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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




いろいろなものの歴史を調べると、短期間のうちに革新的に技術が進化するケースに遭遇することがある。

ライト兄弟がライトフライヤー号で人類初の飛行 (具体的には最初の継続的に操縦を行った、空気より重い機体での動力飛行) を行ったのは1903年12月17日だったが、この後欧米で飛行機はより速くより高くより遠くへ飛べるよう改良が行われた。この中で特筆すべきは、フランスのアンリ・ファルマンによって1909年に設計・製作されたファルマンIIIである。

ファルマンIII
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3_III

フランスのアンリ・ファルマンによって1909年に設計・製作されたファルマンIIIは、初めて実用的に補助翼を導入し、降着装置に車輪を取付けた最初の飛行機であったとされており、航空史上、および飛行機のデザインの変容の歴史上において、その後の方向性を決定付けた重要な型の一つとして高く評価されている。1909年中にアンリ・ファルマン自身が当時の長距離飛行・航続時間の世界記録を2度更新するなど、数々の競技会に出場し記録を樹立した。
その影響で、当時ファルマン社には、イギリス・ドイツ・デンマーク・日本・ベルギーなど国外からの注文や視察・買い付けなども殺到し始めた。特に1910年型のファルマンIIIは合計130機が生産され、うち75機はフランス国外に販売された。




1910年、臨時軍用気球研究会の委員であった日野熊蔵(当時31歳、陸軍歩兵大尉)と、徳川好敏(27歳、同気球隊付工兵大尉)は、機体の選定・買い付けと操縦技術習得のためフランス・ドイツに派遣された。両大尉は新橋から4月11日に出発、シベリア鉄道経由でパリに渡った。5月末、アンリ・ファルマン飛行学校3校目のエタンプ校が開校し、両大尉は各国 (フランス、ロシア、イギリス、ドイツ、イタリア、ポーランドなど)から派遣された飛行学生ら計10数名と共に学んだ。徳川大尉は8月8日に初めての単独飛行に成功し、その後8月25日に日本からの発注で製作されたばかりの機体で免許試験に臨んで飛行を成功させ、飛行機操縦者免許状を取得した。その後機体は分解・梱包され9月15日にフランスから日本へ向かう「安藝丸」に積載の上で船便で日本に送られた。

尚、日野熊蔵は7月25日に単身ドイツに移動し、ヨハネスタール飛行場で操縦技術を学びグラーデ単葉機を購入した。
グラーデ単葉機はドイツのハンス・グラーデが製作した飛行機で、24馬力のエンジンの小型機であり、ファルマン機 (50馬力) と比べると、大きさ・重量ともに小さい。



日野熊蔵と徳川好敏はパリで落ち合った上で10月25日に帰国した。その後ファルマン機・グラーテ機ともには東京・中野の気球連隊に運んで組み立てられた。ファルマン機の輸送には牛4頭と50人を動員して丸4日間かかったと言われている。

しかし当時日本にはまだ両機を飛ばすための飛行場が存在していなかった。そこで大日本帝国陸軍の代々木練兵場 (現在の代々木公園よりも広く、現在の渋谷区神南にあるNHK放送センターから、同・宇田川町の渋谷区役所・渋谷公会堂周辺一帯までに及んでいた) が整地して使用された。 

ファルマンIII 代々木錬兵場での初飛行
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3_III#.E4.BB.A3.E3.80.85.E6.9C.A8.E9.8C.AC.E5.85.B5.E5.A0.B4.E3.81.A7.E3.81.AE.E5.88.9D.E9.A3.9B.E8.A1.8C

1910年12月、代々木錬兵場の一角に2基の天幕式格納庫が設置され、ファルマン、グラーデ両機が中野気球連隊から運び込まれた。主催者の臨時軍用気球研究会は公開飛行試験の日程を新聞などに公表した。当時、多くの一般の日本人にとって、飛行機が空を飛ぶということはまだ信じ難い出来事だった。飛行実施日は同月15日と16日、また当日が悪天候になった時のため17日・18日は予備日とされ、19日・20日には撤収や輸送が完了するという予定だった。このため15日から19日にかけての5日間で約50万人の観衆が集まり、会場の周囲には屋台なども出店する賑わいとなった。

結果的に公式な記録として、日本における初の動力飛行の日付、すなわち日本で初めて飛行機が飛んだ日は、1910年12月19日とされている。この日、代々木錬兵場において、徳川好敏大尉がフランス製の当ファルマンIII型複葉機を操縦し、日野熊蔵大尉がドイツ製のグラーデII型単葉機を操縦し、日本初の公式動力飛行に成功した。これを記念して12月19日は「日本初飛行の日」とされている。


日野熊蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E7%86%8A%E8%94%B5

12月14日、代々木錬兵場において滑走試験中の日野は飛行に成功し、これが日本史上の初飛行とされる。しかし、飛行機研究の第一人者として、また当時数少ない実際の航空機の飛行を見たことがある人物であったため、事実上の現場責任者として間近で注視していた田中館愛橘博士や、操縦していた日野自身も、初飛行であることを認める発言はしていない。さらに、初飛行の根拠となっている距離については、唯一「初飛行」と報じた萬朝報の記者が60mと報じたがあくまで目測でしかなく、取材していた他9紙は距離を記載しておらず初飛行とは報じていない。また、「飛行」とは翼の揚力が機体の重量を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態を指すため、「飛行」ではなく「ジャンプ」であるとして、航空力学的にも初飛行とは言えないとする意見もある。

19日には“公式の、初飛行を目的とした記録会”が行われ、日野・徳川の両方が成功した。これが改めて動力機初飛行として公式に認められた。事前の報道においては、当時天才発明家などと報道されていた日野の方が派手な言動も相まって遥かに有名人であり、新聞記者も徳川には直前までほとんど取材活動をしていなかった。しかし徳川、日野の順に飛んだため、“アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行”ということにされてしまった。これは、徳川家の血筋でありながら没落していた清水徳川家の徳川好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍および華族関係者の意向・圧力だったとする説がある。しかし、たとえ名家の出身であっても陸軍の方針として軍内部での扱いは平民と同じであることが原則だったため、この批判は適切ではないとする意見もある。ただし、その後徳川は後述の通り陸軍内部で厚遇され、逆に日野は冷遇されたのは事実である。
ともあれ、日野の記録は抹消され、12月19日の徳川の飛行をもって「日本初飛行の日」とされている。


まぁいろいろな事情や評価があるが、日野熊蔵大尉と徳川好敏大尉ともに功績は受け継がれており、現在代々木公園には、プレート型の標識「日本初飛行の地」と、その側に左右に大きく翼をひろげた鳥の形にデザインされた石碑「日本航空発始之地記念碑」が、さらにその前方に両名の像が建っている。



さて、日野・徳川の初飛行には間に合わなかったものの、日本初の飛行場である所沢陸軍飛行場が1911年4月1日に開設された。同飛行場での初飛行は4月5日に行われ、ファルマン機は800mの距離を高度約10mで1分20秒間飛行したと記録されている。さらに6月3日、徳川大尉の操縦で後席に山瀬中尉が同乗し、所沢-川越間の30.03kmを高度150m程で32分45秒で飛行した。これが日本国内初の都市間野外飛行とされている。



しかし、開設当初の所沢飛行場には当機をはじめ全4機の輸入機しかなかった。そのため、頻繁に練習が始まるとこの4機は酷使されすぐに飛行機が不足した。そこで1911年10月にはファルマン機を元に国内で会式一号飛行機が製作された。この機体は軍用機としては、初の国産飛行機とされている。

会式一号機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E5%BC%8F%E4%B8%80%E5%8F%B7%E6%A9%9F

会式一号機の「会」とは「臨時軍用気球研究会」のことで、1909年7月30日付の勅令により、気球と飛行機の軍事利用の研究のため 当時の陸軍・帝国大学・中央気象台のメンバーらにより設立された 国内最初の航空機に関する公的機関である。
前述の日本初飛行の公式記録を持つフランス製1910年式アンリ・ファルマン複葉機を参考に設計されたが、ここまで同機を何度も操縦していた徳川大尉によって翼断面の形状・面積の変更と、各部を流線形にして空気抵抗を減らすことなど幾つかの変更が加えられ、機体の強度と上昇力・速度の向上が図られることとなった。 材料などは全て国内で調達されたものの、当時の日本の工業水準はまだ低く充分な加工機材も無かったため製作は主に鋸等による手作業で進められた。
製作は同1911年7月より所沢飛行場の格納庫内で開始され、10月初め頃に完成、 10月13日に大尉自らの操縦によりテスト飛行が行われ、高度50mで 時速72km/h,(最高高度は85m)と良好な成績を記録し、操縦性もファルマン機より高く評価された。
設計・製作段階から徳川大尉の功績が大きかったため、当時一般には "徳川式"と呼ばれ、その後は主に操縦訓練や空中偵察の教育などの目的で使用された。




さて、ここまでだと欧米で発明された新製品を日本も国家・軍としていち早く取り入れて、また改良を加えたという流れになるが、並行して民間でも飛行機の開発が進められていた。そして奈良原三次 (1877 - 1944) による「奈良原式2号飛行機」が、独自設計の国産飛行機として上記の会式一号機より先に飛行している。

奈良原三次
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%8E%9F%E4%B8%89%E6%AC%A1

奈良原三次 (1877 - 1944) は、東京帝国大学工学部造兵科を卒業して海軍少技士に任官し、飛行機の研究をはじめ、臨時軍用気球研究会の委員に任じられていた。1910年に自費で機体に丸竹を用い「奈良原式1号飛行機」を製作するが、エンジンの出力不足などもあり離陸できなかった。翌1911年、私有のエンジンを搭載して「奈良原式2号飛行機」を製作、5月5日に所沢飛行場にて自らの操縦で高度約4m、距離約60mの飛行に成功した。
1912年5月、千葉県の稲毛海岸に民間飛行場を開き、民間パイロットを養成し、その後日本軽飛行機倶楽部の会長に就任し、以降も後進の指導・育成にあたり、またグライダーの発達・普及などにも尽力した。




このように1910年から1911年の僅か1年程度の期間に、日本の飛行機そして航空事情は劇的な進化を遂げた。これは当時の世界情勢の下では必然と捉えることができる。
世界中で初飛行、飛行時間更新、大陸横断飛行などを競う一方で、航空機は直ちに戦争に用いられた。1911年10月には相手軍の位置を偵察するための飛行、1913年にはメキシコ革命において初の爆撃がされた。そして1914年に第一次世界大戦がはじまると、日本陸軍によって青島のドイツ軍要塞爆撃が行われた。

この時代ならではのニーズがあったことは間違いないが、日野熊蔵、徳川好敏、奈良原三次らの熱意によって、発明間もない飛行機で日本が極めて短期間に欧米と同等或いはそれ以上の技術を擁することとなったことは記憶しておきたい。



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