東方のあかり

東アジア(日、韓、中+その他)のまとまりを願ってこのタイトルにしました。韓国在住の日本人です。主に韓国発信の内容です。

憲法9条 高橋教授の思い。

2020-04-06 16:55:54 | 韓国物

ブログ筆者は、わが故郷・米沢にいらっしゃる山形大学名誉教授の高橋寛さんとここ数年来
自宅にお招きをうけたりしながらのお付き合いをさせていただいている。
高橋さんは、原子力の専門家でありながら、原子力の悪に気づき、
「さようなら原発米沢 代表」を長年やって来られている。
その高橋さんから最近、メールが届いた。
そこには「私の遺言として、国民投票になったらばらまくつもりです。」としながら
「憲法9条」に対する高橋さんの思いが切々と綴られた非常に内容の濃い文章が添付されていた。
高橋さんはまだまだお元気でこれからもまだまだご活躍される方であるが、
遺言という単語を使わずにはいられないほどの強い思いがここに込められているということだと筆者は理解した。
ここに全文を掲載したい。

                                      祈りとしての憲法9条
                                      髙橋 寛(山形大学名誉教授、さようなら原発米沢 代表)
[昔話に込められた祈り]
児童文学“ゲド戦記”の翻訳者 清水真砂子さんは敗戦の時4歳で、ソ連に追われて家族と北朝鮮から引き揚げてきた。
夜中38度線の河を徒歩で渡る時、リーダーの人が「これから声を出してはいけない。
子供が泣く時は口に布を詰めるように。」との言葉の意味を当時子供の頭でもしっかり理解したという。
女子大で児童文学を講義していた頃、学生3人が部屋に来て「戦争体験者が羨ましい」という。
清水さんはびっくりして「どうして?」と聞いたところ「皆さん本当に生き生きと話をする。私たちには何もない。」と答えた。
これを聞いて清水さんはそれまで“戦争体験をできるだけ後世に引き継がなければ”と思っていたが、考えが変ったという。
清水さんはゲド戦記の中で次の言葉に出会って、その魅力に取り憑かれた。

  “世界にもし希望があるとしたら、それは名もなき人々の中にある。”

どの国でも昔話というのは、何世代にも渡って親から子へ、祖父母から孫へ伝えられてきたものである。
文字が読めなくても、口から口へ伝える話であった。
カチカチ山のように時にはお婆さんが狸に殺されるなどという残酷な話も含みながら、
しかし最後は必ず「めでたし、めでたし」で終わるのが常である。
現実には、正直に暮らしていてもそれが必ずしも報われない社会であることは、皆よく知っていた。
それでも、あるいはそれだからこそ、「めでたし、めでたし」で終わらせたのは、そこに人々の“祈り”があったからではないかと清水さんは言う。

[希望こそ幸福]
“物が沢山あることが幸福なのではなく、希望に溢れていることが幸福なんだ”とよく言われる。
確かにフィリピンやアフリカなどの輝くような子供達の笑顔を見ると、それがよく分かる。
将来何になりたいかと聞くと、間髪を入れずに“学校の先生、看護婦”などの答えが返ってくる。
一方日本の子供達を見てると、“塾通い、いじめ”など気の滅入る話ばかりである。
小学生の朝の登校風景を見ると、一列にうつむいてとぼとぼと、どこかに引かれて行く羊のようである。
将来何になりたいと聞かれても、すぐには答えられないのではないだろうか。
将来の不安におののく社会では、できるだけ多数派に身をおいて安全を図る自衛本能が働く。
そして強そうな人に媚び、弱そうな人をいじめるという風潮が生まれる。
このような“いじめ社会”は、子供社会だけでなく、今や大人社会へも拡がっているように思われる。
西洋の哲学はデカルトの “我思う故に我あり”で始まった。
それまでの神の存在を前提にした社会から決別し、ガリレオやニュートンの科学的世界観を支えた。
産業革命により人間の欲望が開放され、未開地を植民地にすることによって先進国が経済発展をした。
植民地を争って世界大戦が起こったが、核爆弾の恐怖からとりあえず収まったように見える。  
しかし争いは内攻し、簒奪の対象は次世代が享受するはずの富になった。
“難しい問題は先送りにして、旨味だけ先にいただく”という手法である。これが“今だけ、自分だけ”という近頃の風潮を生んでいる。
石油の使いすぎによる異常気象、トイレのない原発、景気対策と称する無制限の赤字国債など、
いずれも次世代に途方もない負の遺産を背負わせるものである。これらが今、若い人々を底なしの不安に陥れている。
安積力也さんは、小国の基督教独立学園高校校長をしておられた時、
卒業を目前にした3年生に「自分がいま怖れているものを書きなさい」と言う課題を出した。
作文を読んで次の二つが浮き彫りになって衝撃を受けたという。
    「時代が怖い」、「人が怖い」
誰か強そうな人に自分の不安感を預けてしまい、あとは目前の幸せだけを追う。
頼るべき人がどれだけ不正義でも気にしない。今はそんな時代ではないだろうか。
放射能が怖いがとりあえず忘れて暮らそう。沖縄は遠い土地の出来事。
政治の話をするのは野暮、食べ物と温泉と病気の話で十分。異常気象だが車は手放せない、などなど。
私たち70・80代の老人は、子供のころ貧しくて年中腹をすかせて暮らした。
しかし周りも皆貧乏なのでそれが不幸だとは誰も思わなかった。未来を信じ、友達と仲良く、みんな幸福だった。
しかしその私たちが、いまのこの不安な社会を作ってしまった。

[4人称の我]
私の高校時代の親友で、静岡大で哲学の教授をしていた池田善昭君が、4年前
“さようなら原発米沢”第3回の集いで、“4人称の我”という講演をしてくれた。
自分がいま居るのは父と母の出会があったから、父や母が居るのはそれぞれの
祖父と祖母が出会ったから、そしてどんどんさかのぼって、気の遠くなるような沢山の出会いが自分の存在を支えている。
このような出会いのすべてをひとまとめにして “4人称の我”  と言うのだそうである。
近代科学はデカルトの“1人称の我”で始まったが、今や科学技術の様々な問題が人々に言いようのない不安を抱かせることになった。
マイクロプラスチックからの環境ホルモンによる異常児出産。
遺伝子操作による人間の改造。人工知能による仕事の喪失。金融資本暴走による所得格差。
などなど様々な閉塞状態からの突破口として、東洋思想に救いを求める動きが世界的に広まってきた。
その中心思想が“4人称の我”であると言う。
(1)仏教思想との結合
人間の体は60兆個の細胞でできている。このうち1兆個が毎日食べる食べ物によって更新される(神経細胞は例外)。
従って食べ物として取り入れられた無数の生命(動植物)も自分を支えている。4人称の我というは、祖先が食べてきた世界中の生命に繋がっていることになる。
米沢には草木に感謝するための草木塔が建立され、“山川草木悉皆成仏”などの碑文が彫られたものがある。
全ての生命が自分に繋がっていると言うのは仏教の教えである。
(2)死生観
1人称の我はやがて死んでなくなるが、4人称の我は子孫を残すことによって、永遠の命を得ることができる。
子や孫の中に生き続けると考えると、死ぬことが怖くなくなる。
結婚し、子や孫を持つということは、4人称の世界の仲間入りをすることで、実にめでたいことなのである。
生命科学者の柳澤桂子さんは、“地球上の生態系は1枚の織物のようなものであり、自分の命もその一部で、
死ぬと言うことは、この命を宇宙にお返しすることだ” と考える。
(3)道徳
自分の子孫に「俺の先祖はひどい人間だ」などという思いを絶対にさせたくない。 
立派だと思われる必要はないが、せめて恥ずかしくない祖先でありたいと思う。
この思いは、昔の人が“誰も見てなくてもお天道様が見ていなさる”と毎朝手を合わせたことに通ずる。
そしてこれが道徳を生み、人間の品格を生むものであると思う。
近頃、政治でも裁判でも、“道義的”には明らかに間違っているのに、“法的”には裁かれないということがものすごく増えている。
法律の条文というのは、白黒いかようにも解釈できるものであり、そのいずれかを決めるのは、政治家あるいは裁判官の道義心である。
[祈りとしての憲法9条]
我々老人といえども、4人称の我の立場に立てば、
次世代の子や孫がやがて地球滅亡の日に立ち会うかもしれないなどと想像することは、到底耐えられないことである。
特に孫たちが“戦争が起こって徴兵制で戦場に駆り出されるかもしれない”などと思うと、不安で死に切れないことになる。
従って戦争放棄、非武装の憲法9条をなんとしても護りたい。
現実はそんな甘いものでないことはよく分かっている。
しかしそれでもなお憲法9条を掲げていたいというのは、昔からの名もなき人々が昔話に込めてきた祈りなのだと思う。
理想を現実に合わせてしまうことは、祖先から託された人間の誇りを捨て去ることを意味する。
世の中がどんなに泥にまみれようとも、憲法9条を人類が生き延びるための灯火として掲げていたい。

ここまでが高橋寛さんの渾身の文章である。
草木塔という話が本分の中に見えるが、これ、全国的にもあるようだがどういうわけか米沢にいちばん多いということ(ネットより)。
種田山頭火に「草木塔」と題する長詩があるが、これと米沢に多数存在する草木塔は別物である。
米沢のそれは、草木に感謝の意を込めて建てられた碑である。
(筆者は米沢人であるがこの草木塔のことは今まで知らなかった。はずかし;;;)

本文の中で、
「現実はそんな甘いものでないことはよく分かっている。しかしそれでもなお憲法9条を掲げていたいというのは、
昔からの名もなき人々が昔話に込めてきた祈りなのだと思う。」
のところに、ブログ筆者は、9条を死んでも守りたいという高橋さんの意志を思った。凄まじい文章だと思う。

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