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ディズニーランドは東京をはじめ世界に6ヵ所、ユニバーサルスタジオは大阪をはじめ世界に5ヵ所あるそうだ。一方で世界の遊園地・テーマパークで最も数が多いのは「ルナパーク」ではないだろうか。

ルナパーク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF

ルナパーク (Luna Park) は、世界各地で営業しているまたはすでに閉鎖された遊園地である。初めてのものは1903年に開園し、現在は南極大陸を除く世界中で営業している。
最初にルナパークという名前を冠したのは、アメリカ・コニーアイランドのルナパークである。汎アメリカ万博の出し物であった"月への旅行" (A Trip to the Moon) のアミューズメント・ライドの宇宙船から名前を取って「ルナパーク」と命名された。
多くのルナパークはすでに閉鎖されたが、ルナパークの名声は多くの国で受け継がれていった。


この記事のリストで営業期間が現在も続いているのは、世界で31ヵ所もある。メルボルンのルナパークは1912年開園で100年以上の歴史を持っている。
このリストにはないが、日本では前橋市の1954年開園の前橋市中央児童遊園が、2004年から「るなぱあく」として営業している。入園料無料、大型遊具が一人1回50円、木馬と小型遊具は1回10円で、日本一安い遊園地とのことである。
日本で最初の遊園地は1853年開園の「浅草花やしき」(1942年に解体され、1947年に復活して現在に至る) だが、開園当時の遊具はブランコだけだったそうだ。1911年開園の「宝塚新温泉」(後に「宝塚ファミリーランド」となり2003年に閉園) も挙げられるが、当初はプールや演舞場が中心であった。1912年開園の「ひらかたパーク」は現存する日本最古の遊園地だが、菊人形展が起源でその後に施設が充実していったものである。
しかし1910年に専門的な遊園地が開園している。「浅草公園ルナパーク」である。

ルナパーク (浅草)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF_(%E6%B5%85%E8%8D%89)

浅草公園ルナパークは、日本で最初にできたルナパークの名前を冠する遊園地である。
河浦謙一の映画会社である吉沢商店によって建設され所有されていた。ニューヨークのコニーアイランドに1903年に開業したルナパークを模して設計。 1910年9月10日、「日本パノラマ館」の跡地約1,200坪、東京市浅草区公園六区(現在の台東区浅草1丁目43番)で開業。
夜間も開いている「月の公園」といわれ、高さ15mの人工山と瀑布、天文館、木馬館(メリーゴーラウンド)、汽車活動写真館、映画館、飲食店などを設けた。 人気があり盛況であったが、1911年4月29日に漏電が原因で火災により焼失、僅か8ヶ月のみの営業であった。
上記の火災とほぼ同時期に、河浦の所有する大阪の映画館二件も不審火で焼失した。原因は放火だったとされている。この三件の火災により吉沢商店は苦境に陥り、アメリカから進出してくる海外映画産業などとの競争が厳しい状況となった。河浦は吉沢商店を375,000ドルで売却し、新しいルナパークを東京ではなく大阪に建設することを決めた。




吉澤商店主・河浦謙一の足跡 (1) - 東京国立近代美術館
www.momat.go.jp › sites › 2015/01 › 18_pp.32-63.pdf

河浦謙一(1868-1957) は、日本映画史の第一頁を飾った明治期最大の映画商社、吉澤商店の店主である。映画史の基礎文献では、活動写真(シネマトグラフ)の輸入と公開、初の国産映写機の製造、常設館第一号「電気館」の開館、最初の撮影所の建設など、草創期の主要なトピックのあちらこちらに、吉澤商店と河浦謙一の名が刻まれているのを目にすることができる。



ちなみに場所は現在の浅草演芸ホールを含む一帯で、花やしきとは目と鼻の先である。



そして、翌1912年7月に河浦は大阪でルナパークを開園した。

ルナパーク (大阪)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF_(%E5%A4%A7%E9%98%AA)

新世界ルナパークは、閉鎖した浅草ルナパークを引き継いで日本で二番目にできたルナパークという名前を冠する遊園地である。1912年に開園し1923年まで営業された。大阪の新世界にあり、敷地面積は132,000平方メートルであった。
同時期に初代通天閣がルナパーク建設予定地のすぐ北に建てられていた。こうしてルナパークのホワイトタワー(白塔)と高さ86mの通天閣がロープウェイ(索道飛行船)によって結ばれ、観客がパークの入り口へ向かう際に空中の景色を楽しめるように設計された。これはイタリアのセレッティ・タンファーニ (Ceretti&Tanfani) 社が製造した日本初の旅客用ロープウェイであった。
新世界ルナパークのアトラクションには、絶叫マシーン(サークリングウェーブ:円形のフレームに乗るところが付いていて、これが回転しながら上下する乗り物など)や、メリーゴーランド、ローラースケートホール、演芸場、活動写真館、音楽堂(奏楽堂)、不思議館、展望塔(白塔)、大衆演舞場(清華殿)、動物舎、および瀑布渓流(綾糸瀧、真澄ノ池)、噴泉浴場、円形大浴場、サウナ風呂、温水プールなどが設置されていた。
新世界ルナパークは1923年のシーズンをもって閉鎖された。1943年1月には初代通天閣が火災により損傷し、そのまま閉鎖され、材料を軍事利用するために日本政府によって解体された。戦後になって二代目の通天閣が建設され、1956年に営業を開始した。

大阪新世界串カツいっとく 新世界の歴史
http://www.to-kosan.com/rekishi/

第5回内国勧業博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となり、西側の約2万8千坪が大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、ここに新世界の開発が始まった。
北から順に、恵美須町1丁目には南端中央に円形広場を設け、パリの街路に見立てた3方向の放射道路を北へ配すことになった。放射道路は西から順に「恵美須通」「玉水通」「合邦通」と命名された。北霞町には北端中央にエッフェル塔を模した塔を建て、「仲町」とも称する中心街区を形成することとし、塔は儒学者である藤沢南岳により「通天閣」と命名された。
南霞町にはニューヨークのコニーアイランドに似た遊園地を開くこととし、「ルナパーク」と命名された。1912年初代通天閣およびルナパークが完成、7月に開業した。
この時の通天閣は凱旋門の上にエッフェル塔を載せた様子を模したもので、現在とは外見が異なり、また、現在のものよりも南側にあった。通天閣とルナパークの間にはイタリアのセレッティ・タンファーニ社が製造した日本初の旅客用ロープウェイを設置し、ルナパーク内に置かれた「幸運の神」ビリケン像と共に名物となっていた。
通天閣及びルナパークの開業により、新世界には芝居小屋や映画館、飲食店が集まり出し、1915年には東に隣接する天王寺公園西部に天王寺動物園が開園、1918年には南東に隣接して飛田遊廓が開設、1919年には新世界に大阪国技館が建設され、周辺地域を含め一大歓楽街として認識されるようになる。
そんな中でルナパークは振るわず、1923年に閉園となり、跡地は大阪市電天王寺車庫に転用された。




このように、「大大阪」と呼ばれた時代に、新たな中心地に建てられた通天閣とルナパーク、そしてロープウェイはさぞかし華やかだったことだろう。圧倒的な規模のアトラクションを揃えたが、時代に恵まれずに業績が振るわなかったのは残念だ。
ちなみに、1911年開園の「宝塚新温泉」では1924年に宝塚大劇場と遊戯施設を設置した遊園地が完成したが、その遊園地は「ルナパーク」と呼ばれた。新世界ルナパークを引き継ぐような形になった。
結果として、河浦謙一によってアメリカや世界の流行をタイムリーに捉えてルナパークが開園されたが、本国のアメリカ同様にルナパークは歴史となってしまったようだ。
一方で、萩原朔太郎の詩集『遊園地にて』(1931年) は遊園地に「ルナパーク」とルビがふられている。このように、かつて日本でも「ルナパーク」が遊園地の代名詞であり、また現在でも多くの国々で営業していることを頭に入れておこう。


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