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福原京と広島大本営
社会
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2016年07月31日
日本の首都は東京だ、と解されている。しかし現在の法令で「首都」について直接的な表現で定めているものはない。
1868年に江戸が東京と改称され、元号が明治となり、天皇陛下が東京に入られた。そして1869年に政府が京都から東京に移された。これらは遷都ではなく「東京奠都 (とうきょうてんと)」と称される。
そして、例えば大正時代の東京奠都の研究においては、「東京の奠都は遷都にあらず」とされ、遷都の発表はなく、今日に至るまで都を東京に遷されたのではなく、東京は京都とともに並立して帝都の首都であることは明らかであるという主張がされている。
さて、東京奠都の位置づけの議論は置いておくとして、京都も東京もその歴史の中で一時的に首都を他の都市に移ったことがある。
京都に関しては、平安時代の1180年に一時的に平安京から福原京に首都が移っている。
福原京
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E4%BA%AC
福原京は、平安時代末期の治承4年 (1180年)、平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。
場所は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたり、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)に人工島の経が島うぃ築き整備拡張した港を見下ろす山麓に都を置くことが計画された。
平清盛は、高倉上皇と平家一門の反対を押し切って遷都を強行したが、それは宋との貿易拡大によって海洋国家の樹立を目指したためともいわれ、都市整備が進めば平氏政権による「福原幕府」のようなものになったとも言われる。のちに福原京の建造物群は源義仲によって全て焼き払われた。
1180年6月26日、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれた。そして平氏政権は福原に隣接する和田の地に「和田京」の造営を計画した。
当初平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、和田は平地が少なく手狭だったため、すぐにこの計画は行き詰まってしまった。そこで同じ摂津国の昆陽野(兵庫県伊丹市)、更には播磨国印南野(兵庫県加古川市)に新しい京を造営する話が持ち上がったが、どちらの話も立ち消えとなり、7月には福原をしばらく皇居とし、道路を開通させて親平氏派の一部の人々に限り宅地が与えられることになった。しかし当時幼い安徳天皇に代わり院政を行なっていた高倉上皇は平安京を放棄せず、福原には離宮を建て、内裏や八省は必要ないとした。これに対して清盛は、内裏は移建せず、11月の新嘗祭までに私的に皇居を造営し、2年後には八省などの役所もつくるという方針で構えた。
そして11月には皇居に似せて造られた清盛の私邸が天皇に提供され、12月5日から8日新嘗祭の五節のみが行なわれると、11日には京都への還幸となった。京都への還幸は源氏の挙兵に対応するため清盛が決断したといわれている。
神戸市文書館 福原遷都
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/fukuhara/fukuhara.html
このように、当時の安徳天皇の福原での居住は5か月程度であり、明らかな準備不足により福原京は未完に終わった。
歴史上における日本の首都は、天皇の居住地を都として定められており、その観点からは福原京はこの期間日本の首都だったこととなるが、一方で福原には行宮が置かれたのみで平安京が従来の首都機能を失った様子は特になく、福原は京都の機能を軍事・貿易面で補完する事実上の副都に留まった、とする主張もある。
尚、このように短期間かつ未完で終わったために福原京の詳細は不明なまま歴史に埋もれてしまった。
福原京の計画も海に沿って東西方向につくられる予定であったという説と、南北のつくられる予定であったという説がある。東西説の想定図は以下のとおりだ。
同様に天皇の居住地を都と考えるのであれば、日清戦争中の1894年(明治27年)9月15日から1895年(明治28年)5月30日は、広島市に置かれた広島大本営において、明治天皇が直接争の指揮をされており、この期間は日本の首都は広島だったと主張できることとなる。
実際に1894年10月の第7回帝国議会は広島市で開催されるなど、立法・行政・軍の統括が東京から広島に移転しており、この時期は広島が一時的に首都機能を担っていた。
広島大本営
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6
広島大本営は、1894年に勃発した日清戦争の戦争指揮のために広島県広島市の広島城(現中区基町)内に設置された、大日本帝国軍の最高統帥機関である大本営である。
大本営は1893年5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された制度であり、日清戦争において初めて設置された。このときの大本営は1894年6月5日に東京の参謀本部内に設置され、同年8月1日に皇居内に移った。
その後、当時広島駅が東京を起点とする鉄道網の西端であったこと、また大型船が運用出来る宇品港(現広島港)が有ったことで、前線に向かう兵站基地となった広島市に移ることとなった。
9月13日に大本営が宮中からこの地に移転し、2日後の15日には戦争指揮のために明治天皇が移った。このため、行宮の役割も果たした。明治天皇は日清講和条約調印後の1895年5月30日までの227日間この地で指揮を執った後、東京に還幸した。大本営はその後も台湾の統治機構整備など戦後処理のために広島に留まり、1896年4月1日に大本営解散の詔勅によって解散した。
この時期、1894年10月に招集された第7回帝国議会は広島の広島臨時仮議事堂で開会された。国の立法・行政・軍事の最高機関が一時的とはいえ広島市に集積したことで、広島市は臨時の首都の機能を担った。これは明治維新以降、首都機能が東京から離れた唯一の事例である。
解散後に「大本営址」は文化財として保護され、国の史跡にも指定されたが、残念ながら原爆投下により建物は全て崩壊したしてしまった。現在では建物の基礎および礎石と、一部文字が消された碑石が残っているのみとなっている。
寄る辺ない旅 広島大本営跡
http://www.geocities.jp/skegfirst/hirosimadaihonnei.html
こちらも期間としては7ヵ月半と短いが、天皇陛下が住まわれただけでなく執務をされ、また国家の首都機能が移ったことは事実である。
これらの事例を遷都と考えるか否かについては当然のように様々な見解がある。長い歴史を有する日本では、首都をめぐって様々な史実があり一概に捉えることはできないことは確かなようだ。
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