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CubとSRと

ただの日記

大久保利通は冷血漢?

2020年02月08日 | 心の持ち様
2011.08/27 (Sat)

 大久保利通について書いてきました。
 その中に、「冷血」として
 「大久保は政治家に必要な冷たい血が豊富にある人だった、と評した政治家がいる」
 ということを挙げ、
 「大久保は青い血が流れているようで好きになれない」
 という観光客の言も挙げました。
 「青い血」「冷たい血」と並べて、何だか「冷血漢」という言葉のみ、思い出して書いたのですが、あれ以来、「これ、ちょっと違うんじゃないかなあ」と思い始めています。

 「熱血漢」と言えば、その反語は「冷血漢」。
 でも、「血も涙もない奴」に対して「熱い血」はともかく「涙がある奴」とは、あまり言わない。先日、経産相が号泣した件について、あまり好意的な意見はありませんでした。何で?
 「総理と、自分の国を思う気持ちの板ばさみにあって泣いてしまった。いかにも日本人らしい純粋さである」とか何とか擁護する人が居てもいい筈なのに。
 「政治家というのは、他人のために泣くのはいい。しかし、自分のことで泣いちゃ駄目だ。あれで評価を落としたな」と厳しい意見を述べる人もありましたが。
 西郷隆盛などは熱血漢であり、この「板ばさみ」にあってよく泣いていたそうですが、周りの政治家(大久保を含む)は西郷は泣き虫だと言いながら、それを批判的には言ってない。

 「あれ?やっぱり勘違いをしていたのかもしれない」と思ったのは、最初に書いた言葉と、経産相の涙とを並べた辺りだったでしょうか。
 あの言葉。
 「大久保は政治家に必要な冷たい血が豊富にある人だった」
 「冷たい血」に目が囚われて肝腎なことを見落としていたのではないか。
 それも、二つも。
 「大久保は冷たい血が流れている人だった」、じゃない。
 ①
「政治家に必要な冷たい血」
 ②「冷たい血が『豊富』にある」

 「血」と言えば、「熱血」のみ、「正」と思ってしまいますが、「熱血漢」と言うと、時に社会のルールを破って激情のままに独走する人のことを言います。
 別言すれば、「(社会にとっては)些か困った人」。
 けれども、「血も涙もない奴」は、人の気持ちの分からない利己主義者のことであって、「熱い血」「冷たい血」はそれとつながらない。
 それ以前に「血がない」から、人の気持ちが分からない。熱い、冷たいは関係ない。ましてや大久保の場合は「冷たい血が豊富にある」と言われ、更にはその「冷たい血」は「政治家に必要」とまで言われているわけですから、「人間の感情が薄い、酷薄な奴」、という意味の「冷血漢」は、あてはまらないでしょう。

 つまり、「血」とは「(他人を思う)気持ち」と考えて良いのではないでしょうか。
 だから、「血も涙もない奴」は、「人の気持ちなんか分からない」、「涙がない」、は「利己的な」奴。

 「熱い血」が他人のことを感情的に思いやるものだとしたら、
 「冷たい血」は他人のことを理性的に思いやるものだと言えそうです。
 そうなれば、
 「大久保には政治家に必要な冷たい血が豊富にあった」
 というのは
 「他人のこと(国家、国民のこと)を理性で以って思い遣る、政治家として大事な心を持っていた。それも豊富に」
 となります。
 これなら、家では子煩悩であったということと、完全に重なる。

 常に
 「次に何をするか」
 でなく、最初から自身の立てていた計画の中から
 「次に何ができるか」
 と考えていた大久保利通。
 彼はその場での思いつきで行動することはなかった。
 そして、「冷たい豊富な血」で以って「敵、千万人と雖も我征かん」を貫き通した。
 やっぱり大変な思い違いをしていたように思います。
 

 ちょうど菅総理が、代表を辞任すると初めて表明しました。

 大久保と菅・・・・・・。

 これ以上、書くこともないでしょう。 

追、
「経産相号泣」で検索したら、名前がわかった!
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「大久保利通のこと」⑧(号泣)

2020年02月08日 | 日々の暮らし
2011.04/15 (Fri)

 遣韓を中止させられた時、留守番政府の主立った者は、即刻辞職。それぞれの郷里に戻ってしまいます。「明治6年の政変」です。
 西郷も、板垣も江藤(新平)も。
 さらには、西郷を慕う軍人も半数が辞職。数日もせぬうち、東京から離れる。
 鹿児島に帰る時、西郷は「一蔵どんが居るから心配はいらん」と言ったそうです。捨て台詞、でしょうか、それとも本心でしょうか。

 元に戻って。
 ①西郷が朝鮮に行く。冷静に話ができて、誤解が解ける。
 その場合は結果、西郷の力が突出し、西郷の独裁になる。しかし、資金はないわけだから、近代国家実現のためには「日暮れて道遠し」ということになる。
 ②西郷が朝鮮に行く。話にも何もならないで、西郷が捕らえられ、殺される。
 戦争になる。勝算は大いにあるが、清が宗主国として必ず出て来る。勝てる、とは言い切れない。
 ③政府が分裂している状態で、何かを為すことはできない。それならばいっそ決裂して、半数になった方が、安全度は高い。
 岩倉卿は、「西郷の独裁」となることを懸念した、と思われますが、大久保はそれによって近代国家の建設が、間違いなく遅れてしまうと考えた、と見るのが自然ではないか、と思います。
 西郷には、「裏切った」ととられるかもしれない。しかし、いずれ分かってくれるだろう。いや、分からずとも良い。俺の命は西郷にやったんだから。

 明治10年。
 鹿児島の政府火薬庫が、私学校生徒によって襲撃されます。一報を聞いた西郷は「しまった!」と言った、とされています。
 大久保は「不平士族を打ち破る口実ができた。愉快である」、と。
 それが、西郷も挙兵となるや、大久保は鎮撫使として自分が薩摩に行くと言い出す。周囲は、もうどうにもならないから、と必死で引き留める。

 遂に、西郷の死が伝わる。その時、大久保は号泣した、と言われています。
 そして、部屋の中をぐるぐる回り、長身の故でしょう、何度も鴨居に頭をぶつけた、と。「おはんの死と共に、新たな日本が生まれる、強か日本が・・・」というようなことを呟きながら。
 号泣したあと、我を忘れて部屋の中を歩き回り、ぶつぶつと呟いている。これがあの「鉄の意志を持つ」と言われた大久保の行動でしょうか。
 号泣した後に、こんなことを呟く、というのは、「よし!やったぞ!」ではないでしょう。自分に言い聞かせている、と採るのが普通でしょう。
 
 「(自分の考える)国の形、仕組み、組織をつくりあげ、内実共に近代国家になるまで30年。今、10年が過ぎた」
 、と周囲に思いを明かした頃から、警護をつけずに登退庁するようになります。
 まるで、いつ暗殺されても良い、といった様に。
 そして、石川県士族、長連豪(ちょうつらたけ)らによって、暗殺されます。

 洋館を建てて生活していたそうです。でも、質素なものだったとか。
 朝食はコーヒーにオートミール。子煩悩で、登庁時には必ず娘を抱き上げ、帰宅時には子供がわらわらと駆け寄り、争って靴を脱がせようとする。勢い余ってひっくり返るのを笑って見ている役所では見せない顔。

 「無口」も「鉄の意志」も、やはり自らがつくり上げたもののようです。
 そして、家で見せた父親としての優しい笑顔。

 ここまで読んで下さった方。
 大久保利通の印象、少しは変わったでしょうか。
 大久保利通も、西郷隆盛も、何も変わってはいない。
 斉彬公の夢を、ひたすら自らの手で実現させようとし続けただけではないでしょうか。

 
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「大久保利通のこと」⑦(鉄の意志)

2020年02月08日 | 心の持ち様
2011.04/15 (Fri)

 「次に、何ができるか」
 「『次に、何をするか』と、どう違うんだ?」

 政府の実力者を半分に分けて、使節団を編成し、残った半分は留守番政府。
 大久保は体調不良を口実に、さっさと帰って来た。
 この使節団と、ゆっくり外国を回っていても、喫緊の課題である「国力を高めること」はできない。かと言って、東京に戻っても、もはや自分の計画を実行できる場はない。この時、大久保は「何もできない」と悟っていたと思われます。

 目的は「新しい、強い国をつくる」ことでした。何もできない時に、無駄に動き回っても、それは悪あがきというもの。権力に恋々としない。本来の目的は「強い国をつくる」、だけです。「引き際」なんて、考えない。
 「できないから、動かない」。このまま消えること、でも平然と受け入れる。

 ・・・・・・どうしても、今の政治家とは重なりません。それに近い政治家は数名浮かんで来ますが。
 姑息なことはしない。
 よく「この期に及んで~」という言葉が使われますが、この期、も何も関係ない。常に微動だにしない。
 「次に何ができるか」「できないから動かない」
 計画は初めからできている。方針は決まっている。あとは、できることを一つ一つ実行し、実現していくだけだ。「既定方針を実行する」「できることを実行する」
 「次に何をするか」というような、準備期間は存在しない。もう決めてあることだから、必要ない。あとはただ実行するのみ。
 こんな強い意志は、やはり「鉄の意志」というしかないでしょう。

 明治4年末に岩倉使節団の一員として出発。長くなった滞在を一人、体調不良を口実に帰国。有馬温泉で湯治という名の隠遁生活に入る。
 帰ってみると、西郷は朝鮮へ使節として行く、というところまで話が進んでいる。
 (蛇足ですが「西郷の征韓論」と習った方もあるか、と思いますが、征韓論は板垣の案。西郷が使節として行くのは、だから「遣韓」論、と言うべきです。)
  
 普通なら大急ぎで上京するところ、大久保は上京するどころか、西郷に手紙一本書こうとしない。
 「刎頚の友」、です。西郷を信じていたのか。それとも、既に見捨てていたのか。
 遣韓を有意義と見ていたのか。それとも、日本の近代化、強国への道に関係ないと見ていたのか。

 「鉄の意志」、です。「次に、何ができるか」、です。
 「今、自分には何もできない」しかし、あまり心配していたとは思えない。
 「西郷はすぐ死にたがる!」
 怒って、こんな言葉を口にしたことが何度かあるそうです。
 そして、また、度重なる危険な戦いの中を、官軍総大将として見事に切り抜けて来た西郷を、そう簡単に死ぬような奴ではない、と絶大な信頼を置いている。
 やはり、「刎頚の友」、です。

 そこに使節団が帰って来る。遣韓の話を知る。大騒ぎになる。必死で止めようとする。しかし、西郷の意志は変わらない。岩倉卿が大久保に頼み込み、ついに、大久保が反対派に付き、遣韓の延期を決定させた。

 ここから、「大久保は『刎頚の友』西郷を切り捨てた冷血人間」と言われるようになります。ついでに、西南の役のきっかけとなる、政府の火薬庫の襲撃があった時、「薩摩の不平士族を政府軍が打ち破る口実ができた。愉快である」といった内容の手紙を書いてもいます。これも、その証拠、とされます。

 なぜ、岩倉卿側についたのでしょうか。やはり、冷血人間なのでしょうか。
 「心変わりをした」「変節漢」、なのでしょうか。そんな人間を、西郷は「刎頚の友」、としていた?西郷には、人を見る眼がなかったのか?
 岩倉卿が、どのようにして大久保を説得したのか、は分かりません。
 はっきりしているのは「大久保の意志の強さ」、だけです。
 それを考えると、大久保は説得されたのではなく、自らの意志で岩倉卿の側に付いた、と見る方が自然ではないか。

 では、何故、どういった考えで、そうしたのか。

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「大久保利通のこと」⑥(既定方針)

2020年02月08日 | 心の持ち様
2011.04/15 (Fri)

 明治2年。戊辰戦争が終結し、戦乱の記憶も薄れぬうちの、いきなりの版籍奉還。

 いきなり脱線します。
 西郷は戊辰戦争後、鹿児島に戻ったままです。
 明治政府は大久保を筆頭とする薩摩、木戸孝允をリーダーとする長州、江藤新平、大隈重信らの佐賀、板垣退助らの土佐、俗に言う「薩長土肥」の出身者が中心となって政治を行っていました。

 「だから、藩閥政治という」、と習った記憶はありませんか?
 己が郷党の利権を旨として、国政を私していた、といった感じを持たれた方もあるでしょう。
 現代の政治と比較してみましょう。
 明治維新を断行するために各藩の、また、全国の学者、武士、教養人はどんなことを思っていたのか。
 「明治維新」とは近代国家、新しい国家体制をつくろうとして行われた様々な改革の総称です。単なる主権争いではありません。
 「明治維新は何のために行われたのか。雄藩は己が郷党の利権のために国政を私しようとしたのか」
 この一言を少し考えてみれば、「藩閥政治」という言葉に抱いていたイメージは変わって来ませんか?

 彼らは本気です。戊辰戦争は世界を驚かせましたが、やはり、戦争です。
 多くの死傷者が出たことも、日本人同士が殺し合ったことも紛れもない事実です。そして、本気であればあるほど、郷党の気質は出て来る。
 今で言えば「県民気質」でしょうか。本気になれば、つい、方言がポロッと出てくるでしょう?性急で、議論好きな長州人。寡黙で現実的な薩摩人。豪放でエネルギー溢れる土佐人。そんな気質が出ることはあっても、
 「己が藩、郷党の利権を主として国政を」
 という心根で明治維新が行われた、と考えますか?

 「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」とは言っても、国の体裁が整ったから「さあ、利権だ!」となりますか?
 少なくとも、我が国はそんな国ではなかった。
 「自分が腹を切ればよいのだから、省の予算を使い込んでも軍艦を買え!」と言った人はいますが、国費を私して贅の限りを、なんて政治家は日本にはいない。田沼意次だって、調所笑左衛門だって、そんな人ではなかった、と以前に書きました。「藩閥政治」は、本気のぶつかり合いの場だった、と見るのが自然でしょう。

 脱線が過ぎました。
 版籍奉還は有志の四藩が、自らの意志で行ったとされています。
 こうすることによって、他の藩が右へ倣え、となるようにしたもので、「早過ぎる」との意見もある中、西郷は「当然のことをするのであるから、やらなければ」と言い、反対の者は、西郷自ら御親兵を引き連れ、征討に行く、という姿勢を見せた。
 結果、世界中から「奇跡」と言われるような、この大改革を混乱なくやり遂げています。
 勿論、大久保は賛成します。「想定内」、ではなく大久保の中では「既定の方針」。それを実行するだけのこと、だからです。
 版籍奉還に関しては、西郷の断行にばかり脚光が当たるのですが、この「既定方針を、実行するだけ」という大久保の姿勢もまた、凝視されるべきでしょう。

 明治4年。今度は「廃藩置県」です。
 「版籍奉還」は、まだ早い、という意見を押し切り、四藩が率先して、という形をとりました。実際は有無を言わさず、ではあったものの、大方の藩政は窮状を呈していたと言われます。
 知藩事となって、家臣を養わなくて良くなった。一家の生活費には国からの俸給を充てる。肩の荷が降りた、と思った元藩主も多かっただろうと推測できます。
 しかし、「廃藩置県」は、そうはいかない。知藩事の職が、いきなりなくなる。県令が政府から派遣されて来る。当然、知藩事の俸給はなくなる。
 そして、今回は各藩の兵を、御親兵とするためという名目で、集めています。
 だから、叛乱は起こせない。用意周到といいますか、卑怯と言いますか。
 騙まし討ちという人もあるようです。

 しかしまたもや、ここで大久保の面目躍如、です。
 「いずれやらねばならなかったこと」、とばかりに不満を持つ西郷とは違って、計画に賛成します。明治2年の「版籍奉還」から僅か二年後のことです。
 そして間をおかず、年内に、あの「不平等条約改正の下準備」に、と岩倉使節団(遣欧使節団)が出発します。大久保もその一員です。
 これもまた、大久保の既定方針、計画通り、と言えるでしょう。

 ところが、交渉は悉く失敗。
 そして、あろうことか使節団は「それならば、近代国家の諸制度をしっかり勉強して帰ることにしよう」と期間を延長します。
 大久保は、体調を崩した、と口実を設け、数ヶ月早くに帰国する。本当でしょうか。(木戸との不仲説もありますが。大久保がへそを曲げる、というのはちょっと?です)
 帰った大久保は、東京に戻らず、有馬(温泉。神戸)で湯治に入ります。何だか怪しいですね。胃弱であった、というのは事実なんですが。(②にちょっと書いてます)

 さて。
 大久保は
 「まず、藩政を握り、国政に与し、新しい強い日本国をつくる」
 という亡君斉彬の遺志を実現しようとしてきた。
 ここまで、そのことに関してブレたところはありません。不平等条約改正の下準備もやらねばならないことの一つでした。だから、岩倉使節団の一員として渡欧した。しかし、それは失敗に終わった。だから、さっさと帰って来た。

 「では、次に何をするか」
 普通なら、こう考えるのが自然な流れです。「気を取り直して」、という形です。
 つまり、画策に入る。
 しかし、どうもこれまでの大久保の行動を見ると、大久保は「次に何をするか」、とその時になって考える、画策する、という風ではない。
 大久保は常に「次に、何ができるか」を考えている。



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