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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




このブログをはじめてまだ間もない頃に「人車軌道」について取り上げた。人車軌道は1900年ごろから多く開業し全国に約30路線があった。主に (1) 重量貨物を最寄の鉄道駅から加工地に運搬するための鉄道、(2) 機械動力よりも安い人力を使った通常の鉄道 に分類できた。ともに貨物も旅客も扱ったが、人力運転の非効率性から廃止された。
現在の感覚では人が客車や貨車を押すなど信じられないのだが、静岡県の島田軌道は1898年開業、1955年休止 (1959年廃止) と60年近くも営業されていた。

当然だが「人」以外に「馬」も曳いている。1882年に日本初の馬車鉄道として「東京馬車鉄道」が開業した。その後北海道から沖縄まで全国に馬車鉄道は広まっていった。
しかし、糞尿の処理や給餌などの手間がかからない電気動力に転換される形で馬車鉄道は衰退していった。最後まで営業したのは宮崎県の銀鏡 (しろみ) 軌道で1949年まで続いた。馬車鉄道よりも人車軌道の方が後まで続いたというのは驚きだ。

それでは「牛」はどうか? 

もともと日本では馬車よりも牛車が栄えた。それは以下のような理由によるようだ。

レファレンス協同データベース レファレンス事例詳細
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000028343

どうして馬車は牛車に比べ、あまり日本では発達しなかったのか。
① 日本に伝ってきた馬文化は、朝鮮半島経由で伝わった騎馬民族郷土の文化で、ヨーロッパの戦車中心の文化とは違い、騎馬を中心に勢力圏を拡大した文化であったこと。
② 日本には野生馬を含めて馬の数が少なく、非常に貴重な動物であった。それゆえに「神馬」というように権力者の象徴となり、これに荷を牽かすという発想は生まれなかった。
③ 日本は多湿の海洋性気候のため、年間を通じて雨が多く河川も多い。また火山列島のため山地が多く、江戸時代に街道が整備されたとは言え、馬車を自由に走らせるスペースは少なかった、という気候と地形の問題。
④ 時代が変わっても高価な動物であることに変わりはなく、平民の乗馬は明治まで許されず、牛-公家、馬-武士のものとされていた。また江戸時代には戦略上の理由から、馬や車の使用について厳しい規制があり、馬車の登場する余地はなかった。
このような理由から、比較的早い時代に万が一馬車文化が入ってきたとしても、普及する余地がなかった、と記載されている。


一方で牛車は平安時代に貴族の一般的な乗り物であった。当時は移動のための機能性よりも使用者の権威を示すことが優先され、重厚な造りや華やかな装飾性が求められた。



その後も大量の物資の輸送に牛車は長く利用された。その牛車はレールの上を走ったことはあったのだろうか。
調べてみると、明治時代後期に日光で牛車鉄道が営業していたことがわかった。

とちぎレイルビュー 東武鉄道日光軌道線
http://www.asahi-net.or.jp/~se1t-imi/lr_nikkoutram/lr_nikkoutram.htm

1890(M23) 8・1 日本鉄道 宇都宮-日光間全通 古河市兵衛 足尾(神子内)-日光(細尾)に索道を敷設
1893(M26) 古河 細尾-日光駅間に牛車軌道を敷設
1910(M43) 8・10 日光電気軌道 日光-岩ノ鼻間8.0kmで営業開始


日光を漂ふ
https://nikko37.exblog.jp/20398879/

明治二十六年 (1893年) に、古河鉱業会社は輸送力の増強を計り、細尾・日光駅間に軌道を敷設して牛車を運行した。牛車軌道の開通によって、古河鉱業の細尾・日光駅間の駄馬輸送は廃止されたが、民間の日用品は駄馬の背で運ばれた。ただ、日光線 (日本鉄道) を利用した観光客も増えてくると、牛や馬の糞が道路を不潔にするということで、日光町民の批判も多くなっていた。
そんなおりの、電気軌道工事だったが、来晃する観光客を相手にする人力車夫はもちろん、仕事を奪われる牛車軌道の労働者の反対は当然予想された。

(日光軌道の一番電車が走った日)文明のシンボルとも言うべき電車を一目見ようと、町民は人垣をつくる。すると車掌の顔に見覚えがある。あれは牛車鉄道の牛ひきたちじゃないか。どうも慣れないせいか制服姿がぎこちないな。そうそう、別の牛ひきはホテルに卸す牛乳屋に商売替えしたそうだ・・・・・。なんとも賑やかな見物人たちに囲まれて、一番電車は走った。


すなわち、1877年から着手されて1881年に有望鉱脈が発見された足尾銅山で産出された銅を、索道 (ロープウェー) と牛車で日光まで運んでいたものだ。1890年代には次々と有望鉱脈が発見され、20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長しており、銅の輸送は極めて重要だったことが理解できる。
そして1910年に電気軌道の営業が開始され、置き換えられていった。(但し、牛車鉄道と電気軌道の路線は異なるルートである)

当時の地図を以下で確認することができる。

国立国会図書館デジタルコレクション 日光の栞 : 日光案内書
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764330





日本鉄道の日光駅から牛車鉄道の路線が確認できる。現在の地図を元に辿ると、東武日光駅あたりから出発して国道119号・120号を通り、大谷川を渡って国道122号で細尾に向かうルートだ。その先に足尾鉱山がある。



また当時の写真 (本記事のカバー写真を拝借) も以下で確認することができる。

あかがね会 日光の牛車鉄道について、[東武鉄道博物館]見学
http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kawamura63/kawamura63.html

明治初期の鉄道開通と馬車文化の浸透が同じようなタイミングだったので、スピードを優先する鉄道に馬車が間にあったというところだろう。もし鉄道の開通がもう少し早ければ日光以外にも牛車鉄道の例があったかもしれない。いずれにしても早期に衰退する運命ではあったが。
歴史の中でほとんど埋もれてしまっている牛車鉄道の僅かな記録を後世まで残していきたい。



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