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東京地形散歩
意外に起伏の多い東京の地形を撫で回します。
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1000年前のベイエリア
◆
東京低地の歴史
今から1000年程前の東京の海岸線は様々に推測されていて完全な一致を見ることは
ありませんが、おおよそ墨田区の方まで深く海が切れ込んでいただろうという
見方が有力です。(上図はざっくり感じをつかむ程度に考えていただければ幸いです。)
東京低地に数多くある微高地の分布がそのことを雄弁に物語ってくれます。
さらにまた、地形だけでなく現在にまで残っている地名にも往時の海岸線の
名残を見ることができます。
江戸川区に特徴的に見られる「~江」という地名がその代表格です。
・一之江
・二之江
・春江
・瑞江
・松江
そして「~井」という地名もまた「~江」の転じたものと考えられています。
・小村井(小村江)
・平井(平江)
・今井(今江)
これらの地名と隣り合うように分布する「~島」という地名もまたよく知られています。
・寺島
・牛島
・向島
・長島
海とそこに流れ込む川の流れとの間には、外洋船と河船との荷物の積み替えをすべく
港=津が数多く成立します。津は「戸」に転じ、戸の着く地名も見ることができます。
江戸の地名の由来が「江」の「戸」であるというのも有名な説ですね。
・今戸
・江戸
・亀戸
川を遡ると青戸とか奥戸とか出てきます。
地図の上にこれらの地名を並べてみれば「1000年前のベイエリア」の出来上がりです。
1000年前の昔に想いを馳せながら散歩してみるなんてのはいかがでしょうか。
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妙見島
◆
東京低地の歴史
東京23区の最も東に位置する江戸川区。その区名の由来となった江戸川には
妙見島、という島があります。埋め立てではない天然の島ということでは
佃島もそうなのですが、佃島が北部のごく一部を除いてほとんどが埋め立てで
できていることを考えると妙見島こそ「都区内唯一の島」と言っても差し支えないでしょう。
妙見島(Googleマップ)
もっとも、島内には佃島のような古い家並みどころか大工場しか存在しないので、
”趣き”といった面からすると甚ださびしいものがあります。
工場ばかりの案内図。
とはいえ、この島周辺地域は中世には川の関所「河関」が設けられ、
江戸川(当時は太日川)を行きかう数多くの船から通行料を徴収していました。
河関は流域に幾箇所も設けられていましたが、この辺りは川の入り口という
こともあって一際重要な存在であったと考えられます。
島の名前の「妙見」は「妙見菩薩」に由来しますが、これは北極星を
神格化したものであり、「北辰(=北極星)妙見信仰」等と呼ばれます。
中世、下総の国で栄えていた千葉氏はこの妙見菩薩を信仰していたことで
有名です。河関そのものは香取神社によるものでしたが、千葉氏は
香取神社の式年遷宮を執り行うなど両者の関係は深いものでした。
島周辺が千葉氏の西方進出の拠点となっていた時期があり、その名残が
島の名前に残ったと考えることができそうです。
※坂本竜馬が会得したという「北辰一刀流」の創始者・千葉周作もまた
千葉氏の系譜に連なる者であると考えられ、流派の名前に千葉一族に
伝わる北辰妙見信仰を見ることができます。
さて、島の中は大型トラックが頻繁に行き交うので事故に遭わないように
一層の注意が必要です。そんな埃舞う島の片隅に小さな祠が。
造花と石仏。天保年間の作?
ちょっとだけ艦橋っぽい。
島には大量の電力消費をまかなうべく張り巡らされた電線。
島の西岸。より狭い方のこちらには屋形船を始め各種の船が係留されている。
猫にとっても住みやすい島とは思えないのだけど・・・
それとも”猫の社会科見学”?
島の東岸には船着場。
島の北端。外と内。川の流れがぶつかってさざ波を立てる。
肝心の妙見神社は島の北側、月島食品の入り口の脇に控えめに立っています。
うっかりしていると通り過ぎてしまいそうなたたずまい。
なりは小さくても立派に島の鎮守の神様です。
とはいえ、かつて妙見島に置かれていたという妙見堂は、北に3キロほど離れた
一之江の妙覚寺
に移されているそうです。
妙見島の黄昏。
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市川砂洲と真間の浦、弘法寺(1)寒室へ
◆
東京低地の歴史
JR総武線市川駅の北口近辺は、微高地というものを実感できるスポットの一つです。
市川砂洲という東京近辺でも有数の規模を誇る微高地の南側の端っこには国道14号が走っていて、
その一本南の通りに向けてゆるりと落ち込んでいきます。
こんな感じ
「微高地」というとたいしたものではないように感じますが、実際には結構な高低差があります。
下の写真は14号の一本南の裏通りに、14号の高さを重ねたもの。
この通りには写真のように表通りとの高低差を活かして車庫にするなど
微高地の端という立地条件に対応した作りの家が立ち並んでいます。
大昔はここいら辺が砂浜だったというわけです。
この市川砂洲上にかつて古道が通り、中世には弘法寺系寺院等が経営する
宿場が形成されていたと考えられています。
その中心であったのが砂洲の先端近くの一帯、「寒室(ひむろ、ひんむろ、へいむろ)」でした。
(クリックしてGoogle Mapへ)
「この『寒室』とは、貧しい室屋という意味と考えられ、寒室=寒家であり、すなわち伏せ屋=布施屋のことであろう。
船に乗る旅の人々を宿泊・休憩させるために設けられた施設で、中世には真間の弘法寺が管理・運営
していたものと推定される」 (「千葉氏 室町・戦国編」千野原靖方著 たけしま出版)
中世寺院の役割の一つは、こうした交通の要所で旅人の世話をする=交通インフラの運営でした。
古代に国府の足元で官道=古代東海道の宿駅(井上駅)だったこの地が、時代が下って中世になっても
運営主体こそ違え、相変わらず交通の要衝であったことがうかがえます。
その重要性は江戸時代になっても引き継がれ、近代に入って鉄道が敷設される頃まで続きます。
今でも信号名に「市川広小路」という名前が残っているのがその名残です。
ということで、「東京」地形散歩からはちょっと外れて「市川地形散歩」の始まりです。
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江戸と市川を比較する
◆
東京低地の歴史
前回の東京低地における微高地の分布を見ると、
その中でとりわけ存在感の大きな微高地が2つあることに気づきます。
1つは現在の神田駅~東京駅~新橋駅に至る、
外堀通りを軸に南北に伸びる微高地。
これは家康が江戸に入り、日比谷入り江を埋め立てる前は
半島状に海に突き出していた、いわゆる「江戸前島」です。
中世までの江戸はこの江戸前島によって形作られた「日比谷入り江」という、
港とするのにおあつらえ向きの地形を活かして栄えていました。
もう一つは現在の市川駅~本八幡駅~下総中山駅に至る、
JR総武線の北・京成本線に沿って伸びる微高地です。
歴史的な地名はないのですが、もとは今から4000年位前に
形成された砂洲ですので「市川砂洲」と呼ばれています。
市川砂洲とその北の下総の国の国府が置かれていた国府台との間には
現在も真間川が流れていますが、ここには古代から中世あたりまでは
「真間の浦」「真間の入り江」と呼ばれる入り江が形成されていました。
実はこの両者、比べてみると地形だけでなく歴史的な地域構造においても
類似点をいくつか見出すことができます。わかりやすくするために、
市川の方を反時計回りに90度回転させてみます。
※15世紀くらいをイメージしていますが、その頃には存在していないものも
含めてのっけてしまっています・・・
縮尺は同じですから、同程度の広がりを持つ地域だとわかっていただけると思います。
いずれも政治的・宗教的に重要な拠点が存在する台地と、微高地との間に
挟まれた天然の良港でした。
江戸の方は江戸前島が鎌倉時代以降江戸時代に至る約270年間、
鎌倉の円覚寺領でした。円覚寺はこの他にもいくつもの水上流通の拠点を
所領としています。当時の寺院は対中国交易をはじめ、国内流通網を使って
大規模な商業活動を行う、今でいう商社的な性格を持っていました。
ですから、この江戸前島は「円覚寺商事」の「江戸支店」であったと言っても
よい存在でした。
その他にも時宗や日蓮宗、浄土真宗など様々な系列の宗教勢力がその拠点を
おいていたことがわかっています。
一方の市川ですが、こちらの真間の浦は下総の国の国府の港(津)、
いわゆる「国府津」としての役割を古代から果たしていたと考えられています。
さらに古代東海道(武蔵の国の国府(府中)から下総の国府(市川・国府台)とを結んでいた)の
駅(中継基地)の一つ「井上(いかみ)駅」もこの真間の浦周辺に置かれていたと考えられています。
古代の政治体制が崩壊して中世になってからも流通の拠点であったことは
「市河=市の立つ川」という地名からも読み取れます。
市川砂洲の先端地域には安国院、龍泉院(以上二寺は真間の浦対岸の弘法寺系列)、
極楽寺等の寺院が集中し、寺院による宿場町経営が行われていたと考えられています。
さらに、同じく日蓮宗の中山法華経寺もまた東京湾の交通の拠点でした。
品川との間を船で往来していた記録などもあり、往時はその近くまで
船が入っていくことができたと推測されています。
調べ上げていけばもっといろいろ出てくると思いますが、とりあえずこのくらいで。
JR市川駅の北口を出て少し歩き回ると、微高地の端、というのを
実感することができます。興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。
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東京低地の微高地
◆
東京低地の歴史
台地と入り組んだ谷によって複雑な様相を呈する東京。
そこで展開された歴史もまた、地形に大きく左右されてきました。
それは一見まっ平らに見える下町にあっても同様だったりします。
20メートル、30メートルといった台地に比べると誤差のようなものですが、
東京の下町には「微高地」と呼ばれる、せいぜい2,3メートル程度の
高低差を持つ地形が数多く存在します(下図、黄緑色の地域)。
東京が現在の東京へと発展するに当たって、この下町・東京低地が歴史的に
果たした役割を軽視することは出来ません。
東京低地にあって、こうした微高地は水はけのよさ等から早くから人が住み着き、
神社や寺院がおかれるなど各地域で重要な役割を果たしてきました。
下町を散歩するとき、その存在を意識していると思わぬ風景に出会う
ことが増えるかもしれません。
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東京低地の歴史(1)
◆
東京低地の歴史
武蔵野台地と下総台地とにはさまれた東京低地。
「0メートル地帯」と呼ばれることの多いこの地域は、
水害地帯というイメージに反して関東屈指の重要な地域であった。
(工事中)
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