王様の耳はロバの耳

たったひとりの叫びでも、そのうち風にのって広がれば・・・

か弱く未熟で優しい日本人

2015-08-20 23:26:38 | 雑感
先週末に発表の共同通信社による世論調査で、内閣の支持率が大きく持ち直した。

不支持率を上回りこそしなかったが、同社の前回の調査結果、37.7%から5.5ポイント上昇し43.2%となった。

「「評価」44%、「評価しない」37% 共同通信世論調査、内閣支持は43%に上昇」(共同通信/産経ニュース 8月15日)

これを受けて、16日の拙記事「内閣支持率と法案のゆくえ」で、

>私的にはやや意外な現象だ。安倍総理の『戦後70年談話』の影響はそれほど無いと踏んでいた。
>だが、世論は斯くも「デリケート」であることを思い知らされる。
>いや、政治のプロ達はそのへんのところ、充分に承知なのかもしれない。

>安倍の談話を「評価する」割合は高く、練りに練った内容が功を奏した結果だろう。ただし、「評価しない」も4割近くに及ぶ。
>内閣の支持率は、依然「不支持」に傾いてはいる。だが、これを見るとまだまだ微妙な均衡の上にあり、ちょっとしたことで針が大きくブレることがわかる。

>これはやはり、政党支持率で見た際、自民党が30%台を維持し続け、野党の支持率がなかなか上がらないことからもそれは言えるだろう。
>「戦争法案」の廃案を訴えながら、方や「対案」などと腰の落ち着かない民主党。更に維新の党との低次元で滑稽なやり取り。これでは無理もない。国民に見透かされるのは当たり前である。
>そうしたことの「下支え」が内閣の支持率をふらつかせているのではないだろうか。


・・・と書いた。

そして更に週明けに発表された産経新聞社とFNN(フジテレビ)による世論調査でも、同じような結果が出た。

「内閣支持率43%に回復 首相談話「評価」57% 安保法案「必要」58%」(産経ニュース 8月17日)
「FNN 世論調査」詳細

安倍内閣の支持率は前回より3.8ポイント上がって43.1%、不支持率は7.6ポイント下がって45.0%である。

またいずれも、安倍総理の『戦後70年談話』についての評価は共同通信が「評価する」44.2%、「評価しない」37.0%。産経新聞社/FNNでは「評価する」が57.3%、「評価しない」が31.1%であった。

もっとも、案の定というか、産経新聞社/FNNの世論調査の設問では、「Q4. 安倍首相が発表した「戦後70年談話」についてうかがいます。この談話は、「反省」、「侵略」、「植民地支配」、「お詫(わ)び」という言葉を盛り込み、「歴代内閣の立場は今後も揺るぎない」と表明しました。あなたは、この姿勢を評価しますか、評価しませんか。」や「Q6. この談話は、積極的平和主義を訴え、国際社会で責任を果たしていく「未来志向」を打ち出しています。あなたは、談話全体を評価しますか、評価しませんか。」といった“誘導”や“印象操作”が相変わらず見られる。また、総体的に2~3%の誤差もあろう。だが、それにしても・・・である。

しかし、国民は斯くもまやかしに乗せられ、誤魔化しに弄ばされるものなのだろうか。実際、それほどに世論は移ろいやすいということでもある。


そこで、私の頭には「共依存」という言葉が思い浮かぶ。

例えば、子供にとってはどんな親であろうが、親はそのとき唯一頼れる存在だ。その親がたとえ極悪人であったとしてもである。

それに準えれば、国民にとって、それこそ暮らしや命を守ってくれるのは時の政府しかない。
一方で国民はある程度今の自民党政府の悪政は承知の上であろう。だが、ほかに頼れるものが無い状態でそこに頼らざるを得ず、その点、「支持する」と言ったところで“積極的支持”はそう多くはないのかもしれない。

また、平和ボケとはよく言ったもので、爆弾テロも内戦も、日本人にとっては対岸の火事である。
日々過ごす中で、どこから弾が飛んでくるでもなく物理的な身の危険を感じるでもない。だがそれは政府のお陰? 「親」が守ってくれているから? 本当にそうなのだろうか。
また、苦しくても何とか生活は成り立っている。そこに、その内良くなるだろうという期待感と希望的観測があり、それに支えられているからこそのものがある。

そんな中、出来の悪い「親」に優しい言葉を掛けられればどうだろう。つい情にほだされて思わず見直してしまう、ということがあるのではないかと思う。

共依存

AC(アダルトチルドレン)の精神的虐待の象徴的特徴として、共依存 (co-dependency)があげられる。
典型的な例として、親が強力に子どもの精神を支配する行動が、子どもの方も支配されたいという特異な感情を生み出し、親も子どもも支配し支配されることに奇妙な安心感を見出して、支配を通して相互依存するという現象がある。
これは子どもにとって支配に反抗するより支配を受け入れる方が家庭内で波風を起こさなくて済むため、平穏な環境でいるためのサバイバル(生き残り)手段と解釈されている。
通常、子どもはある年齢に達すると親の支配から脱しようと試みるのが自然な形態だが、この相互依存関係が強い場合、親子関係は成人してもなお支配の相互関係という不健全な状態が続く。
よりわかりやすい表現で表せば、子離れせずに子どもを人生の目的とし続ける親と、それを受け入れ続けざるを得ない精神構造を埋め込まれた子ども、ということになる。これがひどい場合は親が死亡するまで関係を健全化することができず、極端な例として母親が死ぬまでともに暮らす、つまり一生結婚の機会を奪われることや、親同士が認識しただけのお見合いを強制され、世間体を重視した愛のない結婚生活を送る場合もある。



共依存

自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存しており、その人間関係に囚われている関係への嗜癖状態(アディクション)を指す。すなわち「人を世話・介護することへの依存」「愛情という名の支配」である。共依存者は、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、そして相手をコントロールし自分の望む行動を取らせることで、自身の心の平安を保とうとする。

共依存という概念は、医療に由来するものではなく、看護現場サイドから生まれた。共依存と呼ばれる前は、Co-alcoholic(アルコール依存症の家族)と呼ばれ、当初は「アルコール依存症患者との関係に束縛された結果、自分の人生を台無しにされてしまっている人々」らの特徴を説明するために使われていた。アルコール依存症患者を世話・介護する家族らは、患者自身に依存し、また患者も介護する家族に依存しているような状態が見受けられることが、以前より経験則的にコメディカルらによって語られていたからである。

共依存にある状況では、依存症患者がパートナーに依存し、またパートナーも患者のケアに依存するために、その環境(人間関係)が持続すると言われている。典型例としては、アルコール依存の夫は妻に多くの迷惑をかけるが、同時に妻は夫の飲酒問題の尻拭いに自分の価値を見出しているような状態である。こういった共依存者は一見献身的・自己犠牲的に見えるが、しかし実際には患者を回復させるような活動を拒み(イネーブリング)、結果として患者が自立する機会を阻害しているという自己中心性を秘めている。

これはアルコール依存症だけではなく、ギャンブル依存症の家族、ドメスティックバイオレンス(DV虐待)などにも見られる現象であると言われている。現在では、単にアルコール依存症患者家族との関係だけでなく、「ある人間関係に囚われ、逃れられない状態にある者」としての定義が受け入れられている。

例えば、暴力をふるう夫とそれに耐える妻の関係、ギャンブル依存者の借金を穴埋めする家族、支配的な親と愛情を受けたい子供の関係、相手から愛されることが目的となっている恋愛関係などがある。この観点から、自立できない子供のパーソナリティ障害・恋愛における自己愛的な障害・ストックホルム症候群にまで共依存の概念が検討され、使用されるようになっている。

共依存関係は、一見すると献身的に見え、共依存者は「だってあの人は私が見捨てたら生きていけません」などの発言をすることが多い。しかし行き過ぎて他人の世話をすることは、当人の能力を奪い、無力化し、その人の生殺与奪を自分次第とする支配になり得る。愛情という名に「完璧に支配しているという快感」を得たいという自己中心性が隠されている。

共依存という概念は、正しく使えば他者と自己との分離、精神的な自律に役立つ。しかし、共依存に対する誤った認識を持つと、「自分が共依存であるからいけないんだ」という考えにより自らを追い込む可能性があり、注意が必要である。そもそも人間関係において誰かに依存するということは病理とは認定されておらず、あくまでも当事者自身が関係に苦痛を感じていることが問題とされる。

Wikipedia「共依存」より


些か乱暴な話かもしれない。そしてもちろん、これは必ずしもダイレクトに世情に結びつくものでもない。また当然、ついての異論もあるだろう。だが私はどうしても「日本国民」と「日本政府」の関係が、この「共依存」のイメージに重なって思えてしまうのである。

私は「社会学」といったものはよくわからないが、つまり、国民国家は、国民と政府の相互依存によって成り立っていると考えるならば、これも多少なりとも頷ける点があるのではないかと思う。

意気地が無く臆病であるのと「優しさ」は紙一重でもある。一方、潜在的な「支配者への従属願望」からか、日本人は未だに天皇を崇めてしまうようなところもある。
そんな国民性、その「日本人」。それを生かさず殺さず、権力者はその辺のところをよく心得ている。

この先、国民性につけ込んで悪法がまかり通れば、やがて国は「機能不全」に陥る。そのとき国民は、今度はストックホルム症候群に罹患するのだろうか。


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