My Encyclopedia
知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




鉄道の用途には大きく旅客輸送と貨物輸送があるが、当然ながらもともと貨物輸送用で営業を始めたものが旅客輸送用に転用される事例も多い。
貨物輸送の中で、砂利の貨物輸送を主目的に敷設された鉄道は、非公式な定義であるが「砂利鉄道」と称された。

砂利鉄道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%88%A9%E9%89%84%E9%81%93

20世紀初頭において、河川敷で採掘した砂利を建築材料などとして活用するために大都市の中心部まで輸送することは重要だった。これは、 首都圏などで鉄道が新たに建設される大きな目的の一つとなった。特に東京の都心に近い多摩川においては砂利の採掘とその鉄道貨物輸送が活発に行われた。
1920-40年代に、砂利採掘の機械化と鉄道による大量輸送により、首都圏の砂利鉄道は大正末期から昭和初期にかけて盛んになった。その反面で、砂利の採掘は川に様々な悪影響を及ぼした。堤防の破壊、河床面の低下による橋梁基礎の露出と危険、水質の汚染などである。その根本的な原因は、砂利の採掘量が上流からの供給量を上回っていた点にあったという。
第二次世界大戦を経て、戦後に砂利の採掘は再び活発になったものの、その制限は強化されるようになった。そして、1964年に、多摩川、相模川、入間川、荒川などの砂利採掘は全面的に禁止されるようになり、砂利鉄道もその役目を終えることとなった。一方、東京郊外の宅地化が進行して、通勤客などの輸送量は増大し続けた。かつて砂利の貨物輸送のために建設された鉄道は、多くの沿線住民が利用する通勤路線として発展し、その姿を大きく変えることになった。


内田宗治氏の「地形と地理で解ける!東京の秘密33 多摩・武蔵野編」(実業之日本社) のP134~143を参照しながら、もう少し詳細を展開したい。

とくに1923年の関東大震災後の帝都復興において、多摩川の砂利が多く使われた。大正時代はそれまでのレンガに代わってコンクリートの建造物が盛んに作られ始めた時期である。関東地方の河川の中で砂利生産量は多摩川が飛び抜けて多かった。多摩川の砂利にはコンクリート用として適度な弾力性持つとされる硬砂岩がたくさん含まれていた。採掘面では、砂利の堆積層が厚く広く川床も平坦という条件を満たし、更に大消費地の東京への運搬距離が短くて済む、と多摩川はまさに天の恵みのような川だった。

そして多摩川をわたる多くの鉄道が砂利を運搬し、また砂利運搬を目的に鉄道が敷設された。
最も砂利を運搬したのは、1910年に建設された貨物専用の東京砂利鉄道で、中央線国分寺駅から現在の武蔵野線府中本町駅の南側まで延びていた路線である。1920年に鉄道省が同社線を採掘権と共に買収し、中央本線下河原支線とした。同線はその後東京競馬場前駅が設けられて旅客輸送も行ったが、最終的に1976年4月に武蔵野線の府中本町までの延伸に伴い廃線となった。
また、現在の西武多摩川線も1910年に砂利運搬を目的として設立された多摩鉄道が前身である。現在の競艇場前駅(当初は常久駅)から多くの砂利が搬出された。現在の多摩川競艇場は陸掘りされた穴に水が貯まったものを整備して競艇場に転用したものである。

その他にも現在のJR南武線 (当時は南武鉄道) や京王相模原線も砂利運搬を目的として設立され、現在通勤路線として残っている。
そして1969年に廃止された東急玉川線 (愛称「玉電」) も、同様に砂利運搬を目的として設立された鉄道である。

東急玉川線 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5%E7%8E%89%E5%B7%9D%E7%B7%9A#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

玉電は、1896年に玉川砂利電気鉄道により、二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的として、東京市麹町区の三宅坂と玉川の間の路線開設が出願されたことを起源とする。1903年に玉川電気鉄道が設立され、1907年に渋谷 - 玉川間が開業した。
玉川から運んできた砂利を都心に輸送するため、渋谷では、都心に線路を伸ばしていた東京市電と軌道が接続され、渋谷には砂利運搬車両の留置線も設置された。1924年には玉川 - 砧間に砧線が開業し、二子橋の上流にあたる大蔵付近の砂利の輸送を開始した。このように、砂利輸送を主目的とした性格から、「ジャリ電」と呼ばれることもあった。関東大震災後の市内補修の砂利運搬には威力を発揮した。


この記事にあるとおり、渋谷には砂利運搬車両の留置線が設置され、砂利の積み下ろし場も設けられた。この具体的な場所は以下のサイトに詳しい。

平成作庭記+α タマデン「渋谷停留場」の変遷
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/12/post-cecc.html

国会図書館の近代デジタルライブラリーに、1912年の地籍図「東京市及接続郡部地籍地図」があるのを、他の調べものの折に見つけました。その、豊多摩49図「澁谷町大字中澁谷字大和田下」が、明治末期のタマデン澁谷停留場周辺の地図にあたります。



鉄道線が横方向に3条描かれていますが、一番上(西)がタマデン。その下が省線の山手線、一番下が東京市電。その下が渋谷川で、右端に暗渠化される前の支流の宇田川が描かれている。
道玄坂南の専用軌道を下ってきた線路が、大きく右に90度近く曲がった先に旅客用の停留場があり、さらにその先に続く線路が180度曲がった先に砂利の積み下ろし場があったらしいことがわかります。



また、以下のサイトで確認できるとおり、砂利の積み下ろし場はまさに現在のハチ公前広場周辺である。当時の渋谷駅は現在よりも恵比寿駅寄りであったが、その後1920年にほぼ現在の位置に移転している。

三井トラスト不動産 「渋谷駅」と乗り入れ路線の変化
https://smtrc.jp/town-archives/city/shibuya/p09.html



この地図は1911年頃を描いたものだが、その後、1923年には市電青山線の停留場が現在の「ハチ公前広場」の位置まで延伸し玉電に接続され、多摩川からの砂利輸送が便利になったとのことだ。

1885年の渋谷駅開業当初、このあたりは田畑と武家屋敷が点在する閑静な土地で、砂利積み下ろし場が設置されたことに違和感はない。その後1923年の関東大震災の後に比較的被害が少なかったこの地に多くの商人が移り住み、その後も最先端の街となった。100年前は砂利が運ばれれて積み下ろしを行っていたということを頭に入れて、現在も進む渋谷駅の劇的な変化を見守っていこう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





以前このブログで、1862年に刊行された日本で最初の日本語の新聞である『官板バタビヤ新聞』を紹介した。同紙はオランダ政庁が贈ったバタビヤ(現在のジャカルタ)で発行された新聞(バタビヤを支配していたオランダ政府の機関紙)を、幕府の学者が翻訳・編集したもので、オランダ国内および国際ニュースが主な内容であった。

その後明治となりになり、翻訳でなく日本人の手で新聞が創作された。1868年(明治元年)に京都で明治新政府の官報として『太政官日誌』が、江戸で柳川春三などにより『中外新聞』が発行された。

早稲田大学 幕末・明治のメディア展 第1部 第3章 黎明期の新聞
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/bakumei/13/

期せずして東西で同時に『太政官日誌』『中外新聞』が発行されたことは、いうまでもなく、恭順か佐幕かという当時の国論分裂の様相を反映したものだといえる。国内に政治的対立がある場合、世論を自派へ誘導するひとつの武器として新聞紙の機能が重視されたのは当然であった。党派的感情があればこそ、ニュースに対する欲望がわくので、よくいわれる「新聞は読者が作る」という不変の事実も、この時から現れているのである。
明治新政府が成立するや、佐幕、尊皇の言論戦も新政府が厳重な取締令を発したので、佐幕派新聞は続々と廃刊を余儀なくされた。新政府の倒幕事業は一応完成したが、東京と名の改まった市内は社会不安がつのり、物情騒然たるものがあった。さきに厳しい新聞取締令を出した新政府も、単に治安維持のみでなく、基礎的政治様式確立の手段としても、新聞の必要なることを痛感し、明治二年「新聞紙印行条例」を公布してはじめて正式に新聞の発行を認めた。これは実に日本における最初の新聞紙法ともいうべきものである。かくして幾多の新聞が復活、創刊された。





このように多くの新聞が発行されるようになった。1870年には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊され、1872年には『東京日日新聞』(現在の毎日新聞) や『郵便報知新聞』(現在のスポーツ報知の前身) などが創刊された。



明治政府は新聞の普及が国民の啓蒙に役立つという認識から、新聞を積極的に保護する政策を取り、日本各地に無料の新聞縦覧所や新聞を人々に読み聞かせる新聞解話会を設置するなど各新聞社を支援した。
しかし、1874年の民撰議院設立建白書の提出を機会に自由民権運動が盛んになると、政治権力の保護を受けて政策や方針を擁護・宣伝する立場を採る"御用新聞"よりも、民権派の勢力が強くなり政府に批判的な論調が目立つようになった。そのため明治政府は1875年に新聞紙条例、讒謗律を制定して新聞の言論弾圧に乗り出した。
このわずか5年程度の流れをみると、明治初期は様々な大きな変化が次々と起こったことを改めて認識する。

さて、この頃の新聞は「大新聞」(おおしんぶん) と「小新聞」(こしんぶん) に分類されていた。

大新聞と小新聞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%A8%E5%B0%8F%E6%96%B0%E8%81%9E

大新聞と小新聞は、明治時代初期(1870年代 - 1880年代)に行われた、新聞の二大別。知識階級を対象に政論を主体としたものを「大新聞」、庶民向けに娯楽記事を主体としたものを「小新聞」と呼んだ。
京浜地区で政論を主張する知識階級向け新聞には、『横浜毎日新聞』『東京日日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』『東京曙新聞』などがあったが、庶民向けの娯楽新聞も『読売新聞』『平仮名東京絵入新聞』『仮名読新聞』など続々と現れた。そして1875年末頃からそれ等に「小新聞」と言う名が付いた。政論の新聞の方は「大新聞」である。京阪地区の小新聞には、『浪花新聞』『朝日新聞』などがあった。
両者の相違は主に次のとおり。
 一面の寸法は、大新聞がブランケット判(405×546mm)で、小新聞はその半分のタブロイド判(273×406mm)。
 文章は、大新聞が漢文口調で、小新聞は総ルビの口語体。
 大新聞は政治・政論・国際関係の記事が主で、小新聞は巷の出来事・演芸・読み物の記事が主で、挿絵入り。
 値段は小新聞が大新聞の半分以下。
安くて肩の凝らない方が好まれ、1876年の時点で、小新聞の読売は大新聞の東京日日の1.5倍を売り、両者の差は年と共に広がった。
また大新聞では政党機関紙的な派閥ができ、読者そっちのけで大新聞同士が議論、中傷して世を白けさせ、部数を減らした。一方で小新聞の側では、読売と朝日が既に1879年からルビ付きの論説欄を設け、それが他紙にも広まった。
その後大新聞も小新聞的記事を載せるようになり、小新聞も社会状況に遅れないよう論説などの記事を充実させたため、両者は次第に近付き呼び分けも消滅した。

これは明治政府の新聞の普及支援政策と、その後の国民への浸透という点で極めて自然な流れであろう。どの時代も人々は易しい方に流れる。
1886年には読売新聞が小説欄を設置し、それ以降尾崎紅葉の「金色夜叉」や夏目漱石の「心」など数々の名作が新聞小説から生まれている。文化的な要素を含めて社会で新聞が確立するようになったと言えるだろう。

そして、次に人々はより世俗的なネタを好むようになる。1892年に日本初のゴシップ紙ともいうべき『萬朝報』(よろずちょうほう) が創刊された。

萬朝報
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E6%9C%9D%E5%A0%B1

1892年11月1日、黒岩涙香の手により東京で創刊される。紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。万朝報と新字体で表記されることもある。
黒岩は日本におけるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルについて執拗なまでに追及。「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した。天皇皇族にはさすがに触れなかったものの権力者や華族のみならず今なら一般人とみなされるであろう商店主や官吏の妾をも暴露し、妾の実名年齢や妾の父親の実名職業まで記載していた(当時はプライバシーにはそれほどうるさくなく「俺の妾をなぜ載せない」という苦情もあったという)。一時淡紅色の用紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれた。また第三面に扇情的な社会記事を取り上げた事で「三面記事」の語を生んだ。
「永世無休」を掲げ、「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」をモットーとし、低価格による販売と黒岩自身による翻案小説の連載、家庭欄(百人一首かるたや連珠(五目並べ)を流行らせた)や英文欄の創設等で大衆紙として急速に発展。1899年に発行部数が東京の新聞中第1位に達した。
1901年に「理想団」を結成。労働問題や女性問題を通じ社会主義思想から社会改良を謳って日清戦争時の世論形成をリードした。しかしその後、主たる購買者であった労働者層をめぐって『二六新報』と激しい販売競争を展開。日露戦争開戦の折、最初は非戦論を唱えていたものの、世間の流れが開戦に傾くにつれ、社論を主戦論に転じ黒岩自体も主戦論者となった。このため、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社。これを機に次第に社業は傾き、黒岩の死後は凋落の一途を辿った。


古書の森日記 by Hisako 明治38年の「萬朝報」
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/25680226.html

「蓄妾実例」では、総理大臣の伊藤博文や、森鴎外、勝海舟などもスキャンダルを暴露されている。
その黒岩涙香 (1862~1920年) は、土佐出身で藩校文武館で漢籍を学び、その後英語力を身につけた。自由民権運動に携わり官吏侮辱罪により有罪の判決を受けたこともある。後に新聞記者として活躍する傍らで、翻案小説に取り組むようになる。『今日新聞』に連載した翻案小説『法廷の美人』がヒットして、たちまち翻案小説スターとなった。偶然だが先月紹介したジュール・ヴェルヌの 「Le Voyage dans la lune」を、1883年に「月世界旅行」として翻案している。



上記のとおり「赤新聞」という言葉は『萬朝報』の紙の色に起因するものだが、いわゆる「イエロー・ジャーナリズム」とほぼ一致する。

イエロー・ジャーナリズム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

イエロー・ジャーナリズム(Yellow Journalism)とは、新聞の発行部数等を伸ばすために、事実報道よりも扇情的である事を売り物とする形態のジャーナリズムのこと。
1890年代に『ニューヨーク・ワールド』紙と『ニューヨーク・ジャーナル・アメリカン』紙が、漫画「イエロー・キッド」を奪い合って載せた事に由来する。共に
扇情的な通俗記事や娯楽記事の掲載で『ニューヨーク・ワールド』紙の部数を飛躍的に伸ばしたことを見て、ウィリアム・ランドルフ・ハーストも同種の『ニューヨーク・ジャーナル・アメリカン』紙の発行を始めた。ジャーナル紙はワールド紙の半額で、よりセンセーショナルな記事を満載して部数を伸ばした。両紙による読者獲得のための熾烈な競争が始まり、1896年にハーストはワールド紙のスタッフをごっそり引き抜いた。ワールド紙日曜版の人気漫画イエロー・キッドの作者も引き抜き、臆面もなくジャーナル紙でイエロー・キッドを連載させた。ワールド紙も別の漫画家を雇いイエロー・キッドの連載を続けて対抗した。このことから、両紙は「イエロー・キッド新聞」と揶揄され、ここからイエロー・ジャーナリズムという言葉が生まれた。


まだ歴史の浅い日本の新聞が、アメリカのジャーナリズムとほぼ同時期に同じような動きを見せたことは、良し悪しはともかくとして特筆すべきことだろう。
現在の各国のメディアを見ても大同小異であり、結局古今東西問わず人々が興味を持つネタは変わらないようだ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





東京のJR中央線と新宿通りが交差するJR四ッ谷駅前に「四谷見附橋」がかかっている。東京の中心ともいうべきところだ。
現在の四谷見附橋は1991年10月に完成したもので、その際に四ッ谷駅舎の改築、駅前広場の整備も行われたため、駅付近の様子は大きく変わった。
初代の四谷見附橋は1913年9月に架設したが、東宮御所 (現迎賓館) の近くであったため、橋の装飾にフランス式手法を採用するなど豪華な橋であった。街灯や手すりの一部が再利用されているなど、現在の橋もその概観を踏襲している。



カクヨム 31 四谷見附橋 迎賓館と調和させた橋
https://kakuyomu.jp/works/1177354054880634829/episodes/1177354054881065429

旧四谷見附橋は、1911年3月に着工し1913年10月に開通した。橋のデザインは、この地点から南にある迎賓館(当時の赤坂離宮)の外観と調和させたネオ・バロック様式となっている。この橋の高欄の上方に並んだ鉾は迎賓館の正門の柵垣の縦格子がモチーフになっている。また、高欄の中央にある装飾の鏡と花綱は、迎賓館の朝日の間の装飾に同じものが見られるという。さらに橋の高欄の中央部にある橋銘板は、迎賓館の花鳥の間の扉の上部を模したものと言われている。
明治維新になると、日本は『御雇外国人』による近代化を推し進めるが、『旧四谷見附橋』は日本人の力で欧米の首都などにある構造物に負けない素晴らしい橋が架けられることを世界に示した歴史的価値のあるものである。
1950年戦災復興都市計画事業により、新宿通りが幅員25mから40mへと拡幅することが決定した。しかし、旧四谷見附橋は昔の道幅にあわせてかけられていることから、幅員は22mしかなかった。
1974年に四谷見附橋の架け替えが決まると、地元住民や有識者による保存の要求が高まる。近世橋梁技術の貴重な交通遺産としてその文化的価値は高く、また鉄製のアーチ橋としては日本最古のものともいわれていた。
東京都は高まる保存の要求を受けて綿密な調査を行った結果、長年使用されてきたにもかかわらず、腐食や変形が少なく、更なる長期間の使用にも耐えられるとの結果を得た。その結果を受けて、保存方法について東京都は土木学会に委託して検討した結果、多摩ニュータウンの開発の中で、長池地区に復元することが決まる。


川田技法 Vo. 13 1994年1月 四谷見附橋の移設工事
http://www.kawada.co.jp/technology/gihou/pdf/vol13/13_ronbun06-1.pdf

このように (旧) 四谷見附橋は、1996年に東京八王子士の多摩ニュータウンに「長池見附橋」として移設された。橋台や親柱・欄干などは復元であるが、ほぼ以前の姿に再現されており、長池公園のシンボル的存在になっている。(「見附」という言葉は街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所(見附)などに由来したものなので、公園の川に架かる橋を見附橋と称することに違和感はあるが)



四谷見附橋は、文化的な価値の高い橋梁を移設して再利用・展示保存しているひとつの例だが、橋梁の移設は決して珍しくなく、昔から様々な目的で行われている。
以下の金沢大学大学院・梶川教授の論文では、移設橋梁として全国の88事例 (!) が挙げられている。

土木学会 鋼橋移設、既存ストックの有効活用
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/committee/steel_structure/book/55132/55132-0015.pdf

この中には長距離を移設した橋もある。顕著な例として、福岡県の矢部川橋梁から移設された、福島県会津若松市河東町と喜多方市塩川町に跨る日橋川に架かる「切立橋 (きったてばし)」を挙げる。(梶川論文にある長野県・万古川橋梁は北海道・天塩川橋梁と同時期の建設で移設ではないようだ)

産業技術遺産探訪~切立橋
http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2003/kittatebashi/kittatebashi.htm

経済産業省近代化産業遺産
この橋は1921年、「東京電灯株式會社 (現在の東京電力株式会社) 猪苗代第四発電所」の建設時に資材輸送用軌道を布設 (磐越西線・広田駅から猪苗代第四発電所の区間) した際に日橋川に架橋されたものです。
もともとこの橋梁は1890年に当時の橋梁技術の分野では先進国であったドイツで製作され、1891年に「九州鉄道 (現在のJR九州) 鹿児島本線・船小屋駅~瀬高駅間」の矢部川に架橋されていたものですが、大正時代になって列車重量が増加したためにプレハブ橋梁では耐荷重不足となり、荷重に耐えられる新しい橋梁に架け替えられた際に取り外された橋梁です。
会津地方の電源開発が進む中で、当時、「猪苗代水力電気株式會社」(東京電灯株式會社の前身) の社長であった仙石貢は、かつて「九州鉄道」の社長であり、この橋梁も九州から福島県の会津に運ばれて1921年に転用されました。猪苗代第四発電所の建設中は資材運搬用の鉄道橋梁として使われていましたが、発電所が完成した後は発電所の保守・点検用の道路橋となり、現在では一般道の橋梁として使用されながら保存されています。
当時、この型式のプレハブ橋梁はドイツから日本に11橋輸入されましたが、現存する橋梁は、この「切立橋」を含めてわずか2橋 (注:もう1橋は栃木県の古川橋) となり、歴史的建造物として大変貴重な産業技術遺産です。


この切立橋のように、かつては鉄道主要幹線の機関車荷重増加に伴って橋梁の増強が必要になる一方でローカル線建設による転用の事例が多かったようだ。他にも道路橋・歩道橋・展示保存などで、初建設から長い年月を経ても現役使用や展示されているのは嬉しい限りだ。
鉄鋼や金属資源が限られていたという時代背景もあると思うが、100年以上の昔から転用・リサイクルがされている日本の土木建築技術の高さには改めて感心させられる。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





いろいろなものの歴史を調べると、短期間のうちに革新的に技術が進化するケースに遭遇することがある。

ライト兄弟がライトフライヤー号で人類初の飛行 (具体的には最初の継続的に操縦を行った、空気より重い機体での動力飛行) を行ったのは1903年12月17日だったが、この後欧米で飛行機はより速くより高くより遠くへ飛べるよう改良が行われた。この中で特筆すべきは、フランスのアンリ・ファルマンによって1909年に設計・製作されたファルマンIIIである。

ファルマンIII
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3_III

フランスのアンリ・ファルマンによって1909年に設計・製作されたファルマンIIIは、初めて実用的に補助翼を導入し、降着装置に車輪を取付けた最初の飛行機であったとされており、航空史上、および飛行機のデザインの変容の歴史上において、その後の方向性を決定付けた重要な型の一つとして高く評価されている。1909年中にアンリ・ファルマン自身が当時の長距離飛行・航続時間の世界記録を2度更新するなど、数々の競技会に出場し記録を樹立した。
その影響で、当時ファルマン社には、イギリス・ドイツ・デンマーク・日本・ベルギーなど国外からの注文や視察・買い付けなども殺到し始めた。特に1910年型のファルマンIIIは合計130機が生産され、うち75機はフランス国外に販売された。




1910年、臨時軍用気球研究会の委員であった日野熊蔵(当時31歳、陸軍歩兵大尉)と、徳川好敏(27歳、同気球隊付工兵大尉)は、機体の選定・買い付けと操縦技術習得のためフランス・ドイツに派遣された。両大尉は新橋から4月11日に出発、シベリア鉄道経由でパリに渡った。5月末、アンリ・ファルマン飛行学校3校目のエタンプ校が開校し、両大尉は各国 (フランス、ロシア、イギリス、ドイツ、イタリア、ポーランドなど)から派遣された飛行学生ら計10数名と共に学んだ。徳川大尉は8月8日に初めての単独飛行に成功し、その後8月25日に日本からの発注で製作されたばかりの機体で免許試験に臨んで飛行を成功させ、飛行機操縦者免許状を取得した。その後機体は分解・梱包され9月15日にフランスから日本へ向かう「安藝丸」に積載の上で船便で日本に送られた。

尚、日野熊蔵は7月25日に単身ドイツに移動し、ヨハネスタール飛行場で操縦技術を学びグラーデ単葉機を購入した。
グラーデ単葉機はドイツのハンス・グラーデが製作した飛行機で、24馬力のエンジンの小型機であり、ファルマン機 (50馬力) と比べると、大きさ・重量ともに小さい。



日野熊蔵と徳川好敏はパリで落ち合った上で10月25日に帰国した。その後ファルマン機・グラーテ機ともには東京・中野の気球連隊に運んで組み立てられた。ファルマン機の輸送には牛4頭と50人を動員して丸4日間かかったと言われている。

しかし当時日本にはまだ両機を飛ばすための飛行場が存在していなかった。そこで大日本帝国陸軍の代々木練兵場 (現在の代々木公園よりも広く、現在の渋谷区神南にあるNHK放送センターから、同・宇田川町の渋谷区役所・渋谷公会堂周辺一帯までに及んでいた) が整地して使用された。 

ファルマンIII 代々木錬兵場での初飛行
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3_III#.E4.BB.A3.E3.80.85.E6.9C.A8.E9.8C.AC.E5.85.B5.E5.A0.B4.E3.81.A7.E3.81.AE.E5.88.9D.E9.A3.9B.E8.A1.8C

1910年12月、代々木錬兵場の一角に2基の天幕式格納庫が設置され、ファルマン、グラーデ両機が中野気球連隊から運び込まれた。主催者の臨時軍用気球研究会は公開飛行試験の日程を新聞などに公表した。当時、多くの一般の日本人にとって、飛行機が空を飛ぶということはまだ信じ難い出来事だった。飛行実施日は同月15日と16日、また当日が悪天候になった時のため17日・18日は予備日とされ、19日・20日には撤収や輸送が完了するという予定だった。このため15日から19日にかけての5日間で約50万人の観衆が集まり、会場の周囲には屋台なども出店する賑わいとなった。

結果的に公式な記録として、日本における初の動力飛行の日付、すなわち日本で初めて飛行機が飛んだ日は、1910年12月19日とされている。この日、代々木錬兵場において、徳川好敏大尉がフランス製の当ファルマンIII型複葉機を操縦し、日野熊蔵大尉がドイツ製のグラーデII型単葉機を操縦し、日本初の公式動力飛行に成功した。これを記念して12月19日は「日本初飛行の日」とされている。


日野熊蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E7%86%8A%E8%94%B5

12月14日、代々木錬兵場において滑走試験中の日野は飛行に成功し、これが日本史上の初飛行とされる。しかし、飛行機研究の第一人者として、また当時数少ない実際の航空機の飛行を見たことがある人物であったため、事実上の現場責任者として間近で注視していた田中館愛橘博士や、操縦していた日野自身も、初飛行であることを認める発言はしていない。さらに、初飛行の根拠となっている距離については、唯一「初飛行」と報じた萬朝報の記者が60mと報じたがあくまで目測でしかなく、取材していた他9紙は距離を記載しておらず初飛行とは報じていない。また、「飛行」とは翼の揚力が機体の重量を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態を指すため、「飛行」ではなく「ジャンプ」であるとして、航空力学的にも初飛行とは言えないとする意見もある。

19日には“公式の、初飛行を目的とした記録会”が行われ、日野・徳川の両方が成功した。これが改めて動力機初飛行として公式に認められた。事前の報道においては、当時天才発明家などと報道されていた日野の方が派手な言動も相まって遥かに有名人であり、新聞記者も徳川には直前までほとんど取材活動をしていなかった。しかし徳川、日野の順に飛んだため、“アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行”ということにされてしまった。これは、徳川家の血筋でありながら没落していた清水徳川家の徳川好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍および華族関係者の意向・圧力だったとする説がある。しかし、たとえ名家の出身であっても陸軍の方針として軍内部での扱いは平民と同じであることが原則だったため、この批判は適切ではないとする意見もある。ただし、その後徳川は後述の通り陸軍内部で厚遇され、逆に日野は冷遇されたのは事実である。
ともあれ、日野の記録は抹消され、12月19日の徳川の飛行をもって「日本初飛行の日」とされている。


まぁいろいろな事情や評価があるが、日野熊蔵大尉と徳川好敏大尉ともに功績は受け継がれており、現在代々木公園には、プレート型の標識「日本初飛行の地」と、その側に左右に大きく翼をひろげた鳥の形にデザインされた石碑「日本航空発始之地記念碑」が、さらにその前方に両名の像が建っている。



さて、日野・徳川の初飛行には間に合わなかったものの、日本初の飛行場である所沢陸軍飛行場が1911年4月1日に開設された。同飛行場での初飛行は4月5日に行われ、ファルマン機は800mの距離を高度約10mで1分20秒間飛行したと記録されている。さらに6月3日、徳川大尉の操縦で後席に山瀬中尉が同乗し、所沢-川越間の30.03kmを高度150m程で32分45秒で飛行した。これが日本国内初の都市間野外飛行とされている。



しかし、開設当初の所沢飛行場には当機をはじめ全4機の輸入機しかなかった。そのため、頻繁に練習が始まるとこの4機は酷使されすぐに飛行機が不足した。そこで1911年10月にはファルマン機を元に国内で会式一号飛行機が製作された。この機体は軍用機としては、初の国産飛行機とされている。

会式一号機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E5%BC%8F%E4%B8%80%E5%8F%B7%E6%A9%9F

会式一号機の「会」とは「臨時軍用気球研究会」のことで、1909年7月30日付の勅令により、気球と飛行機の軍事利用の研究のため 当時の陸軍・帝国大学・中央気象台のメンバーらにより設立された 国内最初の航空機に関する公的機関である。
前述の日本初飛行の公式記録を持つフランス製1910年式アンリ・ファルマン複葉機を参考に設計されたが、ここまで同機を何度も操縦していた徳川大尉によって翼断面の形状・面積の変更と、各部を流線形にして空気抵抗を減らすことなど幾つかの変更が加えられ、機体の強度と上昇力・速度の向上が図られることとなった。 材料などは全て国内で調達されたものの、当時の日本の工業水準はまだ低く充分な加工機材も無かったため製作は主に鋸等による手作業で進められた。
製作は同1911年7月より所沢飛行場の格納庫内で開始され、10月初め頃に完成、 10月13日に大尉自らの操縦によりテスト飛行が行われ、高度50mで 時速72km/h,(最高高度は85m)と良好な成績を記録し、操縦性もファルマン機より高く評価された。
設計・製作段階から徳川大尉の功績が大きかったため、当時一般には "徳川式"と呼ばれ、その後は主に操縦訓練や空中偵察の教育などの目的で使用された。




さて、ここまでだと欧米で発明された新製品を日本も国家・軍としていち早く取り入れて、また改良を加えたという流れになるが、並行して民間でも飛行機の開発が進められていた。そして奈良原三次 (1877 - 1944) による「奈良原式2号飛行機」が、独自設計の国産飛行機として上記の会式一号機より先に飛行している。

奈良原三次
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%8E%9F%E4%B8%89%E6%AC%A1

奈良原三次 (1877 - 1944) は、東京帝国大学工学部造兵科を卒業して海軍少技士に任官し、飛行機の研究をはじめ、臨時軍用気球研究会の委員に任じられていた。1910年に自費で機体に丸竹を用い「奈良原式1号飛行機」を製作するが、エンジンの出力不足などもあり離陸できなかった。翌1911年、私有のエンジンを搭載して「奈良原式2号飛行機」を製作、5月5日に所沢飛行場にて自らの操縦で高度約4m、距離約60mの飛行に成功した。
1912年5月、千葉県の稲毛海岸に民間飛行場を開き、民間パイロットを養成し、その後日本軽飛行機倶楽部の会長に就任し、以降も後進の指導・育成にあたり、またグライダーの発達・普及などにも尽力した。




このように1910年から1911年の僅か1年程度の期間に、日本の飛行機そして航空事情は劇的な進化を遂げた。これは当時の世界情勢の下では必然と捉えることができる。
世界中で初飛行、飛行時間更新、大陸横断飛行などを競う一方で、航空機は直ちに戦争に用いられた。1911年10月には相手軍の位置を偵察するための飛行、1913年にはメキシコ革命において初の爆撃がされた。そして1914年に第一次世界大戦がはじまると、日本陸軍によって青島のドイツ軍要塞爆撃が行われた。

この時代ならではのニーズがあったことは間違いないが、日野熊蔵、徳川好敏、奈良原三次らの熱意によって、発明間もない飛行機で日本が極めて短期間に欧米と同等或いはそれ以上の技術を擁することとなったことは記憶しておきたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





以前このブログで日本でのテレビ放送の開始とテレビの特性を活かした番組の誕生について調べたことがある。(ジェスチャーと幸福の起伏)
今度は更に時間をさかのぼって、ラジオ放送の開始について調べてみよう。

世界で初めてラジオ放送を実現したのは、元エジソンの会社の技師だったカナダ生まれの電気技術者レジナルド・フェッセンデン (Reginald Aubrey Fessenden、1866-1932) で、1900年に通信テストに成功し、その後改良を経て1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセッツ州の自身の無線局から自らのクリスマスの挨拶をラジオ放送した。音楽を演奏したり、聖書を朗読したりしたそうだ。なかなか粋だ。
このように世界最初のラジオ放送はクリスマス放送であり、フェッセンデンは世界最初のラジオアナウンサーだったこととなる。



その後も試験的な放送が世界各地で行われ、1920年11月2日にアメリカ・ピッツバーグのKDKA局が初めて正式な公共放送を行った。

日本でも、1922年6月に東京朝日新聞がラジオ送受信実験を行うなどの準備期間を経て、1925年3月22日 9:30に社団法人東京放送局が東京・芝浦の東京高等工芸学校内に設けた仮送信所から最初の放送を行った。第一声は「アーアー、聞こえますか。……JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します。」だった。 この模様はその後再現されている。当時のラジオは鉱石ラジオであり、人々はレシーバーを耳にあてて放送を耳にしていた。

NHK名作選 みのがしなつかし ラジオ放送開始
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060001_00000

時代は大正時代末期で、日本の総人口は6000万人となり、大都市の人口が大きく増加した。その中で1日100万部を発行する新聞や、雑誌の創刊が相次ぎ、また無声映画とレコードを中心に大衆文化が盛り上がっていた。その中で人々に同時大量に素早く情報を伝えるメディアとしてラジオが登場した。
1923年の関東大震災の際には正しい情報が伝わらなかったこともあり、ラジオへの期待は大きかった。

日本ラジオ博物館 ラジオ放送開始から1928年まで
http://www.japanradiomuseum.jp/meseum1.html

1925年3月22日、東京、芝浦の仮放送所からラジオの試験放送が開始され、日本のラジオ放送の歴史が始まった。同年6月1日からに大阪が仮放送を開始、7月12日には東京放送局が愛宕山に移り本放送を開始、7月15日に名古屋が本放送を開始した。都市部のみのサービスエリアであったが、本格的にラジオ放送が始まったのである。このときの受信契約者はわずか5,455にすぎなかったが、1926年には聴取者数は39万に激増した。
ラジオは、無線電信法に定める「私設無線電話」の一つとして、逓信省の許可を受ける必要があった。初期の許可書に特徴的なのは、受信機の型式が明記されていることと、「相手放送無線電話」として、東京放送局が指定されていることである。逓信当局はラジオに対しても「無線局」として「無線機の型式」と「通信の相手方」を限定した厳格な許可を与える方針だった。実際には放送局が一つだったので大きな問題はないが、ラジオのダイヤルを動かすことは禁止されていたのである。

その後同年6月に大阪、7月に名古屋でも放送が開始された。これはもともと1924年に東京、名古屋、大阪の3地域で、公益法人として各1事業者ずつラジオ放送事業を許可する方針を打ち出したことによるもので、この東京・大阪・名古屋の放送局は1926年に「社団法人日本放送協会」として統合された。すなわちラジオ放送開始の時点ではまだNHKはなかったわけだ。

それでは当時実際に何が放送されていたかというと、ニュース、特に穀物などの相場の動きが多かったようだ。最初はラジオは金融関係者や商工業者にとって情報源という要素が大きかったようだ。一方で開局5ヵ月後には、聴取者の好みを番組に反映させるために葉書による娯楽番組の嗜好調査を実施され、邦楽、演劇、洋楽などが人気となった。



当時の娯楽番組からいくつかピックアップする。
放送開始から4ヵ月後の1925年7月12日から始まった「子供の時間」は毎週月曜日から土曜日の夕方に生で放送された子供向け情報番組で、当然だが日本で初めての子供向けの番組だ。当初は東京放送局のローカルで、また各放送局が独自に子供向け番組を放送していたが、1928年から全国放送になった。
童謡などの歌、童話などが放送され、また番組のテキストとして「月刊コドモのテキスト」が発行された。これはNHKらしい。

NHK名作選 みのがしなつかし 子供の時間(ラジオ)
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060002_00000

1932年6月からは、「子供の時間」の放送の後に「コドモの新聞」も毎日5分間放送された。これは大阪中央放送局が大阪ローカルの番組として放送された「コドモ日曜新聞」が前身で、時事・科学・スポーツなどのニュースから子供向けの話題を選び、分かり易く正しい言葉で放送していたが、好評だったことから、東京中央放送局より全国放送の形で放送開始する事になったものである。
「子供の時間」はその後、1941年に国民学校令の施行に伴い番組名を「少国民の時間」に変更した。終戦後も「仲よしクラブ」(1946-47)、「子供の時間 (第2期)」(1948-63)、「なかよしホール」(1963-66) と引き継がれている。

また1925年8月13日に放送された「炭鉱の中」は、日本で初めてのラジオドラマと言われている。(舞台中継をスタジオで再現した「桐一葉」(1925年7月12日) という考え方もあり)
局内に人材がいなかったてめ、日本初の新劇の常設劇場である築地小劇場の小山内薫 (おさないかおる) に依頼がされた。
炭鉱事故で真っ暗な坑道に閉じ込められた若い男女と1人の老人。極限状態での人間心理のもつれを「聴覚だけの世界」 で鮮やかに描き出した作品である、番組冒頭に「皆さん、電気を消してお聴きください」と呼びかけてドラマが始まる。爆発や水があふれる音など、スタジオで音響効果を作る日本の本格的ラジオドラマの誕生となった。

NHK名作選 みながしなつかし 炭鉱の中
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060004_00000



これ以来ラジオドラマは新劇が手掛けることになった。築地小劇場もその後演劇界に活躍する多くの人材を輩出した。
またラジオの音響効果が飛躍的に進歩を遂げ、またNHKはラジオドラマ専門の俳優を養成して、東京放送劇団を発足させ、これが声優の始まりとされている。

その後のテレビ、ゲーム、インターネットもそうだが、常にサービスの普及にはコンテンツの充実は不可避だ。ラジオの黎明期から全盛期まで支えた子供向け番組や、ラジオという限られた手段の中で表現を最大限に工夫して発展していったラジオドラマは、メディア史として押さえておきたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





日本の首都は東京だ、と解されている。しかし現在の法令で「首都」について直接的な表現で定めているものはない。
1868年に江戸が東京と改称され、元号が明治となり、天皇陛下が東京に入られた。そして1869年に政府が京都から東京に移された。これらは遷都ではなく「東京奠都 (とうきょうてんと)」と称される。
そして、例えば大正時代の東京奠都の研究においては、「東京の奠都は遷都にあらず」とされ、遷都の発表はなく、今日に至るまで都を東京に遷されたのではなく、東京は京都とともに並立して帝都の首都であることは明らかであるという主張がされている。



さて、東京奠都の位置づけの議論は置いておくとして、京都も東京もその歴史の中で一時的に首都を他の都市に移ったことがある。
京都に関しては、平安時代の1180年に一時的に平安京から福原京に首都が移っている。

福原京
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E4%BA%AC

福原京は、平安時代末期の治承4年 (1180年)、平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。
場所は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたり、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)に人工島の経が島うぃ築き整備拡張した港を見下ろす山麓に都を置くことが計画された。
平清盛は、高倉上皇と平家一門の反対を押し切って遷都を強行したが、それは宋との貿易拡大によって海洋国家の樹立を目指したためともいわれ、都市整備が進めば平氏政権による「福原幕府」のようなものになったとも言われる。のちに福原京の建造物群は源義仲によって全て焼き払われた。

1180年6月26日、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれた。そして平氏政権は福原に隣接する和田の地に「和田京」の造営を計画した。
当初平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、和田は平地が少なく手狭だったため、すぐにこの計画は行き詰まってしまった。そこで同じ摂津国の昆陽野(兵庫県伊丹市)、更には播磨国印南野(兵庫県加古川市)に新しい京を造営する話が持ち上がったが、どちらの話も立ち消えとなり、7月には福原をしばらく皇居とし、道路を開通させて親平氏派の一部の人々に限り宅地が与えられることになった。しかし当時幼い安徳天皇に代わり院政を行なっていた高倉上皇は平安京を放棄せず、福原には離宮を建て、内裏や八省は必要ないとした。これに対して清盛は、内裏は移建せず、11月の新嘗祭までに私的に皇居を造営し、2年後には八省などの役所もつくるという方針で構えた。
そして11月には皇居に似せて造られた清盛の私邸が天皇に提供され、12月5日から8日新嘗祭の五節のみが行なわれると、11日には京都への還幸となった。京都への還幸は源氏の挙兵に対応するため清盛が決断したといわれている。


神戸市文書館 福原遷都
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/fukuhara/fukuhara.html

このように、当時の安徳天皇の福原での居住は5か月程度であり、明らかな準備不足により福原京は未完に終わった。
歴史上における日本の首都は、天皇の居住地を都として定められており、その観点からは福原京はこの期間日本の首都だったこととなるが、一方で福原には行宮が置かれたのみで平安京が従来の首都機能を失った様子は特になく、福原は京都の機能を軍事・貿易面で補完する事実上の副都に留まった、とする主張もある。

尚、このように短期間かつ未完で終わったために福原京の詳細は不明なまま歴史に埋もれてしまった。
福原京の計画も海に沿って東西方向につくられる予定であったという説と、南北のつくられる予定であったという説がある。東西説の想定図は以下のとおりだ。



同様に天皇の居住地を都と考えるのであれば、日清戦争中の1894年(明治27年)9月15日から1895年(明治28年)5月30日は、広島市に置かれた広島大本営において、明治天皇が直接争の指揮をされており、この期間は日本の首都は広島だったと主張できることとなる。 
実際に1894年10月の第7回帝国議会は広島市で開催されるなど、立法・行政・軍の統括が東京から広島に移転しており、この時期は広島が一時的に首都機能を担っていた。



広島大本営
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6

広島大本営は、1894年に勃発した日清戦争の戦争指揮のために広島県広島市の広島城(現中区基町)内に設置された、大日本帝国軍の最高統帥機関である大本営である。
大本営は1893年5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された制度であり、日清戦争において初めて設置された。このときの大本営は1894年6月5日に東京の参謀本部内に設置され、同年8月1日に皇居内に移った。
その後、当時広島駅が東京を起点とする鉄道網の西端であったこと、また大型船が運用出来る宇品港(現広島港)が有ったことで、前線に向かう兵站基地となった広島市に移ることとなった。
9月13日に大本営が宮中からこの地に移転し、2日後の15日には戦争指揮のために明治天皇が移った。このため、行宮の役割も果たした。明治天皇は日清講和条約調印後の1895年5月30日までの227日間この地で指揮を執った後、東京に還幸した。大本営はその後も台湾の統治機構整備など戦後処理のために広島に留まり、1896年4月1日に大本営解散の詔勅によって解散した。
この時期、1894年10月に招集された第7回帝国議会は広島の広島臨時仮議事堂で開会された。国の立法・行政・軍事の最高機関が一時的とはいえ広島市に集積したことで、広島市は臨時の首都の機能を担った。これは明治維新以降、首都機能が東京から離れた唯一の事例である。

解散後に「大本営址」は文化財として保護され、国の史跡にも指定されたが、残念ながら原爆投下により建物は全て崩壊したしてしまった。現在では建物の基礎および礎石と、一部文字が消された碑石が残っているのみとなっている。

寄る辺ない旅 広島大本営跡
http://www.geocities.jp/skegfirst/hirosimadaihonnei.html

こちらも期間としては7ヵ月半と短いが、天皇陛下が住まわれただけでなく執務をされ、また国家の首都機能が移ったことは事実である。
これらの事例を遷都と考えるか否かについては当然のように様々な見解がある。長い歴史を有する日本では、首都をめぐって様々な史実があり一概に捉えることはできないことは確かなようだ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





現在の皇居の住所は「東京都千代田区千代田1番1号」だが、「千代田」は1967年4月1日に新設された町名でありその前は「一番(皇居内)」であった。そして遡ると皇居の住所は「東京府東京市麹町区宮城」となる。
皇居、そして皇居が所属した麹町区を中心に、東京の行政区分の変遷を見ていきたい。

明治維新を機に江戸が東京となったことは一般的に知られているが、もう少し詳しく見ると以下のような流れとなる。

東京都の歴史 明治維新から第二次世界大戦まで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

1867年11月9日 (慶応3年旧暦10月14日) の徳川慶喜による大政奉還と1868年1月3日 (慶応3年旧暦12月9日) の王政復古のクーデターによって江戸幕府が崩壊し、同年5月3日 (慶応4年(明治元年)旧暦4月11日)の江戸城開城によって江戸は新政府の支配下に入った。7月1日 (旧暦5月12日)、新政府は江戸府を設置し、9月3日 (旧暦7月17日) に江戸が東亰 (後に東京) と改称されると、江戸府も東京府と改称された。1869年に明治天皇が皇居に入ると、東京は近代日本の事実上の首都となった。

このように2ヵ月のみの江戸府を経て"東亰"府が誕生した。これは「とうけいふ」と称されていた。「亰」の字は「京」の異体字だが、当時は「京」ではなく「亰」の字を用いることも一般的だったようだ。

尚、廃藩置県は1871年7月14日に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革だが、当初は藩をそのまま県に置き換えたため3府302県もあった。例えば現在の東京都足立区・葛飾区・江戸川区・荒川区(一部)は「小菅県 (こすげけん)」、現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区、その他多摩地区・埼玉県・神奈川県の一部は「品川県」だった。その後いずれも府県統合で東京府へと編入されている。

1878年7月22日に東京府は府下を区と郡に分け、府税収入の多い地域を選定して東京15区を設けた。そして1889年5月1日に東京府は府下に東京市を設け旧15区の区域をもって市域とした。東京市の市制は東京府知事および府書記官が市長を兼務しており、市役所も市職員も置かれなかった。その一方で15区はそれぞれ単独で区会(議会)を持ち、東京市の下位の自治体とされた。

東京府庁と東京市役所は合同庁舎であり、1894年に有楽町に建立されたドイツ・ルネサンス様式の鉄骨レンガ造2階建の建物である。この建物は戦災で焼失してしまった。その後東京都庁舎を経て、現在は東京国際フォーラムとなっている。



さて、東京15区は以下のとおりである。
 麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区



この中でも中心に位置するのは麹町区 (現在の千代田区の一部) である。区役所は隼町8番地 (現在の麹町一丁目、半蔵門交差点北西角側) に置かれていた。
そして皇居は「宮城 (きゅうじょう)」という町名であった。1888年以降「宮城」と称されており (皇居とは呼ばれていなかった)、それは1948年まで続いた。

さて、麹町区の時代に同区内には主に以下が開設された。
 1881年 明治法律学校 (現在の明治大学の前身)
 1890年 和仏法律学校(現在の法政大学の前身)
 1900年 女子英学塾(現在の津田塾大学の前身)
 1903年 日比谷公園
 1911年 帝国劇場
 1913年 上智大学
 1914年 東京駅
 1929年 総理大臣官邸
 1936年 国会議事堂
また1932年の五・一五事件、1936年の二・二六事件も舞台は麹町区であった。

1932年に近隣の5郡82町村を編入して新たに20区を置き東京は全体で35区となった。いわゆる大東京市である。それまでの15区を旧市域、新たな20区を新市域といって区別することもあった。
また1943年7月1日に東京都制が施行され、地方自治体としての東京市と東京府は廃止されて東京都が設置された。東京市役所の機能は東京都庁に移された。旧東京市35区は従来どおり議会をもつ自治体としての性格を保ちながらも東京都の直轄下の区とされた。これによって東京府東京市麹町区は東京都麹町区となった。

その後1946年12月27日に麹町区会および神田区会にて両区を統合し新区名を「千代田区」とすることが議決され、1947年3月15日に千代田区が誕生し、麹町区の歴史は幕を閉じた。東京全体も現在の23区に再編された。結果的に東京15区の名は、現在の23区の区名には全く引き継がれなかった。

尚、麹町区は多くの著名人を輩出している。今上天皇陛下や皇族の方々はもちろんだが、与謝野馨氏などの政治家も多い。また女優・歌手の越路吹雪氏、アナウンサーの露木茂氏なども、「麹町区」時代に出生している。
23区となって既に70年近くが経過しすっかり定着した感があるが、本来の地名を冠さない区名が多いことも事実である。行政区分の変更は時代に合わせて行われるべきものではあるが、地名はもっと大事にしなければならない。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





このブログでもこれまでにもいくつか例があるが、史上初の○○、最古の○○の特定はとても難しい。実際はより以前のものがあっても広く知られていなかったり、定義づけ、カテゴリー・区分などによっていろいろ変わってきたりする。今回もその一つで「日本で最初の鉄道」を取り上げたい。

もちろん「日本で最初の鉄道」といえば、1872年(明治5年)9月12日(旧暦、新暦だと10月14日) の、新橋駅 - 横浜駅間の正式開業を指すことが一般的で、10月14日は鉄道の日となっている。(実際にはその数か月前から仮営業が行われていた)
しかし、実際にはその何年か前から国内各地で「鉄道」は走っている。確認できる3つの事例を調べてみよう。

まず、日本の鉄道の発祥という点で考えれば、1865年(慶応元年) 4月12日に、長崎で貿易商のトーマス・グラバーが、長崎の居留地の海岸通りに約600メートル(諸説あり)のレールを敷き、上海の展示会で買った英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号を走らせたのが最初となる。
2両の客車に実際に人々を乗せ、黒い煙をはいて走ったそうで、集まった人々は大いに驚いたそうだ。
トーマス・グラバーは幕末に貿易商・武器商人として日本の近代化に貢献したが、鉄道も先んじて日本に紹介したわけである。

従って、日本の鉄道発祥の地となると長崎であり、実際に長崎市民病院の前には記念碑が建てられている。日本の鉄道の発祥は明治維新前だったことが興味深い。

発祥の地コレクション 我が国鉄道発祥の地
http://hamadayori.com/hass-col/transp/tetudo-nagasaki.htm



ただし、これはデモンストレーションであり、鉄道の運行とは言えない。
実際に運行した鉄道としては、1869年(明治2年) に開業した北海道・泊村の茅沼 (かやぬま) 炭鉱軌道を挙げることができる。

茅沼炭鉱軌道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%85%E6%B2%BC%E7%82%AD%E9%89%B1%E8%BB%8C%E9%81%93

1856年、茅沼にて偶然石炭が発見された。開港まもない箱館にとって、欧米の蒸気船用の石炭の確保は重要であった。直ちに箱館奉行所は茅沼にて石炭の調査を開始する。
箱館奉行所はアメリカ人技師を招き、茅沼炭鉱の採掘を開始した。そのような中、イギリス人技師エラスムス・ガウワーが、効率化のために鉄道(トロッコ)の建設を提案する。1866年には測量が開始され、建設が始まる。やがて建設は江戸幕府から明治政府に受け継がれ、1869年に開通する。
開業したのは、茅沼炭鉱坑口 - 茅沼港(積み出し港)の2.8km。鉄道とはいっても、仮設軌道やトロッコに近い。記録によれば、枕木は約150mm×150mm×1500mmの角材を用い、約900mm間隔で並べていた。レールは枕木と同じ寸法の角材に、補強用の幅15mmの鉄板を取り付けたものを使用していた。軌間は約1,050mm。
貨車は大型と小型のものがあった。茅沼炭鉱坑口から積み出し港までは緩やかな傾斜であることを利用し、茅沼炭鉱坑口→積み出し港は、貨車の重さを利用して坂を下らせた。制御のため、人が1名乗車していたという。積み出し港→茅沼炭鉱坑口は牛、馬の力、場合によっては人力で動かしたという。
1881年に整備工事によりレールが鉄製に置き換えられた。


その後、作業の効率化を図るために1931年に選炭場から岩内港までの約10kmに索道(ロープウェイ)が完成し、茅沼炭鉱軌道は廃止された。
しかし冬には海の湿気を含んだ風雪によって滑車やロープが凍結することが頻繁にあったため、1946年になって炭鉱に近い平野部の発足 (はつたり) に貨物駅を設けて岩内駅からの茅沼炭鉱専用鉄道が開業し、索道は廃止された。 (以下の写真は茅沼炭鉱専用鉄道)



その後1962年に茅沼炭鉱専用鉄道は廃止、茅沼炭鉱も1964年に閉山となった。
このように「日本最初の鉄道」の茅沼炭鉱軌道は、1931年に廃止されており、痕跡がほとんど残っていない。以下の探訪記はとても貴重なものだ。

日々のメモ帳 茅沼炭鉱軌道
http://futures.at.webry.info/201205/article_13.html

実際には茅沼炭鉱軌道は木製軌条のトロッコに近いもので、動力は牛、馬あるいは人であり、公共性がなく、旅客を運ぶものではない。 従って、茅沼炭鉱軌道を「日本最初の鉄道」と捉えるかどうかは、「鉄道」をどのように定義するかによる。

公共性があり旅客を運んだ馬車鉄道として、1871年(明治4年) に開通した大阪造幣寮馬車鉄道を挙げることができる。
なかなか記録がないが、以下の資料を参照しながら、簡潔にまとめてみたい。

なにわ ふくしま 資料館 中島陽二「幻の馬車鉄道の謎」『大阪春秋 第75号』1994.6
http://homepage3.nifty.com/osaka-web-museum/nakajima3.htm

桜の通り抜けで有名な、大阪市北区天満の造幣局 (当時は造幣寮) は1871年2月に創設されたが、その経営には西欧の新知識、新技術は不可欠であり、政府は英国人を中心に外国人技師を招聘し、一時は外国人が20名ほど任務についていた。彼らの多くは川口の外国人居留地 (現在の大阪市西区川口付近) に住んで造幣寮に通っていた。その交通手段、また造幣寮の資材の運搬手段として考えられたのが馬車鉄道である。この馬車鉄道は当初より計画され、1871年2月造幣寮創設後まもなく1871年9月に開通した。
当時一帯は田園地帯であり、その中を馬に曳かれた車に外国人が乗って走っていたということでたいへん話題になったようだ。町民が線路内に立ち入り、運転に支障をきたしたこともあるという。
しかし、翌1872年5月には「日々の往復を止め、用務のみにこれを使用すること」と、1年たらずでその実用性が問題となった。そして1873年に鉄道局 (鉄道寮) に編入され、1875年に敷地が大阪府に譲渡され馬車鉄道は短い使命を終えた。日本の国有鉄道に編入された鉄道の第1号でもある。

大阪造幣寮馬車鉄道が短命だったのは、造幣寮沿いを流れる大川は、古来から物資輸送の本流の川筋であり、この水運を考慮してこの地に同寮は設置されたにもかかわらず、
鉄道馬車が開設されたことに他ならない。全く実情にそぐわず、短命に終わる宿命であったといえよう。短命であったゆえに、この馬車鉄道が造幣寮からどこまで走っていたかについては明確でなく、諸説あるようだ。廃線後の1888年の大阪実測図で痕跡を見ることができるので、おおよそのイメージは可能で、大阪で中心部を横断する路線であったことがわかる。何らかの形でこの路線が全線引き継がれれば、大阪の地図は変わっていたことだろう。



このように、1872年の新橋 - 横浜の開業前にもいくつかの「鉄道」が走っていたことがわかる。それが東京でなく北海道や大阪であったことに、当時鉄道建設が国家的な注目を浴びていたことが推測できる。実際に京浜間と同時に工事が進められていた京阪神地区でも、1874年5月に大阪 - 神戸が開通し、1877年には京都まで延伸されており、その後鉄道網は全国に広まった。
その日本の鉄道史をより深く捉えるために、アイアン・デューク号、茅沼炭鉱軌道、大阪造幣寮馬車鉄道を記憶しておこう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





江戸時代の繁華街といえば両国だ。
1657年の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ10万人とも言われる死傷者を出したことを受けて防火・防災を目的として1659年に両国橋が架けられた。(1661年説もあり)
隅田川の水上交通と、武蔵と下総をつなぐ陸上交通の要所である両国橋界隈は、しばらくして江戸有数の繁華街となった。川の上は屋形船が行き来した。西側の橋詰はもともと火除地として広小路が設けられたが芝居小屋や水茶屋(喫茶店)が並んだ。この様子は江戸東京博物館の模型でも知ることができる。

江戸東京博物館 常設展示室について 両国橋西詰
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/permanent/6.html

一方で橋の東には明暦の大火の犠牲者を供養するための寺院として回向院が建てられた。しかし江戸随一の賑わいを見せる両国という土地柄から、回向院は次第に信仰と娯楽が併存する盛り場となった。神仏を特別に公開する御開帳には多くの人が訪れた。そしてもうひとつ回向院を盛況させたのは、歌舞伎と並んで江戸の人々に親しまれた娯楽の相撲である。
相撲 (寺社の建築、修繕などの募金を目的とした興行相撲で、勧進相撲と呼ばれた) は1648年にひとたび禁止されたが、その後1684年に解禁された。当初は江戸の各所で開催されていたものの、回向院で開催することが多く、後に定例となった。
従って、明治時代になった1909年に常設相撲場 (ここでは旧両国国技館と称する) がこの回向院の境内に建設されたことは自然な流れであった。1909年6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された。尚、「國技舘」の名称は5月29日に板垣退助を委員長とする常設館委員会で話し合われるも決まらず、開館式の前日の6月2日にようやく了承された。(そのため番付上は「常設館」となっていた)
枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、建物の内径は62m、中央の高さは25mで、「大鉄傘」の愛称で呼ばれた。



しかし旧両国国技館はたびたび焼失や、接収、売却と数奇な運命をたどる。この経緯をまとめてみよう。

両国国技館 旧両国国技館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%8A%80%E9%A4%A8#.E6.97.A7.E4.B8.A1.E5.9B.BD.E5.9B.BD.E6.8A.80.E9.A4.A8

【すみだの名所】国技館の歴史をたどる
http://welcome-sumida.jp/entry/2013_02_12_1598

まず1917年11月29日に、売店の火消壷からの出火による火災が発生して全焼した。(使用不能の間は、靖国神社境内に仮小屋を建てて興行実施)
新たに1920年1月に再建し、1920年9月に再建興業をしたが、1923年9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失した。



しかし再び建てなおして翌1924年の夏場所から興行を再開した。(再建中の1924年1月は名古屋で本場所開催)
その後1944年1月の春場所を最後として2月に大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用された。(このため5月場所は後楽園球場で開催され、7日目の日曜日は晴天に恵まれ8万人以上の大観衆で埋まった。11月にも同球場で秋場所が開催された) 

歴史@東京 風船爆弾と両国国技館
http://saffroncafeandbakery.com/11-%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE%E3%81%A8%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%8A%80%E9%A4%A8.html

そして、1945年3月10日、東京大空襲によりまたも焼失した。(同年春の本場所は6月に国技館で非公開で行われた)



敗戦後の1945年10月にGHQに接収され、1945年11月に焼け爛れたままの国技館で戦後初の本場所 (晴天での10日間興行) が開催された。
翌1946年9月24日に「メモリアルホール」として改称・改装された。改装後の1946年11月にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、プロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。従って1946年11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の相撲興行となった。
そのため、その後しばらく大相撲は明治神宮外苑相撲場、大阪市福島公園内に建築された仮設国技館、日本橋の浜町公園内に建設された仮設国技館などで開催された。



GHQの接収は1952年4月1日に解除され、日本相撲協会は再び国技館としての使用を検討したが、すでに蔵前国技館 (1949年竣工、翌年仮設のまま開館) の建築が始まっており、また駐車場の場所的な余裕が無いことから使用を断念して国際スタジアムに売却した。国際スタジアムでは、ローラースケートリンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。



さらに1958年6月に日本大学に譲渡され「日大講堂」となり、日本大学のイベント以外にもプロボクシングやプロレスリング、コンサートなど多くの興行に使用された。1968年から1969年にかけて全国で起こった全共闘運動のなかで、日大における闘争の舞台としても使用された。



日本大学マンドリンクラブOB会 両国 日本大学講堂
http://members2.jcom.home.ne.jp/numc-ob-hp/page337.html

老朽化のため1982年をもって使用中止となり、翌1983年に解体された。幾度かの再建や改修を経つつも解体されるまで「大鉄傘」の姿を堅持したままであり、相撲協会理事長を務めた武藏川は博物館明治村への移築も考えたようだが、あまりにも大きい建物であり、運ぶのは無理であったという。



解体後の跡地には住友、安田、東洋の各銀行が手に入れて、90年初めに両国シティコアという名前の複合ビル施設に生まれ変わった。キーテナントは劇場シアターΧであり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。その中庭には先代の国技館があった当時の土俵の位置がタイルの色で示されている。



ちなみに現在の両国国技館は、両国駅の北側の旧両国貨物駅跡地 (国鉄バス駐泊場) に1984年に建設されたものだが、ここは江戸時代まで遡ると蝦夷松前藩の下屋敷、あるいは御竹蔵 (資材の保管場所) だったようで、相撲とは直接的な関係はない。

すみだあれこれ すみだの大名屋敷
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/g-19.html
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/takegura.html

江戸時代から戦後まで約250年大相撲が行われた回向院に思いを馳せながら、現在の両国国技館で新しい相撲を観戦しよう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





T型フォードは、1908年に発売され以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、約1500万台が生産された。
自動車を庶民に普及させただけというだけでなく、基本構造の完成度も高く、またベルトコンベアによる流れ作業方式をはじめとする近代化されたマス・プロダクション手法を生産の全面に適用して製造された史上最初の自動車である。
フォードは生産する車を1種のみとし、余計な装飾を除き色も全ての車を黒色1色にして、大量生産を行った。更にベルトコンベアに車の材料を載せ、各場所に固定して配置された人員に、同じ作業を次々とさせることにより、作業の効率化を達成した。
この大量生産、大量消費を可能にした生産システムのモデルは「フォーディズム」と呼ばれ、資本主義の象徴の一つであり、社会学などでも言及されている。
このようにT型フォードは労働、経済、文化、政治などの各方面に計り知れない影響を及ぼし、単なる自動車としての存在を超越していた。

そして実際にT型フォードは自動車の枠を超えていたのである。

まず、T型フォードはバスに転用されている。東京で走った「円太郎バス」と呼ばれる乗合バスである。

円太郎バス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%83%90%E3%82%B9

1923年9月に東京一帯は関東大震災に見舞われ、交通網が寸断された。特に、市電網は壊滅的な被害を受け、復旧の見通しが立たなかった。市電を管理していた東京市電気局は、市電が復旧するまでの足としてバスの導入を決定。納期を早めるため、大量生産を行っていたフォード社のT型フォードに着目し、1000台(最終的に発注台数は800台)のエンジン付きシャシーを発注、バスのボディを別途国内で製造し、組み合わせる手法を採ることとした。こうして生まれたバスが円太郎バスである。わずか11人乗りの急造バスであるが、小さい車体は震災で寸断された市中を走り回るには好都合であったこともあり、市民の貴重な交通機関となった。
フォードの協力もあり、円太郎バスは震災後わずか4か月後の翌1924年1月から運行された。当初は2系統であったが、年末までに800両が揃い計20系統で運用された。
T型フォードのシャシーを流用したバスは腰高であり、シルエットが明治時代の乗合馬車に似通っていた。乗り心地も困ったことに馬車並みに酷かった。明治時代の乗合馬車は通称、円太郎馬車と呼ばれていた。それをもじって次第に円太郎バスと呼ばれるようになった。
急造とはいえ大量導入されたバスは、日本でも公共交通機関として十分に機能することを証明することとなり、後年、日本各地の都市で路線バスが運行される契機となった。こうした背景が評価され、後年、円太郎バスは交通博物館で保存されることとなった。また2008年機械遺産28番に認定された。


日本機械学会「機械遺産」  機械遺産 第28号 円太郎バス
http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_028.html

「円太郎バス」は1923年の関東大震災で被災した東京市内の路面電車の代替交通手段として、東京市電気局がアメリカ・フォード社から貨物自動車用シャシを緊急大量輸入し、これに木製車体(客室)を新製したものである。車体前方のガソリン機関から推進軸が床下後方に延びて後軸をウォームギアで駆動し、運転席床上には運転用足踏みペダルが三本取り付けられている。これらはフォードTT型独特の方式である。1924年1月18日に、中渋谷-東京駅前と巣鴨-東京駅前の最初の2路線が開業した。
  明治初期に、落語家の四代目橘(たちばな)家円太郎が、東京市内を走っていた乗合馬車の御者のラッパを吹いて演じたところ、“ラッパの円太郎”といわれて大いに受け、乗合馬車が「円太郎馬車」と呼ばれた。この乗合馬車とバスが形態面で類似していたことから、新聞記者が「円太郎バス」と名づけ、広く呼ばれるようになった。




関東大震災後の緊急的な1000台の発注に対し、フォードが即応できたのは800台に留まったとはいえ、これほど膨大な量のオーダーに即座に応じられる自動車メーカーは当時世界でフォード1社しかなかった。
尚、東京市の発注に商機をみたフォードは、1925年に日本法人を設立して横浜に組立工場を設立し、アメリカで生産された部品を輸入して組み立てるノックダウン生産を開始した。これによってモデルT・TTの完成車及びシャーシが日本市場に大量供給されたという。円太郎バスはフォードにとって、そして日本の自動車史においても大きな位置づけであったようだ。

さらにT型フォードは鉄道(レールバス)にもなってしまっている。
1910年代以降、自動車の動力伝達機構を鉄道車両に応用する動きが欧米で進み、日本でも1920年代に自動車用などのエンジンを搭載した小型気動車が製造されるようになった 。当初は「線路を走る自動車」を念頭に開発されたこともあり、輸入自動車・トラクターのエンジンを流用し、鉄道用の車体に取り付けた、文字通り「軌道自動車」と呼ぶべき物が多かった。これらは旅客輸送量の少ない地方鉄軌道において、製造コストが廉価で燃費も安い車両として導入が進んだ。
この典型的な例が、現在も数多くの鉄道車両製造を手掛ける日本車輌製造株式会社が1928年に製造した三重鉄道シハ31形気動車と言えるだろう。

三重鉄道シハ31形気動車
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%87%8D%E9%89%84%E9%81%93%E3%82%B7%E3%83%8F31%E5%BD%A2%E6%B0%97%E5%8B%95%E8%BB%8A

三重鉄道シハ31形気動車は、三重鉄道(現在の近鉄内部・八王子線の前身)が1928年3月に日本車輌製造本店で製造した、762mm軌間用の30人乗りガソリン動車である。
新造時は当時もっとも普及していた自動車であるT型フォードの動力装置をそのまま流用した。このためエンジンはフォードT (20hp/1,500rpm)、変速機も前進2段、後進1段で遊星ギアによる常時かみ合わせ方式を採る、独特の構造のフォード製トランスミッションがそのまま搭載された。
エンジンは台枠前部に装架されていたが、ラジエーターの取り付けの関係もあって自動車同様のボンネットが車体前面に突き出していた。
このフォードTエンジンは入手が容易で整備面でも有利であったものの、鉄道車両の動力源としては非力だったのと部品供給面で不安が出てきたため、1936年にフォードA(40hp/2,200rpm)に換装されている。
この形はシハ31 - シハ34の4台が製造され、ラッシュ時を除く三重鉄道の旅客サービスのほぼ全てを一手に引き受けるようになり、同時に列車運行本数の高頻度化を実現した。




見ての通り、シハ31形気動車は運転台方向への運転しかできない片運転台車である。そのため終端駅での方向転換が必要であり、デルタ線やループ線、あるいは転車台といった転向設備が設置されていた。蒸気動力で開業し、機関車を方向転換させる施設を備えていた鉄道事業者が大半だったので問題なかったようだが、新規開業する鉄軌道会社向けにはメーカー各社は車両と共に転車台も販売したという。欧米においては、単端式気動車を背中合わせに連結して方向転換を避ける運転方法も用いられたそうだ。

このような事例に、1910~20年代にどれだけT型フォードが世の中に様々な影響を及ぼしていたかを垣間見ることができる。「T型フォードの車を追い越すことはできない。追い越せば、その先はまたT型だ」と言われたが、それどころか鉄道を利用しようとしてもT型フォードが来るのだから驚いてしまう。

余談だが、近鉄内部・八王子線は現在でも当時のままの軌間762mmの特殊狭軌線である。(普通鉄道としては三岐鉄道北勢線、黒部峡谷鉄道本線と内部・八王子線だけ) しかし長年赤字が続きその存続が問題となり、近鉄は2012年に鉄路を廃止して跡地をバス専用道路にしてバスによる運用に転換する方針を示したが、四日市市側は鉄道の存続を強く望み、同市と近鉄が新会社「四日市あすなろう鉄道」を出資・設立し、公有民営方式で存続させることで合意した。
四日市あすなろう鉄道は2014年3月27日に新会社として設立され、2015年春から経営を担う予定だ。「あすなろう」という名前は、特殊狭軌「ナローゲージ」に由来しているそうで、洒落が効いている。
この記事を通じてT型フォードベースのシハ31形気動車が走った線路を引き継ぐ鉄道に対する個人的な関心が高まった。地元と調和しての永続的な経営を期待したい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »