虚空見つ国・・・終わりなき物語

遥か古代からの遺伝的エトランゼ。
一人だけの幻想国開拓日記。

天河と元伊勢

2018年06月23日 | Weblog
私が初めて天河弁財天に行ったのは、
あれは初めて元伊勢に行った年よりだいぶ前だったろうと記憶する。
いい加減な記憶だけれども、天河のことなんか何も思わず、
ただ姉が行きたがっていたから連れもって行ったというだけで、
帰り道、なんだか大きな池のあった、確か大塔村のどこかの駐車場で、鍵をつけたまま車のドアを閉めてしまって、あえなくJAFのお世話になった、あの時だ。

選ばれた者しか行けないのだとかなんとか、
天河を特別視する人達というのがいて、
私はといえば、天河なんていうのは誰でも行こうと思えば行けるんだと思っていた。
ただ、あの頃はまだ秘境と言ってもいいくらいの恐ろしく細い暗い遠い道だったから、
遠方の人は行くのに躊躇するだろうくらいのことだったと今でも思っている。

その天河だが、ちょっと思うことがあって主人と出掛けた日があった。
あの日は凄かった。
柿坂宮司さんだったのかどうか、私はその人を知らないので、多分そうだとしか言えないが、
その方達の朝の祝詞奏上に運よく間に合ったし、お神酒もいただくことが出来た。
が、それより何より、その私が座った少し右後ろ側に、なんと天柱が建っていたのだ。
私は思わず見上げた。勿論、それは私の目にだけ見え(感じた)天柱だったが、
主人もなんにかは知らないが、何かにやけに感動していた。
その天河行きは、理由は分からずとも、元伊勢に行ったことと関係があったことは確かだ。

元伊勢は奇跡の場所である。私にとっては。
本当に色々奇跡を見せてもらった。が、それより何よりその佇まいが私達は好きだった。
それは籠神社では感じられない、不思議な感情だ。
私達が時折行った頃は、既に小野祖教さんはおられなかったと思うが、
あそこの土が新しい天河に運ばれていたとは!
今頃そんなことを知って、なるほど!なんて感動している次第。
実に遅すぎるではないか。

私は鉱物採集に行っても、今ではもう弁財天には寄らない。
理由はない。あまり行きたいとは思わないからである。
しかし元伊勢にはいつもいつも行きたいと思っている。
理由はない。
ただ好きだからだ。



天河というと私は美内すずえを思い出す。
そして、美内すずえというと毎晩立ち寄っていた居酒屋のママさんを思い出す。
「みうっちゃん」のお隣さんに実家があるとうむらさきの使いこなしの実に上手なママさんで、
店をたたんだあとは実家に帰ったんだとか。
夜遅かった私は、よくママさんの特別料理をいただいたし、ママに関してはいい想い出ばかりだが、
他の想い出は苦い。
まっちゃんは結婚しようはいいけれど、毎夜ストーカーもどきだったし、
つかまったら閉じ込められそうないと怖いおじさんから逃げるのも大変だったし、
まーあの頃は男難の相でも出ていたのかもしれないが、
想われるというのはありがた迷惑のことが多い。
しかし、店を閉めたことで縁がなくなったと思っていたマスターが駅前で待っていたのにはびっくりした。
今更その夜のことを詳しく書こうとは思わないけれども、
その夜私は救急車を呼んだのだ。あれからもマスターは毎日のように待ち伏せていて、
待ち伏せされるのは中坊くん以来だけれど笑うわけにもいかなかった。
ママとマスターが別れたのは私には関係ないよねと、
いまだ考える時がある。いやな思い出だ。
ママはママ、マスターはマスター。私はただ客、のはずだのに。
そんなこんなで、天河というとみうっちゃんで、みうっちゃんといえばママで、
しかしまー天河とは関係はないわいな。


今度天河に行ったら、あの元伊勢に行った頃のような心で、
あの社をくぐってみたいもんだと、天河曼荼羅に  思った。
元伊勢のお土はどこらあたりに混ぜられたんだろうか?







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笹目仙人とOさんのこと

2018年06月19日 | Weblog
昨日、大きな地震があったせいだろう。
今朝、弘法様やヨガナンダ師、長尾弘先生、そして健造先生の前に向う時に、
なんとはなく、笹目先生が箱根だかどこだったかの山に籠もられたという話を思い出した。
富士山大噴火を止められているのだと。
そういう話だった。
そして南海トラフなんていうのは、祈りしかないような気になった。
祈りで、その、多分、意味あるであろうお働きが止められるとは、
愚人の私には思えないけれども、
愚人であるが故に、そんなことしか思いつかないわけだ。

籠もられているからには、その時は誰も会えなかっただろうに、
Oさんはしきりと私を誘った。
山を下りられていたのかもしれなかった。
しかし紅卍に行くのに、そこまでの休暇は主婦の私には取れなかった。
というより、さほど会いたいとは思わなかったのだろう。
Oさんはそれからほどなくして、故あって岡山に引越した。
会いに来てくださいと頼まれて高速を飛ばしたこともあったし、
本を私書箱に送ったこともあったけれども、
お母上から電話があって、母親の身になれば無理ない面もあって、
結局、私はお母上の意向をくんで、Oさんと連絡を絶った。
Oさんのその後を私は知らないけれども、
修行したり戻ったり、
彼の一生はそういうふうに過ぎていくのだろうと思った。
彼が精神病院に入らなければ、少しは応援もしたかもしれないが、
彼は食べなければ生きていけない人だったから、
それはやむないことだった。

それから一年後だったか二年後だったか、、、
なぜかは分からないけれども、急に笹目先生に会いに行きたい気になった。
凛としたたたずまいのSおばあさんのせいだったかもしれないが、
そこで紅卍に電話を入れたら、笹目仙人は去年亡くなられたとの旨。
紅卍の資料は色々いただいたが、すでに遅れて来た者になってしまった。

同会の内紛のことや、若い素晴らしい修行者の話や、
そこのことはOさんから色々聞いてはいたが、
私は宗教団体や深見東州にも興味はなかったから、
笹目先生は本だけで終わることになった。

しかし笹目仙人が一番尊敬していた人が王仁三郎だったし、
その特異な経歴がやはり若き日からもう只者ではなくて、
時折思い出すともなく思い出す。
そしてその時は、まるで橋渡し人のように、
どこへでも出没し、色んな人を紹介してくれたOさんのことが偲ばれる。








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顔ではないが顔である

2018年06月11日 | 愛す、女優。
今は亡き鍼の大先生が、私の治療をしながらよく仰っていた。
名は体を表わすな~と。
私に名はないけれども、その頃私はちょっといいお話や、ちょっといい行いもしていたから、
そのことを褒めてくださっていたのだが、先生は私の体は他の女の人とは違うからと、
そのことを「名は体を表わす」と仰っていたのだった。
体は生き様を表わすというわけだ。
40過ぎたら自分の顔に責任を持てと言ったのは誰だったか?
そういうことでもある。
顔も体も外観のことではあるが、外観は内面の投影でもあるということだ。
心が変わると目が変わる。口元も変わる。故に印象が変わる。
きびきびと生きていれば、体がシャキッとする。そういうことだ。
美容に精を出し金を出し、ダイエットに金を出し時間を費やし、、、
ではないのである。


えらく真面目なことを書いているが、実は最近の映画やドラマなどのことを思っているのである。
レンタル屋に行っても手を伸ばしてみたいものがない。はて?と思った。
どうやらそれはDVDのジャケットのせいだと分かる。
主演者出演者たちの顔を見て、手がひっこんでしまうのである。
なんだろうな~世間では美しいとか綺麗だとか、イケメンだとか騒がしい者達も、
私の目にはそうは見えない。最初、ちょっとましかと思った俳優さんも、
何回か見ていると気分が悪くなるといったことはしばしば。
なんだろうな~
それは最近の歌の歌詞が、詩どころか、詞にも」なっていないことと同じようなことかな?
昨日は美しい女優さんも今はもういないからチャ・インピョさんでもと探したが、
彼の作品はどこにも飾ってないのである。


以前、プラトン君が、僕はただ美しいものに触れていたいだけなんですと言っていたことがあるけれども、
美しい心は最早本の中にしかいないのだろうかと
南州仙人の本なんか眺めて過ごす梅雨空の今日なのである。

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社寺仏閣

2018年06月05日 | Weblog
建築物としてはともかくも、私はなぜかしら、子供の頃から社寺仏閣に興味がなかった。
宗教団体と信仰心が同一のような感じ方をしていた若い頃は、信仰心の問題かしらんと、思った。
それはさておき、今もって、社寺にはほとんど魅力を感じない。観光化された有名処はなおさらに。

というわけで、東大寺の前は時折通るけれども、寄って行こうという気は全く起きない。あの大きな大仏様の御手だって、呪詛返しか、呪詛を止めているのかは知らないが、そういう研究者を知ったって、今更見に行きたいとは思わない。学校の遠足で行ったきり。布写経のおばあ様御贔屓の薬師寺にもいまだ行かず。なに、写経は家ですればいいのだ、と。

しかし、寺や神社は何らかの、大抵はおどろおどろしい意味を持って建てられたに違いないと思う。決して先生仰ったように顕彰するとか、神や仏やとか崇めてではないと思う。そういう所は決してそう多いわけではないと、なんとなくそう思うのである。おそらく一等最初は鎮魂の為だったろうと思うのだ。
時の流れと共に意味は少しずつ変わって来たとは思うけれど。


さてしかし、時折、とても気に入る社寺もある。それはとても素朴で。なぜかしら思わず手をあわせていたりする。
無相の三蜜。それが本当に尊いものだ。そう心から思える瞬間である。
天川鉱山の入り口付近にあった簡素な白鳥居は去年行った時には朽ち果てて木が転げていた。
鉱山山口神社や、各地の急峻な岩場に掘られた仏様などは、心からの祈りの場であったのだろうと思う。
昔も今も、権力者たちの醜い姿より、ずっと心洗われる風景だ。




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日本の地上絵

2018年06月04日 | Weblog
ナスカの地上絵が好きな私は、飛鳥にも地上絵があるという説に惹かれた。
開けば藤原宮のことだった。

藤原宮は呪詛の場だった?
それはそうかもしれないし、そうでないかもしれない。断定は出来ない。
信じられるのは、いくらも経たないうちに平城宮に遷都したには、大いなる理由があったに違いないということだ。




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