった。しかしこれは長期的には官吏の勢力を王の手の及ばない規模まで拡大させた。既に第6王朝の初期から州侯職を世襲する有力家系が発生しており、ペピ2世の治世後半にはこれら州侯に対する中央政府の統制は急激に緩んだ。
ペピ2世が死去する頃には中央集権国家としてのエジプト第6王朝は既に有名無実のものになっていた。彼の死後相次いで王位についたメルエンラー2世とネチェルカラーは共に極めて短期間のうちに王位を失っている。
この写真はペピ2世と母のアンクネスペピ2世の像だ。またタイトルの写真はエジプト・サッカラにあるペピ2世のピラミッドだ。
尚、94年とという在位は紀元前3世紀の古代エジプトの歴史家・マネトの記録によるものだが、エジプト神聖文字の「9」と「6」が似ていることなどから、実際の統治期間は64年だったのではないかとの説も存在している。常識的には6歳で即位して64年と考える方が自然だが、さすがに古すぎて確かなことはわからない。
2人目のMin Htiは現在のミャンマー・ラカイン州にあったアラカン王国の王だ。
アラカン王国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD
アラカン王国は、ビルマのアラカン地方(現在のミャンマーのラカイン州)にあった仏教の王朝(紀元前2666年 - 1785年)。首都はダニヤワディー、ワイタリ、レイムロ、ミョーハウン (現ミャウウー)。首都はさまざまに移り変わったが、1429年にミン・ソー・モンが王権を樹立したのち、1430年にミョーハウン (現在のミャウウー) に定まった。
王国は大航海時代をラカイン族の黄金時代と看做しており、ミョーハウンが商業港として重要な位置を占めるようになると、アラビアやヨーロッパとの広範囲な海運に組み込まれた。
1666年、ムガル帝国にチッタゴンを奪われると、17世紀を通じて衰退を続けた。この王国では内乱・暴動・王の追放が非常に一般的であった。彼らがアジアで覇を唱えた時代の間、ポルトガル人がアラカンに一時的に施設を得た。
1785年1月2日、マハ・タンマダの治世、内部分裂していた王国が侵略してきたビルマのコンバウン朝に首都を占領され、滅亡した。その際、マハムニ仏は戦勝品としてビルマ人に奪われた。
しかし、緩衝国として機能していたアラカンが陥落したことによって、膨張主義のビルマとイギリス東インド会社の領土が直接接触した結果、緊張が将来暴発する舞台を設定してしまった。様々な地政学的諸問題が、以前にビルマに戦勝品として奪われたマハムニ仏を理由に、第一次英緬戦争を引き起こすこととなった。
実際は1429年の王権樹立をもって王国 Kingdom of Mrauk U (地図の緑色) の設立とするようで、これ以前の記録は正確ではないが、ラカイン族は自身の民族史を紀元前3325年まで遡って、1785年の最後の支配者に至るまでの227人のアラカン王国の君主を明らかにしている。
その中の1人がMin Htiで1279年から1374年まで95年にわたって統治したとされている。
List of Arakanese monarchs
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Arakanese_monarchs
一方で以下のサイトではMin Htiの在位は1385年までの106年だったと記録されている。
95年にしろ106年にしろ、この時代にそんな長寿というのは考えられず何かが間違っているのだが、実際にこのような記録が残されていることは事実である。
About Arakan
http://aboutarakaneng.blogspot.jp/2011/10/arakana-buddhist-kingdom-of-southeast.html
The history of Arakan from the 9th to the 13th centuries AD is still hidden in the dark. It is generally referred to as the Lemro period. Lemro means 'four cities' in Arakanese, and indeed this is the period of a succession of four cities whose names were Pin-sa, Pa-rein, Khreip and Laung-krak. Lemro is also the name of the river along which these cities were situated. Apart from the last one of these cities, not much is known of the other ones, where there have been no archaeological excavations at all. There has been as yet no serious study of the chronology of the period. We have at the moment only various dynastic lists whose dates do not match each other.
The greater part of the 14th century, for example, is covered by the reign of a king who is said to have reigned for a total of 106 years (Min Hti 1279-1385).
尚、この写真は1676年に描かれた "View of Mrauk U" である。華やかなイメージが伝わってくる。
最後はギネス記録上で98年と最も在位期間が長いMusoma Kanijo (ムソマ・カニヨ) だが、19~20世紀と比較的最近であるにもかかわらず、この人物に関する記録は全く出てこない。
国家君主というわけではなく、現在のタンザニアのヌゼガ地区 (Nzega District、人口は2012年で約50万人) の部族制社会の族長とのことだ。
1864年に8歳で即位し1963年2月2日に亡くなるまで98年在位ということで、具体的ではあるが統治の実態はわからない。
この間のタンザニアの歴史としては、19世紀半ばのオマーン帝国時代に始まり、1880年代のヨーロッパの帝国主義列強のアフリカ分割によるイギリス、そしてドイツ植民地時代 (ドイツ領東アフリカ)、第一次世界大戦後のイギリスとベルギーによる委任統治、そして第二次世界大戦後の1961年12月9日のタンガニーカとしての独立までを見届けている。内陸の一地方の族長とはいえ、タンザニアの歴史そのものと言っていい人物だ。
但し、タンガニーカは1964年にザンジバル人民共和国と合併してタンガニーカ・ザンジバル連合共和国となり、その後国名を改めて現在のタンザニア連合共和国となったので、ムソマ・カニヨは現在のタンザニアの国の形は知らずに亡くなったこととなる。
「最も在任期間が長い君主」という史実は当然1人しか該当しないのだが、わからないことや曖昧なことがあるからこそ歴史は面白いと言えるだろう。
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