
1.武家屋敷跡
○旧口羽家住宅
石見国邑智郡口羽村を領したことから口羽の姓を名乗る。 関ヶ原の役後、毛利に従い萩に移り、藩寄組として1,018石余りを領した。 口羽家は主屋と揃って残り、現存する屋敷として最も古く、かつ全国的にも比較的数の少ない武家屋敷武家屋敷の一遺例として価値がある。その表門は江戸桜田の藩邸の門を下賜されたもので、萩に現存の門では最大規模を誇る。
○旧二宮家長屋門
二宮家は、萩藩大組(891石)で、美祢郡嘉万村に領地を持っていました。藩政初期の二宮就辰は毛利元就の子で、正室妙玖の死後間もなかったため、家臣の二宮春久の子として養育されました。就辰は広島築城当時の普請奉行として敏腕をふるいました。
二宮家長屋門は、本瓦葺き入母屋造りで、桁行8間、梁間2間です。中央から左寄りに2間半幅の門をあけ、右手片潜門の西側には4畳2間の門番所を置き、表と門の内側に向かって出格子の窓を設けています。
○旧梨羽家書院跡
桁行13.75m、梁間8.02m面積107.7㎡の平屋建てで、西端を寄棟造り、東端を切妻造りとする桟瓦葺の建物です。
幕末の古地図によると、梨羽又次郎(大組683石)の屋敷になっています
○鍵曲
○旧児玉家長屋門
なまこ壁の長屋門。児玉家は、萩藩寄組(よりぐみ)に属し、2243石の高禄をもつ家柄。毛利一門や上級武士が暮らした堀内地区の平安古(ひやこ)の総門にほど近い場所に、広い敷地を有していた。現存する長屋門は、桁行32.67m、梁間4.59m。桟瓦葺き入母屋造りで、白壁になまこ壁の腰壁が見事。出入口付近には、出格子窓も設けてある。
○春日神社
○萩博物館
○旧繁沢家長屋門
繁沢家は阿川毛利家(7,300石)の分家で萩藩寄組(1,914石余)に属し、知行地を大津郡三隅村と阿武郡小川村に持っていました。阿川毛利家は吉川元春の次男繁沢(毛利)元氏を祖とする家で、毛利姓を名乗ることを許され、阿川毛利家の祖となりました。
繁沢家藩政初期の当主繁沢就允は藩の要職に就き活躍しました。
長屋門は桟瓦葺き切妻造り、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門を開けています。
○旧益田家物見矢倉
かつての萩城三の丸、堀内にある益田家は、永代家老を務めた萩藩の重臣。屋敷が城下と結ぶ北の総門に近い位置にあったため、見張り台も兼ね屋倉をもっていたという。高さ1.8mの石組の上に建った入母屋造りの建物は、棟瓦,懸魚、格子窓などの独特の意匠が施され、「屋倉長屋」との別名もある。またこのあたりには重厚な造りの物見矢倉や長屋門が続き城下町の雰囲気を存分に感じられます。
○北の総門
北の総門は、藩政時代に城下から三の丸(堀内地区)に入るために設けられた総門の一つであり、他に中の総門、平安古の総門がありました。かつては門番が常駐して人の出入りを監視しており、門は暮れ六ツ(酉の刻)から明け六ツ(卯の刻)までは閉じられ、鑑札を持った者以外の通行を禁止していました。
○田中義一像
田中義一は昭和恐慌で総辞職した若槻礼次郎内閣の後を受けて首相になった人物です。
長州の下級武士の子から、首相・陸軍大将まで上り詰めたサクセスストーリーではありますが、張作霖爆殺事件の後、昭和天皇から叱責され総辞職。
2.城下町風景
○菊屋家住宅
藩の御用商人を務めていた豪商・菊屋家。屋敷は江戸初期の建築、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史がある。藩の豪商・菊屋家は、大内氏時代には武士であったが、毛利輝元公萩城築城の際には有力町人として萩に入り、町づくりに力を尽くした。
○久保田家
呉服商・酒造業を営んでいた久保田家は、江戸時代の後期に建てられ、主屋・門・塀・離れが旧御成道(おなりみち・参勤交代の際に大名行列が往来した道)に面し、菊屋家住宅と対峙するかのように立ち並んでいます。
○町家風景
○唐樋札場
萩市の中心部、唐樋町にある札場跡。藩政時代に、萩の城下町と瀬戸内の三田尻港を結ぶ街道「萩往還」の起点となった場所で、周防・長門両国の一里塚の基点ともされた。幕府や藩からのお触れを書いた高札を掲げた札場や番所があり、罪人の見せしめも行った。歴史資料をもとに、2010年に復元された。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます