おじさん、昨日、一昨日といとこが亡くなって、その葬儀関係であわただしくしていました。おじさんより20歳も年上のいとこですが、おじさんが子供のころ、おじさんの古里に一緒に住んでいて、大変お世話になりました。700mくらい離れているとはいえ、おじさんの実家からは一番近い隣人でもありました。
喪主の奥さんもおじさんのいとこということもあって、おじさんの生活の最優先としたところです。親族だけの葬儀ということでしたので、新聞には掲載せず葬儀終了の新聞掲載だけでした。
この年になって、身近な人が亡くなっていくことは、わが身に置き換えるようになってきています。若いころは他人事のように思っていたのですが、おじさんの余命年齢はこれまでの自身の人生よりははるかに少なくなっていることは論をまたないところです。
どこまでも生き続けたい、朽ちてしまうことは考えたくない、だけど人間も自然だと事を考えると受け入れざるを得ません。でもなぁ......。
親戚や友人など周りの人が亡くなるたびにいろいろと考えてしまうこの頃です。
そこで、おじさんなりにそのたびに考えることが「人生は一度、誰のために生きるのでかなく、自分に納得できる、自分らしく生きよう」と。ただ、自分のためにといっても、自分勝手ではなく、社会の中で生きていくこと、家族とともに生きていくこと、こんなことは当たり前ということが前提としてあります。家族には「お父さんは自分のことしか考えていない」とレドカードが出まくっていますが....。
きのうは、悲しいお別れであったのですが、おじさんにとって懐かしいこともありました。おじさんの父親が亡くなって17回忌をつい先日終わらせたのですが、その会場にいた別のいとこの息子のAさんが、おじさんに声をかけてきました。「この礼服は、おじさん(おじさんの父親)の形見分けにもらったものです。これまで着ることはなかったのですが、少し太ってしまって自分のを着ることができなくなってしまったので、着て見たらちょうどよかったので着ました」と。
おじさんの父親は、なで肩ではありましたが胸幅が厚く、いかにも開拓民という体形をしていましたから、今のAさんにもちょうどよかったのだと思います。
おじさん、とても感激しました。父親がかつて身に着けていたものをAさんを通して出会えるとは思っていませんでした。おじさん自身も父親の形見のもので身につけているものがいくつかありますが、人を通してこのように見せられた事によって格別な思いを抱き、胸にジーンと来るものがありました。
葬儀が終わって、祭壇の菊の花をいただき自宅に戻り、おじさんの両親に葬儀報告をしました。「Hさんが、そちらに向かっているから、迎えてあげてください」と。
合掌