東方のあかり

東アジア(日、韓、中+その他)のまとまりを願ってこのタイトルにしました。韓国在住の日本人です。主に韓国発信の内容です。

あしながおじさん、ありがとう。

2021-06-28 10:58:42 | 韓国物

大邱(テグ)で食堂を経営するキム・ミスクさん(仮名)は今年3月、
国際救護団体「ワールドビジョン」から白黒写真を何枚か受け取った。
カナダから届いた写真には、ある外国人青年が韓国人の子どもを抱いて明るく笑う姿が写っていた。
青年の名前はスタン。その名に接すると、彼女の脳裡にかすかな記憶が浮かんだ。
保育園で過ごした幼い頃、後援金と手紙を送ってくれ、直接訪ねてきてくれた青年だった。
微笑んでいる写真の中の少女は、忘れていた幼年時代のキムさん本人だった。
聯合ニュースやワールドビジョンによると、過去にキムさんを援助したスタンは
90歳の高齢者になる現在まで、「あの時のあの韓国人少女」を忘れられず、
約50年が経った最近、とうとう再会することになったのだ。
彼は高齢のうえ持病まで患い一人で行動することが難しく、
記憶力や言語能力もほとんど失ってしまったが、
写真の中の韓国人少女の名前だけは、はっきりと覚えていた。
若い頃、不動産投資会社のブローカーとして働いていたスタンは、朝鮮戦争後、
韓国の子どもたちが直面している困難に関するニュースに接し、
ワールドビジョンを通じて後援を始めた。
韓国のある保育園に住む少女に手紙と後援金を送って縁を作ったスタンは、
後援開始から数か月経った1965年、直接韓国を訪ねてきた。
うわさを頼りに保育園を探し出したスタンは、当時少女だったキムさんに会って
数日間、時間を共に過ごした後、洗濯機とピアノを保育園に寄付してまたカナダに戻った。
その後2人は連絡が途絶えたが、スタンは「韓国の少女」を忘れなかった。
韓国訪問から56年が過ぎた今まで、彼は当時、金さんと一緒に撮った写真を大切に保管していた。
スタンの娘シンディは「幼い頃から、父から後援児童に関する話をよく聞いていた、
父は'韓国にも娘がいるんだ'と言い、私も写真の中の女の子を姉妹のように思って育った」と話した。
キムさんは、しばらく忘れていた「あしながおじさん」が自分を覚えている
という知らせを聞いて涙を流した。 12歳の時に養父母と養子縁組をして保育園を出た後、
金さんはスタンと連絡が途絶えた。不幸にも養父母は金さんに愛を与えなかった。
様々な雑用をすべて金さんにさせ、学校にも行かせなかった。
22歳に就職して家を出るまで、金さんは「一瞬も休むことなく奴隷のように暮らした」と
当時を回想する。
数十年が過ぎ、キムさんも子どもと孫を持つお婆さんになったが、
幼い頃親から愛されなかったしこりは消えなかった。
家族と一緒に思い出話に花を咲かせることのできる幼年期の写真が1枚もないというのが、
彼女には一生の恨みだった。そんな金さんにとってスタンの消息は、
まるで失った両親に再び会ったかのような朗報だった。
自分の幼い頃の写真を大切に保管し懐かしがる人がいるということが、
奇跡のように感じられた。二人は今月六月24日、ズームで56年ぶりに再会した。
ほとんど話せないスタンの代わりに、通訳士になった彼の娘が、
父親が一生大切にしておいた写真を見せてくれた。
写真一つ一つに金さんとの思い出が詰まっていた。
話すことはできなかったが、スタンもやはり画面に見えるキムさんの姿を見て涙ぐんだ。
ズームの間中、キムさんは「覚えていてくれてありがとう」と目頭を赤くした。
スタンと金さんは、新型コロナ事態が終わった後に会うことを約束して、ズームを終えた。
後援を受けていた幼い少女も、他の子どもたちの後援者になった。
キムさんはスタンと連絡がついた後、ワールドビジョンを通じて海外の児童2人に後援を始めた。
スタンがそうだったように孤独な子供たちに暖かい心を差し出し、
彼らの人生を慰めてあげたいとキムさんは語る。
「生みの親も捨てた私を無条件で愛してくれたスタン後援者のおかげで、
不幸だとばかり思っていた私の幼い頃が、幸せな記憶に変わりました。
彼の愛と暖かい心が少しでも世の中に広がるように、これからは私が後援を続けていきます。」
キムさんは熱い涙の中で、そう語った。
お二人の再会が実現できるよう、心より祈る次第だ。
コロナが一日も早く収束してくれますよう。
(今回は世界日報の記事を底本にさせていただいた。感謝)。

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