テレビを消さずにいたら、近年よく聞くK-POPなるものの特集をやっていた。
私はK-POPなるものを知らない。どこになんの特徴があってK-POPなどというのか、POPはPOPだろうくらいの認識。しかし随分人気があるらしく、東方神起も知らないと言ったらこの間ある人から呆れられた。韓流は見るのに?
私はべつに韓流ファンではない。邦画だろうが洋画だろうがチャイナ物だろうが韓国物だろうが、気に入るものは気に入る。気に入らないものはいならない。ただそれだけのことだ。
だから韓流ファンのおばちゃんのように、何でもかんでもに嵌るわけがない。最近の韓国物にわざわざ見るに値するものがあるのかさえ疑問である。
しかしどこのレンタル屋に行ってもCDコーナーにまわると大きなK-POPコーナーなる文字を見る昨今、知らなくとも別段困るものでもないが、折角だから見てみた。
フムフム。こりゃ大変だ。歌、踊り、語学、その他諸々。凄いね。
日本のアイドル路線なんかとは大違いだ。
韓国200万人失業時代に始まった、国家事業としての文化輸出大作戦は知っていたが、K-POPもそうだったのね。
けれど、やっぱりどうでもいいや。馴染みやすい振り?どうもな~
世界中が熱狂しているというけどどうもな~。わかる気はするけど私好みではない。
顔は可愛いというよりやっぱりきしょい。しかし何より踊りがどうでもいい。
踊りっていうならやっぱりタンゴの方がいい。ワルツやブルースの方がいいし、
う~ん、懐かしいフォークダンスのほうがいいかも。
これは好みの問題というより感性の違いなのだ、多分。
例えばこの間赤江漠を調べていて、馬鹿なことを書いている文章に当たったのだが、
自分に赤江漠を理解する感性が欠落しているのだと自覚していながら、自分の感性で知りえたことを引き合いに出して他人に赤江漠を説明しようとしている愚。
以前、男女の極め道を歩いているなどという面白い人がいて、どうして極められないのか?
私はその人をユーモアとウイットに富んだなかなかの人物と踏んでいて、その楽しさにいつも笑って応対していたが、伊藤晴雨の呪縛画に触れて、サドマゾのことをひどく真剣に書いてきた時、「もしかしてあなたはエロとエロースの違いのわかる方ですか?」
そしてまた「男色や同性愛の違いのわかる方ですか?」と書いて送ったのだった。
「もしそうならば、あなたのように片っ端からなんていっても、それは徒労というものです。
一体あなたは、そのことのわかる女性があなたの傍にどれくらい存在すると思いますか?」
K-POPに狂ってしまうおばさん達の感性と私の感性は微妙に違う。
一度の違いは三百五十九度の違いと私はよく言ったが、そういうことだ。
説明など出来ない。コピー、クローン。そういう話もよくしたが。
どうでもいいことをもう一つ。
K-POPコーナーのそばにチャン・グンソクコーナーが大抵どこにでもあるが、
チャン・グンソクってどこがいいのか?
ずいぶん以前、深夜に主人が『ファン・ジニ』を見ていて、ハ・ジォンの初恋の人を演じていたのがまだずいぶん若かったチャン・グンソクだった。あまりにつまらない男だったので、よく覚えていたのだが、この人が日本で大人気というが、一体どこがいいのか理解に苦しむ。
しかし昨日のK-POPでは思うことあった。
200万失業は1997年。あれはウンジュが映画界に入った頃ではないのか?
ならばおぞらくその時分に父親は多額の借金を背負ったのだ。だから十年頑張ったら皆一緒に暮らせると思って頑張っていたと言っていたのだ。それが更に増えた。父親どころか母親の方も多額の借金をこしらえた。
私はウンジュの恋人は誰だったのだろうと時に考える。
ウンジュは死んでやり直したかったことがあったのだといつも考える。
そしていつもなぜ死んだのか?今も死なずにそこにいるのではないか?
そういう錯覚にとらわれる。好きな人の死も、死は死。
いつも死を淡々と受け入れている私なのに、なぜウンジュにはそうならないのか?
そこが我ながら不思議だ。ましてや死んでから知った人だというのに。
韓国ではもう一度会いたいスターの第一位をウンジュが独走しているという。
私も会いたい!