東方のあかり

東アジア(日、韓、中+その他)のまとまりを願ってこのタイトルにしました。韓国在住の日本人です。主に韓国発信の内容です。

世界唯一、四肢麻痺の歯科医師。

2024-03-01 06:52:22 | 韓国物
体の不自由な歯科医がいる。小説の主人公としても信じがたい世界
唯一の最重症障害者歯科医師である盆唐(ブンダン)ソウル大学病
院の李ギュファン教授(45)だ。

世の中は簡単だった。勉強がよくできて、188センチと高い身長に
ふさわしくテニス・水泳などできない運動がなかった。医学部より
勉強が楽で(本人の言)、お金はもっと儲かるし、いっぱい食べて
豊かに暮らしたいと思い歯科大学(檀国大学歯科大学)に入った。
召命意識、そんなものはなかった。
卒業したらお金をたくさん稼いで、良い家で良い車を運転して旅行
して暮らすと信じていた。人生が思い通りに運ぶという自慢はある
刹那、一瞬間にして、くず折れた。

文字通り、折れた。歯科大学本科3年生の時の02年夏、友達につい
て行ったプールでダイビングして首が折れた。医学的に説明すると、
手足はもちろん心臓・肺を動かす主要神経が通る頸椎3、4、5、6番
が損傷した。四肢が麻痺して呼吸さえうまくできないまま集中治療
室で一週間で目を覚まし死ぬ日だけを待った。泣きながら祈ったり
もした。

「神様、私を立たせてください」。奇跡はなかった。

助けてくれと言った祈祷は「どうか私を連れて行ってください」に
変わった。血をどくどく流すほど強く舌を噛んだりもしたが、
あまりにも痛くて死ぬほど噛むことはできなかった。
一日中、各種数値が上がったり下がったりするたびに「ピーピー」と
鳴る警告音と、自分の血管が炎症を起こし爆発し続けることより、
そばで怒鳴ったり泣いたりしながら死んでいく他の患者を毎日
見守るのがより辛かった。
「おれももうすぐあんなことになるんだ」という考えに狂いそうだ
った。踏ん張ったのではなく、成り行きに任せた。勝手に死ぬこ
ともできないから。

集中治療室なので、家族の面会は1日1、2回20~30分間許可され、
事実上24時間一人で天井だけを眺めていなければならなかった。
耐え難かった。看護師たちに10分でもいいから読み物を見せて
くれと言った。精神はまともなのに四肢麻痺した若い患者が可哀
想だったのか、時間があるたびに順番に『本の泉』雑誌や逆境を
克服した人々を扱った新聞記事など人生を肯定的に眺める文章
を広げて見せてくれた。時には中国武術漫画や『スラムダンク』
のようなマンガを持ってきた。

次第に希望が芽生えた。明日死んでもやりたいこと、どう考えて
もそれが歯医者だった。たとえだめでも努力だけでもして死に
たかった。みんな不可能だと言ったが、あまりにも切実だった
し、あまりにも無知だった。とりあえずぶつかった。

檀国大学病院を経てソウル大学病院の集中治療室から退院した後、
母親と2歳違いの兄が押してくれる車椅子に乗って学校に行った。
すべての教授研究室のドアをノックした。最初からドアを開けて
くれない教授もいたし、「この学生に何ができるのか、卒業させ
ることはできない」という厳しい言葉を吐き出す教授もいた。
「頑張れ」とか「力を出せ」と言いながらも「どうやって助けてやっ
たらいいか分からない」と困っていた。

しかし、たった一人。「やってみよう、助けてやる」と勇気づけ
てくれた教授がいた。今は故人となったシン・スンチョル学長
だった。「君がこんなにもやりたがっているのに、どうして転科
したり退学させたりできようか。学生が勉強したければ当然で
きるようにするのが教授の仕事だ。助けることはできないが、
するなということばはわたしの辞書にはない。途中でやめたと
しても、とりあえずやってみようじゃないか」。

私を信じてくれたことへの感謝の気持ちで、シン教授にこのよ
うに話した。「私、このままでは死にそうです。本当に死ぬ気
でやり遂げる姿をお見せします。」

危機はたちまち訪れた。床ずれがひどくなり、お尻の骨が丸見え
になるほど膿んでいた。医師は、「このままでは足を切断する以
上に、死ぬこともありうる」とし、直ちに手術を勧めた。回復ま
で少なくとも3か月はかかる大手術だった。手術を拒否して勉強
を続けた。また休学すれば、学校が絶対に二度と受け入れない
ような気がして、ひとまず夏休みまで待ってほしいとして持ち
こたえることにした。車椅子で気絶しながら踏ん張った。

床ずれ・敗血症···。死の淵を何度も越えたのはもちろん、何人か
の教授が本人の診療や実習や講義に近づくこともできないよう
に阻んだりもした。方法はたった一つ。バカになったように熱心
にすることだけだった。

麻痺は依然としてあったが、器具を手に結んで「怪物の手」にな
るまで数万回練習し、またした。不思議なことに、困難に直面
するたびに周囲から助けられた。その教授が席を外せば、後輩
教授が診療ができるようにしてくれて、卒業基準を合わせるこ
とができた。極限の苦痛を甘受して得た歯科医師資格証に「私
の努力は1%だけで、残りは周辺の人々が手を握ってくれた
おかげ」と話す理由だ。

復学後、唯一の願いは歯科医だった。なってからまた壁だった。
盆唐ソウル大学病院に入る前の1年間、大きな病院、小さな病院
を問わず、100回以上断られた。絶望して諦めようかな、とも思
った。ところが、経験が本当に怖い。一度塞がれた壁を越えて
みたが、もう一度できないことはないと思えたのだ。無条件で
挑戦した。実力が支えてくれるなら、壁であることを知りなが
らも叩くと必ずしも正門ではなくても横道くらいは作られる。

朝起きたら必ずインターネットで応募し「院長、副院長、企画室
長、センター長、行政室長に変えてほしい」と電話した。ずっと
メモを残した。そのようにして合格したのが盆唐ソウル大学病
院だ。05年7月に一度来て患者の診療をやってみるように言わ
れた。テストだった。病院長・副院長・課長・行政室長が全員来て、
どのように診療を行ない患者に説明するかを見守った。そして
先入観のない開かれたマインドで受け入れてくれた。後で「なぜ
合格させてくれたのか」と尋ねると、誰かがこのように話した。
「何べんも応募してきて面倒くさいから一度来てやってみろと言
ったのに、よくやったね^^」




医師生活の初期には器具を手に縛ってやったが、傷があまりに
も多かったり、患者の目にも良くないため、今は人差し指には
める補助器具を直接注文製作して使用する。単純に見えるが、
業者に騙されるなど紆余曲折と10回余りのアップグレードを
経て、今の形になった。

実際の診療は別の壁だった。あるおじいさんが「あんなカタワ
ものに診療を受けろというのか」と大声を張り上げ、また別の
ある中年男性は「ついてねえの」としてドアを蹴って出て行った。
顔に唾を吐く人も多かった。悪口を言って唾を吐いた人々、
絶対に恨まない。むしろ理解する。私も診療を受けたくなかっ
たはずだから。

事故後になってやっと困っている人、人の事情が目に入った。
また、私ではない相手の立場で考える習慣がついた。ある意味、
自分が傷つかないようにそうしたようだ。悪口を言って無視す
る言葉を全部私の立場で受け入れていたら、心が腐って傷つい
て生きていけなかっただろうから。ところが、相手の立場から
また別の視線で見れば、すべて理解できる。

歯医者は怖い。怖くて診療を受けたくないのに、何も言えずに
座っている患者にいつも話していた。「私は仕事が遅いです。
でも実力は最高です。世の中で一番正確で几帳面に見てあげま
す。」 真心は結局通じる。最善を尽くして6か月ほど経つと、
わざわざと訪ねてくる患者がでてきた。

辛い時は、死なせてほしいと祈り、その次は歯科医師になるよ
うにしてほしいと祈り、職業を持たせてほしいと祈った。今は
何の願いもない。一度きりの人生をただ熱心に生きるだけだ。

最初は違った。後悔ばかりだった。あの日あのバスに乗らなか
ったら、プールに行っていなかったら···。後悔すると人生が過
去に進む。今を生きるのではなく、過去に閉じ込められる。
希望がなく、自らあまりにも悲惨で、可哀想で生きていけない。
それで事故を悪夢ではなく良い思い出と考えたら、私の人生に
感謝するようになった。障害者として不便で苦しい状況を体験
する時も不満の代わりにどう変えればもう少し楽になるか、
そう思う。

事故で人生のどん底よりひどい泥沼に落ちた時、両親は「状態
がどうで、これからはどうで、どう生きなければならない。」
こんなことは全く言わなかった。泣いてもいない。今も同じだ。
事故前と変わらず、障害について何も言わず、何でも息子の決
定を黙々と尊重してくれる。

7歳になった娘を産んでからやっと分かった。その時、両親の
胸が数百回も裂けて泣き叫んだのだろう。大きくなる子供に
見せてあげたい。お父さんはこんなに一生懸命生きているんだ
よ、もっと誇らしいお父さんになろうと努力しているんだよ、と。
(中央日報ベース)
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