輪廻の沼 3

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アナーキーとアナーキーズム

2016年04月25日 22時08分09秒 | 心理学
アナーキーとは
2016年夏にはパージ3が発売になる。



これにちなみ、パージの単語を整理しようとパージの2部作目であるパージ・アナーキーのアナーキーを調べてみた。アナーキーとは無政府だったり、無秩序を意味するという。

パージの事を映画評論家は、非現実的と評した。

現実には、あり得ないという訳である。

果たして本当だろうか?歴史に学ぶと日本でも江戸時代には仇討ちが合法的に認められるし、戦の時代には屍がそこらじゅうに転がっていた。

戦時中ともなれば人の死は当たり前だった。その時代を知らずならパージを非現実的と評するのは、やはり評した評論家の不安を打ち消すための反動形成だったと言える。

あり得ないとは主観、非現実的も主観なのだ。

よってアナーキーとは大衆迎合を前提した日本人の主観には「こんな事あり得ないよー」と言うのが精神的な防衛機制であろう。

しかし、戦争にでもなれば昨日サラリーマンだった人が明日には銃を持っていたり、あるいは日本に核爆弾が東京にでも投下されようものならアナーキーは現実的となる。

イスラム国の軍資金を知っているだろうか?彼らは核爆弾を購入できるだけの充分な資金を保有している。そして、我々と称してきた日本人からもイスラム国を支援している輩もいるニュースがあったのは記憶に新しいのではなかろうか。

地震や政治的な情報が溢れているため、肝心の部分が希薄になりがちだが。この国にはテロに加わろうとする人間がいたのは事実である。

日本人だから大丈夫。

というのは、陳腐な批評である。現実にパージは売上が200億円を突破したスケールがある。それだけ映画評論家の現実と、実際の現実がミスマッチしていると言える。

確かにパージシリーズを通して強調されているのは、家族愛だったり夫婦愛であるがそれ以上に現実的な暴力の描写が強すぎて希薄になっている。

が、それ以上に大衆がこの映画に好奇心を見出すのはやはり脳の「人間の脳は主語が曖昧である」という本能的な部分から。法治国家が強いてきた迎合的な偽りの平和からの脱却願望があるからではなかろうか。

誰でも殺されたくないと思う反面、ほぼ大方の人が「死ね」「殺したい」「許さんぞ」と思った経験があるだろう。

つまり、人とは殺されたくない、殺したいという矛盾した心理が内包された動物だと言える。

これに「人間の脳は主語が曖昧である」という本能的な側面が紐付けると、殺されたくないと思っている人間は、やはり他の人も殺されたくないに違いないと思っている。

しかし、人を殺したいと思ってる人間は、やはり自分自身も殺したいと思うのだろう。それは、自分のコンプレックスを傷付けられた事が憎い、許せない。そして、殺したいと思うが、同時に、自分に非がある事も少しは理解している。

だから自殺的な願望がある。人が許せない人間は、自分も許せない。憎しみを抱くと、人はなぜか苦しい。それは自分が自分も憎んでいるからである。

アメリカで、息子を殺された犯人を母親が許しているドキュメンタリー番組がある。こんな事は、日本でさ起こらない。場合によっては、この母親は息子を愛していないという意見もあるだろう。

だが、それだけ日本という国は憎む事こそ家族的な愛であり、許す事に愛が無いと思ってる。だから、世界的にも稀にみる苦しみの国になってしまった。

息子を殺された母親は、犯人が憎くてたまらない。が犯人を殺しても息子が生き返るわけではない。

心理学が発達したアメリカでは犯人を許すという事が日常的な心理療法であるという。

憎めば憎むほど、理不尽さは繋がる。自責や他責は心理学では表裏一体である。日本では自責ばかりに美的な意味があるが、心理学的には表裏一体。

パージ・アナーキーでも、息子を殺された警部補が登場する。パージの日に仇討ちにしようと思ってる。しかし、警部補は仇討ちの途中にパージに参加したくないが強制的に参加させられた人間を助ける。

そういう人間が集まり、仲間意識が生まれ、やがてパージする、される側の両方の気持ちを理解する。

警部補が仇討ちを達成するか否かも、パージ・アナーキーの見どころの一つである。この映画は今の平和ボケした評論家が批評しても何の意味も無い。




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