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たびたび話題となる女性天皇だが、歴史上は 第33代推古天皇、第35代皇極天皇、第37代斉明天皇、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第46代孝謙天皇、第48代称徳天皇、第109代明正天皇、第117代後桜町天皇と10代の女性天皇が存在した。
この中で斉明天皇は皇極天皇の、称徳天皇は孝謙天皇の重祚 (再即位) で同一人物であるから、女性天皇は歴史上8方ということになる。

皇極 (こうぎょく) 天皇 = 斉明 (さいめい) 天皇は推古天皇に次ぐ2方目の女性天皇であり、また初めて退位した天皇、初めて重祚した天皇ということで何かと記録的な天皇だ。まずは略歴と即位にあたっての背景を見てみたい。



斉明天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

第30代敏達 (びだつ) 天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王 (ちぬのおおきみ) の第一王女。母は吉備姫王。
はじめ高向王(第31代用明 (ようめい) 天皇の孫)と結婚して、漢皇子を産んだ。なお、この2人の詳細は不明。
後に630年3月1日、37歳で第34代舒明 (じょめい) 天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子 (のちの天智天皇)、間人皇女 (孝徳天皇の皇后)、大海人皇子 (のちの天武天皇) を産んだ。
641年11月17日 舒明天皇が崩御する。継嗣となる皇子が定まらなかったので、642年1月15日第35代皇極天皇として即位した。49歳であった。

645年6月12日、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する (乙巳の変・大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子 (後の第36代孝徳天皇) に大王位を譲った。日本史上初の譲位 (退位) とされる。新大王の孝徳天皇より、皇祖母尊 (すめみおやのみこと) の称号が奉られた。

654年10月10日に孝徳天皇が崩御。655年1月3日、62歳のとき再び皇位に即いた。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。


歴代の女性天皇について
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai3/3siryou3.pdf

第34代舒明が641年に崩御した後、当時権勢を誇っていた蘇我氏は舒明天皇と蘇我氏の女性との間に生まれた古人大兄 (ふるひとのおおえ) 皇子の即位を望んだ。しかしながら、皇位継承の有力候補として廐戸 (うまやど) 皇子の王子である山背王 (やましろのおおえ) がいたため、ひとまず舒明天皇の皇后である皇極天皇が即位したものと見られる。
このように皇極天皇が即位した経緯には、容易に後継者を決定できなかったという状況と 蘇我氏の強い意向という事情があったものと思われる。

第36代孝徳天皇が崩御したとき、皇位継承の有力候補としては皇極天皇の皇子で当時皇太子であった中大兄皇子 (のちの天智天皇) がいた。しかし他方で孝徳天皇の皇子の有間 (ありま) 皇子も有力であったこと、或いは孝徳天皇と中大兄皇子との間に不和が生じた中で孝徳天皇が崩御したことなどから、中大兄皇子が即位することは容易ではない状況にあった。このようなことから皇極天皇が再度即位し斉明天皇になったものと見られる。




さらに慌ただしいことに在任中に計5回 (詳細不明分を含めると6回) も遷幸している。「歴史上における日本の首都は、天皇の居住地である」と考えるのであれば、天皇が居を移すことは即ち遷都である。皇極天皇=斉明天皇の遷都歴を簡単にまとめてみたい。

先代の舒明天皇が641年に崩御したのは百済宮 (くだらのみや、奈良県広陵町、奈良県桜井市など諸説あり) で、642年1月に皇極天皇も即位当時は同宮に居を構えていたが、同年12月21日に小墾田宮 (おはりだのみや、奈良県明日香村) に遷幸した。小墾田宮は第33代推古天皇が603年に築造した皇居で603年の年冠位十二階制定、604年の十七条憲法制定など重要施策が行われた宮で、皇極天皇はそこに一時的に居を移した。
しかしこれは一時的な仮住まいであり、643年4月に飛鳥板蓋宮 (あすかいたぶきのみや、奈良県明日香村) が完成すると再び遷幸した。「板蓋宮」という名前は、文字どおり屋根に板 (豪華な厚い板) を葺いていたことに由来するといわれており、ここから当時の屋根のほとんどは檜皮葺・草葺き・茅葺き・藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったことがわかる。

そして飛鳥板蓋宮は、645年7月10日の乙巳の変 (大化の改新) の舞台となった。これにより皇極天皇は退位し、その後第36代孝徳天皇が即位したが、孝徳天皇は難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき、大阪市)に宮を置き、654年に崩御するまで同宮に居を構えた。
655年1月に皇極天皇は斉明天皇として62歳で重祚したが、その際に再び飛鳥板蓋宮が皇居となった。同年秋に小墾田に宮を造ろうとしたが中止となり、そうこうしているうちに同年末に板蓋宮は火災に遭い焼失してしまった。
そこで斉明天皇は飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや、奈良県明日香村)に遷ったが、これも一時的な仮住まいで、並行して新たな宮殿建設地の選定を行っており、翌656年には岡本に新宮殿が建てられた。これが後飛鳥岡本宮 (のちのあすかのおかもとのみや、奈良県明日香村) である。この地は斉明天皇 (=皇極天皇) の夫である舒明天皇が即位してまもなく遷宮した地であり、亡き夫の旧宮地を選んだということになる。
しかし建てられたばかりの飛鳥岡本宮も火災に遭い、斉明天皇は飛鳥田中宮 (あすかたなかのみや、奈良県橿原市) に移ったとされるが、ここははっきりした記録が見つからなかった。

その後660年に朝鮮半島で百済が唐と新羅によって滅ぼされたが、百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、661年5月に筑紫の朝倉橘広庭宮 (あさくらのたちばなのひろにわのみや、福岡県朝倉市) に遷幸し百済復興の戦に備えた。これは日本史上初めて畿内地方以外への遷幸であり、唯一の九州への遷幸であった。 (尚、高知県高知市の朝倉神社の社伝では、朝倉橘広庭宮は同社にあたるとしている)
しかし斉明天皇は同年7月24日に同地で崩御した。次代の38代天智天皇 (中大兄皇子) は長い間皇位に即かず皇太子のまま政務を執ったが (=称制)、その間は難波長柄豊碕に居を構えていた。

ということで、かなり複雑な変遷となるが、まとめると以下のとおりとなる。
 皇極天皇
  百済宮 (くだらのみや) 642年1月~
  小墾田宮 (おはりだのみや) 642年12月~
  飛鳥板蓋宮 (あすかいたぶきのみや) 643年4月~
 斉明天皇
  飛鳥板蓋宮 (あすかいたぶきのみや) 655年1月~
  飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや) 655年冬~
  後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや) 656年~
  飛鳥田中宮 (あすかたなかのみや) 不明
  朝倉橘広庭宮 (あさくらのたちばなのひろにわのみや) 661年5月~

『日本書紀』によれば、斉明天皇はしばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判したそうである。
既術のとおり後飛鳥岡本宮は建立後すぐに火災に遭ったが、斉明天皇によって営まれた多くの土木事業が動員される民衆にとって非常に不評であり、このために放火されたのではないかとする説も出ているそうだ。
まだ都が形成されていない時代に、複雑な権力争いの中で2度にわたって即位した皇極天皇=斉明天皇の絶対的な権限を示す史実といえるだろう。


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