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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




以前このブログで、1862年に刊行された日本で最初の日本語の新聞である『官板バタビヤ新聞』を紹介した。同紙はオランダ政庁が贈ったバタビヤ(現在のジャカルタ)で発行された新聞(バタビヤを支配していたオランダ政府の機関紙)を、幕府の学者が翻訳・編集したもので、オランダ国内および国際ニュースが主な内容であった。

その後明治となりになり、翻訳でなく日本人の手で新聞が創作された。1868年(明治元年)に京都で明治新政府の官報として『太政官日誌』が、江戸で柳川春三などにより『中外新聞』が発行された。

早稲田大学 幕末・明治のメディア展 第1部 第3章 黎明期の新聞
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/bakumei/13/

期せずして東西で同時に『太政官日誌』『中外新聞』が発行されたことは、いうまでもなく、恭順か佐幕かという当時の国論分裂の様相を反映したものだといえる。国内に政治的対立がある場合、世論を自派へ誘導するひとつの武器として新聞紙の機能が重視されたのは当然であった。党派的感情があればこそ、ニュースに対する欲望がわくので、よくいわれる「新聞は読者が作る」という不変の事実も、この時から現れているのである。
明治新政府が成立するや、佐幕、尊皇の言論戦も新政府が厳重な取締令を発したので、佐幕派新聞は続々と廃刊を余儀なくされた。新政府の倒幕事業は一応完成したが、東京と名の改まった市内は社会不安がつのり、物情騒然たるものがあった。さきに厳しい新聞取締令を出した新政府も、単に治安維持のみでなく、基礎的政治様式確立の手段としても、新聞の必要なることを痛感し、明治二年「新聞紙印行条例」を公布してはじめて正式に新聞の発行を認めた。これは実に日本における最初の新聞紙法ともいうべきものである。かくして幾多の新聞が復活、創刊された。





このように多くの新聞が発行されるようになった。1870年には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊され、1872年には『東京日日新聞』(現在の毎日新聞) や『郵便報知新聞』(現在のスポーツ報知の前身) などが創刊された。



明治政府は新聞の普及が国民の啓蒙に役立つという認識から、新聞を積極的に保護する政策を取り、日本各地に無料の新聞縦覧所や新聞を人々に読み聞かせる新聞解話会を設置するなど各新聞社を支援した。
しかし、1874年の民撰議院設立建白書の提出を機会に自由民権運動が盛んになると、政治権力の保護を受けて政策や方針を擁護・宣伝する立場を採る"御用新聞"よりも、民権派の勢力が強くなり政府に批判的な論調が目立つようになった。そのため明治政府は1875年に新聞紙条例、讒謗律を制定して新聞の言論弾圧に乗り出した。
このわずか5年程度の流れをみると、明治初期は様々な大きな変化が次々と起こったことを改めて認識する。

さて、この頃の新聞は「大新聞」(おおしんぶん) と「小新聞」(こしんぶん) に分類されていた。

大新聞と小新聞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%A8%E5%B0%8F%E6%96%B0%E8%81%9E

大新聞と小新聞は、明治時代初期(1870年代 - 1880年代)に行われた、新聞の二大別。知識階級を対象に政論を主体としたものを「大新聞」、庶民向けに娯楽記事を主体としたものを「小新聞」と呼んだ。
京浜地区で政論を主張する知識階級向け新聞には、『横浜毎日新聞』『東京日日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』『東京曙新聞』などがあったが、庶民向けの娯楽新聞も『読売新聞』『平仮名東京絵入新聞』『仮名読新聞』など続々と現れた。そして1875年末頃からそれ等に「小新聞」と言う名が付いた。政論の新聞の方は「大新聞」である。京阪地区の小新聞には、『浪花新聞』『朝日新聞』などがあった。
両者の相違は主に次のとおり。
 一面の寸法は、大新聞がブランケット判(405×546mm)で、小新聞はその半分のタブロイド判(273×406mm)。
 文章は、大新聞が漢文口調で、小新聞は総ルビの口語体。
 大新聞は政治・政論・国際関係の記事が主で、小新聞は巷の出来事・演芸・読み物の記事が主で、挿絵入り。
 値段は小新聞が大新聞の半分以下。
安くて肩の凝らない方が好まれ、1876年の時点で、小新聞の読売は大新聞の東京日日の1.5倍を売り、両者の差は年と共に広がった。
また大新聞では政党機関紙的な派閥ができ、読者そっちのけで大新聞同士が議論、中傷して世を白けさせ、部数を減らした。一方で小新聞の側では、読売と朝日が既に1879年からルビ付きの論説欄を設け、それが他紙にも広まった。
その後大新聞も小新聞的記事を載せるようになり、小新聞も社会状況に遅れないよう論説などの記事を充実させたため、両者は次第に近付き呼び分けも消滅した。

これは明治政府の新聞の普及支援政策と、その後の国民への浸透という点で極めて自然な流れであろう。どの時代も人々は易しい方に流れる。
1886年には読売新聞が小説欄を設置し、それ以降尾崎紅葉の「金色夜叉」や夏目漱石の「心」など数々の名作が新聞小説から生まれている。文化的な要素を含めて社会で新聞が確立するようになったと言えるだろう。

そして、次に人々はより世俗的なネタを好むようになる。1892年に日本初のゴシップ紙ともいうべき『萬朝報』(よろずちょうほう) が創刊された。

萬朝報
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E6%9C%9D%E5%A0%B1

1892年11月1日、黒岩涙香の手により東京で創刊される。紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。万朝報と新字体で表記されることもある。
黒岩は日本におけるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルについて執拗なまでに追及。「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した。天皇皇族にはさすがに触れなかったものの権力者や華族のみならず今なら一般人とみなされるであろう商店主や官吏の妾をも暴露し、妾の実名年齢や妾の父親の実名職業まで記載していた(当時はプライバシーにはそれほどうるさくなく「俺の妾をなぜ載せない」という苦情もあったという)。一時淡紅色の用紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれた。また第三面に扇情的な社会記事を取り上げた事で「三面記事」の語を生んだ。
「永世無休」を掲げ、「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」をモットーとし、低価格による販売と黒岩自身による翻案小説の連載、家庭欄(百人一首かるたや連珠(五目並べ)を流行らせた)や英文欄の創設等で大衆紙として急速に発展。1899年に発行部数が東京の新聞中第1位に達した。
1901年に「理想団」を結成。労働問題や女性問題を通じ社会主義思想から社会改良を謳って日清戦争時の世論形成をリードした。しかしその後、主たる購買者であった労働者層をめぐって『二六新報』と激しい販売競争を展開。日露戦争開戦の折、最初は非戦論を唱えていたものの、世間の流れが開戦に傾くにつれ、社論を主戦論に転じ黒岩自体も主戦論者となった。このため、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社。これを機に次第に社業は傾き、黒岩の死後は凋落の一途を辿った。


古書の森日記 by Hisako 明治38年の「萬朝報」
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/25680226.html

「蓄妾実例」では、総理大臣の伊藤博文や、森鴎外、勝海舟などもスキャンダルを暴露されている。
その黒岩涙香 (1862~1920年) は、土佐出身で藩校文武館で漢籍を学び、その後英語力を身につけた。自由民権運動に携わり官吏侮辱罪により有罪の判決を受けたこともある。後に新聞記者として活躍する傍らで、翻案小説に取り組むようになる。『今日新聞』に連載した翻案小説『法廷の美人』がヒットして、たちまち翻案小説スターとなった。偶然だが先月紹介したジュール・ヴェルヌの 「Le Voyage dans la lune」を、1883年に「月世界旅行」として翻案している。



上記のとおり「赤新聞」という言葉は『萬朝報』の紙の色に起因するものだが、いわゆる「イエロー・ジャーナリズム」とほぼ一致する。

イエロー・ジャーナリズム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

イエロー・ジャーナリズム(Yellow Journalism)とは、新聞の発行部数等を伸ばすために、事実報道よりも扇情的である事を売り物とする形態のジャーナリズムのこと。
1890年代に『ニューヨーク・ワールド』紙と『ニューヨーク・ジャーナル・アメリカン』紙が、漫画「イエロー・キッド」を奪い合って載せた事に由来する。共に
扇情的な通俗記事や娯楽記事の掲載で『ニューヨーク・ワールド』紙の部数を飛躍的に伸ばしたことを見て、ウィリアム・ランドルフ・ハーストも同種の『ニューヨーク・ジャーナル・アメリカン』紙の発行を始めた。ジャーナル紙はワールド紙の半額で、よりセンセーショナルな記事を満載して部数を伸ばした。両紙による読者獲得のための熾烈な競争が始まり、1896年にハーストはワールド紙のスタッフをごっそり引き抜いた。ワールド紙日曜版の人気漫画イエロー・キッドの作者も引き抜き、臆面もなくジャーナル紙でイエロー・キッドを連載させた。ワールド紙も別の漫画家を雇いイエロー・キッドの連載を続けて対抗した。このことから、両紙は「イエロー・キッド新聞」と揶揄され、ここからイエロー・ジャーナリズムという言葉が生まれた。


まだ歴史の浅い日本の新聞が、アメリカのジャーナリズムとほぼ同時期に同じような動きを見せたことは、良し悪しはともかくとして特筆すべきことだろう。
現在の各国のメディアを見ても大同小異であり、結局古今東西問わず人々が興味を持つネタは変わらないようだ。



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