前回は古代ギリシアについて書いたが、優れた哲学者を輩出していた時代でもあった。大半の日本人は著書を読まないにせよ、ソクラテスやその弟子プラトンの名だけは知っている。さらにアリストテレスはプラトンの弟子に当たる。
彼らのような大哲学者ならば、さぞ若者たちから絶大な信頼と尊敬を受け、弟子たちは服従しきっていたと思いきや、必ずしもそうではなかったようだ。『アシモフの雑学コレクション』(新潮文庫)に載っている、ソクラテスとプラトンによる若者への言及は興味深い。先ずソクラテスから。
「子供は暴君と同じだ。部屋に年長者が入ってきても、起立もしない。親にはふてくされ、客の前でも騒ぎ、食事のマナーを知らず、足を組み、師に逆らう」
次は自分の弟子について、プラトンのぼやき。
「最近の若者は何だ。目上の者を尊敬せず、親に反抗。法律は無視。妄想にふけって、街で暴れる。道徳心の欠片もない。このままだとどうなる」
アシモフは出典元を明らかにしていないが、これらが事実ならば面白い。最近の若者は何だ、というのは何時の時代も繰り返される現象だが、哲学史上に燦然と名を遺すソクラテスやプラトンが、凡夫と同じことをボヤき、反抗的な若者に手を焼いていたのを想像しただけで笑える。もちろん彼らには憶えやマナーが良く、優秀な若者に不足しなかっただろうが、不肖の弟子も確実にいたはず。
アシモフの本には、アリストテレスの若者への言葉は紹介されていないが、アリストテレスにも出来の悪い弟子がいたのは想像に難くない。たとえ道徳心の欠片もない弟子がいたとしても、彼らが知的巨人であることに揺るぎはない。
wikiにはアシモフがユダヤ系であることが載っているが、何年も前に見たユダヤジョーク集にも、今時の若者への皮肉があった。イスラエルでも生意気な若者に困っているらしく、公用語であるヘブライ語を話せない人物が隣人にこう言う。自分が話せるヘブライ語はシャロームと、失念したが、確か“どうも”という意味の言葉くらい。イスラエルに移住しても公用語が満足に話せず、イディッシュ語を使い続ける老人もいるという。
それに対し隣人は、お宅の息子さんのヘブライ語は完璧だ、というが、「しかし息子は、この2つの言葉だけは憶えようとはしない」と答える父。私にはジョークよりも、誇張され過ぎたフィクションに感じられたが。
何時の時代も何処の国でも、「最近の若者は何だ」は大人の口癖となっている説教なのだ。かつては若者だった大人も、言われる側から言う方になっただけで、自分たちの若者時代は美化された思い出にしたがる。私自身、気付かぬうちについ、「最近の若者は…」と言っていると思う。この言葉を口にするだけで、老化現象のひとつかもしれない。
数は多くないが、「最近の若者は素晴らしい」と持ち上げる大人もいる。若者の真の味方や理解者というより、商売上の都合、つまり金儲けのために若者に媚びる者や、メディア界で若者の味方ぶる連中が大半だ。雑誌や書籍、新聞、TVに取り上げられ、称賛される若者は時代の寵児となるが、若者自身とて商売なのだ。概ねメディアの世界で大人と若者は、持ちつ持たれずの関係だろう。
ネットの台頭でТVは以前のような影響力は低下したにせよ、未だに視聴者はТVに登場する“時代の寵児”に夢中となる。メディアの巧妙な戦略のせいばかりではなく、一般大衆も若きヒーローやヒロインを求めているのだ。
中高年世代の方なら、野坂昭如が出ていた大手洋酒メーカーのCMを憶えているだろう。CMで野坂が歌った曲の歌詞はこうだった。
「♪ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、二、二、ニーチェかサルトルか。みーんな悩んで大きくなった…」
Youtubeへの「大きくなった今も悩んでます」というコメントに、思わず笑ってしまった。成人後は子供時代と異なり、悩みもまた大きくなる。悩みも多岐にわたり複雑化するが、それを糧にするのが哲学者という人種だ。
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