忘れな草の花籠

確かハンドメイドブログだったはず・・・

「長谷川等伯」記念講演会 その2

2010-03-02 20:21:47 | おでかけ
さて昨日に引き続き、長谷川等伯展の記念講演会について書こうと思います。
続いては第2部。
京都国立博物館美術室長の山本英男先生のお話です。
室長さんは「狩野永徳展」の担当をなさってた方だそうです。
ちなみに雨男だということで、
当日も少し雨が降ってました・・・。

題目は「信春から等伯へ―新発見の金碧花鳥図屏風を中心に」です。
この等伯展が開催される前に
等伯が描いたとされる屏風が発見された、というニュースがありました。
私も見た記憶があります。
けれどももともとこの絵は等伯が描いたものではないのか・・・という
話があったそうで
今回この特別展に合わせて大々的に発表されたとのこと。
いわば宣伝だそうです。
そういうのがちょこちょここの業界(?)ではあるそうで、
そういう裏事情も教えていただきました。(笑)

さて今回の講演はレジュメがないので
紙の裏側の白紙の部分を使って乱雑に書きなぐっているので
読み返してもちょっとどう説明していいのか
難しいです。
でも思い出しながらがんばって書こうと思います。

今回の等伯展でもわかるように
等伯の遺作はかなり多いです。
しかも初期~最晩年にわたるまでコンスタントにあります。
それはいちばん失いやすい、初期の作品が
能登で活動していたときのものだということもあり、
タイムカプセルのようになっていたのです。

等伯といえばあの祥雲寺(智積院)の障壁画です。
秀吉が息子の菩提を弔ったお寺の障壁画。
あの金碧画です。
それまでは仏画・水墨画・肖像画などを描いていた等伯。
それが突如として祥雲寺の金碧画が現れてくるのです。
秀吉といえば天下人。
そのような大人物がいくらうまいといっても
今までに一度も金碧画を描いたこともないような絵師に
命じるか、という疑問が生まれます。
しかも愛息の菩提寺。
この障壁画が完成したのが1592年ごろだといわれてます。
上洛して約20年ほど。
その間に1枚も金碧画を描いていないのは疑問が残る、ということです。

当時京都では金碧画が大流行。
需要も高まってます。
上洛した等伯が狩野一門の門をたたいて
師事したというふうに考えられるのも自然ですよね。
しかも狩野家は法華宗。
まったく縁がないわけではないですよね。

等伯は祥雲寺の障壁画を描く以前に
御所の対の屋の障壁画制作をめぐって永徳一門と対立し、
その話を阻止されました。
(要するに永徳から障壁画の制作をジャマされたわけなんですよね。)
それは1590年のお話だそうで、
そうなるとそれ以前に金碧画について勉強していたのでは・・・?ということが
推測されます。

ではどういう金碧画を描いていたのか?
それが今回発見された「花鳥図屏風」なのです。

この花鳥図はおそらく左隻だろうという話です。
左側は大きな松にからんでいる藤の花。
枝にはセキレイが。
岩には山つつじ。
描かれている花鳥によって夏ということがわかります。
右側には海棠の木。
海棠の木の下のほうにはたんぽぽやすみれ。
鳥はジョウビタキやヒバリ。
輪郭の弱い雲もたなびいてます。
季節は春。

この描き方がおそらく等伯筆のものだろう、と。
特に松が特徴的だということで
松の枝が天秤型に屈曲しているとのこと。
そして待つの樹皮の色や柄。これが等伯のものに似ているとのことです。
「西安母図」や「牧馬図屏風」の例を挙げられていました。
等伯も永徳も大きな巨木を描いていますが
等伯のほうは威圧感がなく、細やかな草花も描いているのが特徴で
永徳のほうは威圧感があり、律動感に満ちている絵だとのこと。
狩野派の描き方を学びつつも
等伯らしさをこれからおしだしていこう、そんな気持ちがあったのでしょう。
さて制作年代ですが、
おそらく等伯の40歳前後だという話です。

うまくまとめられてませんが
だいたいこういった内容でした。
とても充実した時間を過ごせてうれしかったです。
自分の知らないことを知るって
本当に楽しいですね。

講演会終了後はむかえの車がくるまで
ラウンジで休憩。
昨日の画像にあったお菓子を食べました。
「つぶらつぶら」というお菓子なのですが
これがとってもおいしかったです。
どら焼きのような感じなのかな。
もっちりしていてかなりおいしかったので
家族のおみやげ用にも買いました。
コメント
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