今日は、日本が国連に加盟して、ちょうど50周年目の日になります。ということで、都内ではその記念式典も開催されました(記事/関連資料)。もともと、国連というのは、United Nations、つまり第二次世界大戦に勝利した「連合国」の主導で出発した経緯がありますから、枢軸国側で戦って負けた日本が国連に加盟して、国際社会に復帰できたのは、とくに戦後間もない日本にとっては、悲願達成と言ってよいほどのものだったに違いないように思います。
しかし、日本と国連に、このような独特の出会いの経緯があるためか、日本の国連に対するイメージは、かなり"良い"イメージに偏ってしまっているように感じることがあります。国連というものが、あたかも国際平和の象徴であるかのような一種の国連崇拝のようなものが見受けられることもあります。そして、こうした国連崇拝のようなものが一般に広く浅く浸透しているためか、国連を巧みに批判したりすると、何やら事情通であるかのようなステイタスが得られるような一種の国連コンプレックスのようなものも、日本社会の中にはあるように見受けます。これらの視点は、間違ったものではないのかもしれませんが、国連の実態を考えると、やや違和感を覚えてしまうことがあります。
もともと国連というのは、第二次世界大戦中に、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が大西洋憲章の中で確認したとおり、国際連盟が第二次大戦を防げなかった反省を踏まえて、大規模な世界戦争の再発を防止する目的で創設されたものです。つまり、国連というのは、当たり前のことではありますが、世界各国のための外交ツールの一つとして作られたものであって、その存在意義は、各国政府が自国の国益や国際社会の共通利益を増進するために、「利用する」ところにあります。
つまり、国連というのは、私たちにとって、評論家のような第三者的な立場から批判したり、崇拝するためのものではなく、当事者として利用するために存在しているということになります。一般市民の一人ひとりにとっても、その人の属する国が国連に加盟していれば、国民が国家を構成し、国家が国連を構成していますから、やはりその市民一人ひとりも、広い意味で国連の当事者、利害関係者ということになるのではないかと思います。
このように、国連というのは、関係国が「利用する」ために創設したという元々の起源がありますので、加盟国は国連を奉ったり、こき下ろすのではなく、建設的な議論をしながら、それをいかに外交手段として有効利用するかということに知恵を絞ることが求められています。 ― しかしながら、国連は主権国家の集合体という側面を持っていることから、そこにはもとより構造的な強みと弱みがあります。はじめから、国連での解決に向いている問題と、それに向いていない問題というのがあるのです。たとえば、国連は主権国家の集合体であるからこそ、国際社会の中で強い影響力を持つ大国が自ら積極的に作り出している問題については、かなり無力なところがあります。
一方、自然発生的にやむなく起きた問題や、中小国が作り出した問題、国家間の微妙な利害のズレによってこじれた問題については、国連は主権国家の集合体として、重層的で複合的な多国間協議を繰り返し何度でも行うことができますので、外交の枠組みとしてかなり有効に機能できるところがあります。したがって、国連加盟国の多くは、何でも国連で解決しようとするのではなく、与えられた個々の問題が、国連での解決に馴染みやすい性質を持っているかどうかを見極めてから、それを国連の中に取り込むか、国連の外に出して解決を図るか判断しているところがあります。
たとえば、具体的な実例を挙げますと、スーダンのダルフール紛争のようなケースは、事態がかなり深刻なのですが、大国の関与が薄いので、国連の枠組みが有効に働く事例の一つと言えます。過去の例を出しますと、東ティモールや紛争後のコソボのようなケースも、大国がウラで糸を引いているような側面が少なかったので、国連が大きな役割を果たすことができました。経済社会分野では、途上国の貧困問題への取り組み、地球温暖化対策なども、大国が現在進行形で意図的に問題を悪化させるような関与をしていなかったり、もしくはそのような関与をしようがないため、国連の枠組みに比較的馴染みやすい問題だと言えます。
一方、大国が紛争に意図的に絡んでいるケースでは、国連はほとんど機能できず、国連の外で解決を図るしかない場合も少なくありません。代表例としては、アメリカが深く関与している中東紛争(パレスチナ紛争)が挙げられます。また、イラク問題も、国連の中で一番力の強いアメリカ自身が、いまのところ国連の関与を拒絶しているので、当面国連が関与するのは困難です。経済社会分野では、主要通貨の安定といった問題、先進国経済の安定成長といった問題は、世界中のすべての国が大きな影響を受ける問題であっても、経済大国が意図的にコントロールできる範囲が大きく、それ以外の国はほとんど影響力を持たないので、関係国はG8という独自の枠組みを国連の外に作って協議をしている実情があります。
ちなみに、北朝鮮やイランの核問題については、上記のような理由とはやや違う要因が作用して、本交渉が国連の外で行われているところがあります。北朝鮮問題は、国連の枠組みに馴染みやすい問題ではありますが、六カ国協議のメンバー(米・中・露・日・韓・朝)という、そこへ足すことも引くこともできない絶妙のメンバー構成を、国連の枠組みを利用して参集させることが法制度上難しかったから国連の外に出たと言えるように思います。また、イラン問題も、アメリカとイランの間の交渉チャンネルが実質的に存在しないために、EUの中核を成す英・仏・独が結束してイランを説得してきた経緯もあり、安保理常任理事国(英・仏・米・露・中)にドイツを加えた変則的な枠組みを独自に創出した経緯があります。
このように多くの国々は、国連を利用できる場合は徹底的に利用し、利用できない場合は外に出て問題解決を図るという、きわめて現実的な行動様式を心得ています。国連には、地球上のほぼ全ての主権国家が加盟しており、その合意形成のルールもすでに国連憲章の中に設定されていて、何らかの国際的な問題を持ち込む場合、改めて交渉ルールの設定でもめる必要がないなど、極めて安価な外交コストで問題解決を図ることができるメリットがあります。また、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、国際司法裁判所など、問題の性質に従った分野ごとの交渉(司法判断)のテーブルも用意されていて、加盟国は一定の分担金さえ払えば、これらの「施設」を自由に利用することができます。
国連加盟50周年を迎え、日本もことさらに国連を崇拝したり、批判する段階を卒業し、これをいかに有効利用していくかという視点で、国連を見つめ直すことができれば幸いです。
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