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CubとSRと

ただの日記

調所笑左衛門のこと(島津重豪という名君)③

2020年02月04日 | 重箱の隅
2010.03/30 (Tue)

 前藩主島津重豪より、藩政と共に借金500万両を受け継ぐことになった藩主斉宣は、近思録党にその任を託しました。
 しかし、文字通りの「決死の覚悟」で藩政改革に取り組んだ近思録党は、その苛烈な改革が、却って前藩主重豪の藩政を批判する形になってしまったため、重豪を激怒させることになり、結果、藩主斉宣は隠居、秩父、樺山は切腹、という大事件、となりました。

 この、「近思録崩れ」により、藩政改革は頓挫します。勿論、500万両の借金は、そのまま、です。
 そこで重豪は斉宣の子、斉興を新しい藩主に立てます。まだ二十歳前ですから、斉宣ほどの策を立てられよう筈もありません。重豪は、自らがもう一度藩政を執ろうと考えた。つまり、院政です。
(脱線しますが、島津斉彬の後を継いだのは、異母弟の久光ではありません。久光の子、です。久光もまた院政を行ないます。藩主久光、でなく藩主の父、ですから、「藩父」と呼ばれるのはその故です。)

 さて、再び藩政を執ることにした重豪は、調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)を責任者に抜擢します。大抜擢です。笑左衛門は茶道方、つまり茶道坊主だったからです。決して上級職ではありません。
 隠居していた重豪の所に鹿児島から茶道方として出仕した笑左衛門を見て、その才を見抜き、側に置いて使い、斉宣の隠居後藩政改革に当たらせます。
 何か思い出しませんか、よく似た話を。
 西郷隆盛の才を見出し、御庭方として側に置いて薫陶し、あれだけの人物に育て上げた斉彬。茶道坊主を側に置いて、後、その人物を藩政改革の責任者にした重豪。名君は、その慧眼で人の才を能く見抜き、人を育てる。実際の政治は育て上げた家臣が執るのですから。

 二十歳前の斉興が藩主になった時、笑左衛門は三十代半ばです。重豪の下で仕えはじめたのが二十歳過ぎですから、命じられて藩政改革に乗り出すまでに十五年近くが経っています。
 笑左衛門は思い切った行動に出ます。江戸、大阪の、島津家が借金をしている全ての大商人に会い、その全てに藩の台所事情を包み隠さず話してしまうのです。

 新しい島津の側用人、という三十半ばの男、笑左衛門が言います。
 「実は弊藩には500万両に上る借金がある。藩の年収は14万両。とてもではないが返済のできる額ではない。だから、と言って返さぬと言うのではない。しかし、利息までは無理だ。約束の期限も守れない。そこで、利息なしの元金のみ、250年払い、とさせてもらう。『ない袖は振れぬ』もので、な。」

 どんな大商人も一様に青ざめます。天下の大島津家、だからこそ心配ではあったものの言われるとおり数万両、数十万両の都合をつけて来た。それが、250年払いの利息なし、などとは。「首を括れ」と言われているようなものです。金は回ってこそ商売になるのです。実際、首を括った者や、店を潰してしまった者も多く出たそうです。しかし、「ないものはない」の一点張り。やっぱり、踏み倒しみたいなものです。

 中には何も文句を言わず、「わかりました」という商人もいたそうです。いつの時代にも腹の据わった人物はいるものですね。
 言い渡してから、約束を守って返済を続けたそうですが、250年払いです。その上に明治維新、廃藩置県となって、島津藩が消滅してからは払っていませんから、やっぱり「踏み倒し」になってしまいました。
 次に笑左衛門は琉球の砂糖を藩の専売とします。さらに、長崎、琉球を使って、半ば公然と清との密貿易を行ないます。手足となるのは、「250年払い」を引き受けた商人たちです。貿易の手間で、彼等は却って、利益を上げたと言われています。
 結果として500万両の借金を踏み倒し、密貿易、砂糖の専売で、藩には250万両の蓄財ができました。

 きたないと言えばきたない、ひどい財政改革です。
 ただ、財政改革に取り組み、成功した藩はまれです。庄内藩、上杉鷹山の改革は有名ですが、借金は20万両でした。それも、明治維新前にやっと、何とか、というくらいです。萩、毛利藩の場合は俸給の多くなる上級武士をやめさせ、俸給の少なくて済む下級武士を登用して倹約をしました。
 しかし、藩の4分の1が武士で収入の役に立たない、それでいて借金500万両、などというのはもう正気の沙汰ではありません。なのに、250万両の蓄財に成功、となると比べる相手がいないのです。

 重豪の死後も引き続き斉興に仕え、約40年間かかって藩を豊にした笑左衛門でしたが、当たり前のやり方ではないことは、本人が一番よく分かっています。
 これまでに何度も改革は行なわれようとした。樺山や秩父の近思録党による改革は、本当にもう後のない、絶体絶命の改革で、それも重豪によって中止させられ「近思録崩れ」という大事件になった。笑左衛門には、「踏み倒し」以外にもう選ぶ手段がなかった。
 
 だから、笑左衛門は、いざという時の用意をしていました。
 そして、ついにいざ、という時が来ます。半ば公然と行なっていた密貿易が幕府の知るところとなったのです。
 あまりに長い斉興の政治をやめさせ、斉興の子、斉彬を藩主として、幕府老中にという動きがあったということです。
 幕閣の方針があったのか、斉彬の、幕府への働きかけがあったのか。ともかく、表面に出てしまったからには幕府は仕置きを考える。密貿易は藩を取り潰されるかもしれない大罪です。
 笑左衛門はかねてよりの計画を実行する決心をします。常に携帯していた毒を飲み、全責任を取るのです。
 「密貿易の件は、全て自分が私腹を肥やすためであった」として、罪を全て背負って死にます。私腹を肥やした証拠として屋敷を建てる、などの工作もしてありました。(解体した家の古材を遣って、実際にはほとんど金を使ってなかったそうです。)
 田沼意次と同様に、収入は藩の金蔵に回しており、屋敷に金目のものは何もなかった、と言われています。

 藩侯、斉彬に悪事を為した者、として、また、その死に方(切腹でなく武士にあるまじき服毒自殺)もあって、笑左衛門への世間の風当たりは強く、大変なものだったと言います。それこそ「藩政を私し、権力を自分のために濫用した卑怯者」として、調所一族は離散、各地に散って名前を変え、度々居所を移して生き延びるしかなかったのだそうです。
 近年になって研究が進み、調所の名誉は少しずつ回復されて来ました。大悪人どころか、重豪、斉興の命を請けて藩を立て直した大恩人という認識が少しずつ広まってきています。

 近思録党は、確かに決死の覚悟で改革に取り組みました。
 西郷隆盛が「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」でなければ、国のことはできない、と言ったのは、まずは、近思録党のことだったのでしょう。だからこそ西郷は近思録の輪読会を始めた。
 でも、西郷は知らなかった。
 自分が嫌っていた笑左衛門が、きたない手を使ってまでも、藩の財政建て直しを実行し、250万両の蓄財をしたことを。そして、それを使って斉彬が自分を育ててくれたことを。笑左衛門もまた、汚名を着てまで、藩のために命を投げ出したことを。

 さて、調所笑左衛門と島津重豪の間でやや影の薄い島津斉興。
 悪役の扱いを受けることの多い斉興という人物も、実は大変な名君であったのでは?ということを、次回、書いてみようと思います。
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仕えるのは藩か主君か(島津重豪という名君)②

2020年02月04日 | 重箱の隅
2010.03/28 (Sun)

前回三川の治水工事を「国普請」と書きましたが、自国のことでなく、日本国のためなのですから、「天下普請」でないとおかしいですね。
 ということで、訂正しました。

 さて、重豪という藩主は名君であった、と書きました。しかし、それだけのことをやったものの、借財はとんでもない額になり、一年の利息が藩の年収の5倍以上、当たり前なら絶対に返せない状態になってしまった。

 名君です。何とかしなければと色々な工夫をしようとはします。
 しかし、文化、芸術面の優れた人が、経済に強いとは限りません。名君は、家来に仕事を任せます。

 で、結果は、やっぱり、、、です。
 「子孫に借金を残すな」とは、今も言われますが、思い通りにはいかない。重豪も息子に後を託すしかない年齢になり、借金返済が気になりながら、息子、斉宣に家督と借金500万両を譲ることになりました。

 このままでは大変なことになるわけですから、斉宣は藩政の大改革に乗り出しました。抜擢されたのは、樺山主税(かばやま ちから)。島津一門の名家です。

 家老に取り立てられ、藩政改革に取り組むことになった樺山は、同じ学派で「近思録」の輪読会仲間であった秩父太郎季保を呼び出し、全てを託すために、彼を家老に推挙します。

 一門家の樺山が家老になるのは分かります。しかし、その家老が、今度は同じ学派の仲間とは言え、下級武士でしかない秩父太郎を同じ立場の家老に、と推挙し、藩主斉宣もこれを許す。普通に考えたらあり得ないことですが、あった。

 どうも、これは、藩主斉宣の考えが先にあったようです。
 藩政改革のために藩校の学者の中から優秀な人材をと思ったものの、藩校は先代の重豪がつくっているのですから、主流の学者は先代の藩主側についています。そして、彼等は藩政改革ができなかった。
 
 「近思録の勉強会を熱心にやっている秩父太郎という者が居ると樺山が言う。樺山も仲間らしい。よし、それなら、樺山に改革をさせてみよう。」
 「改革のために打つ手は、父重豪が、まだやっていないこと、だ」

 絶体絶命、最後の一手だったのかもしれません。輪読会の首領とは言え、下級武士を家老に取り立てての藩政改革です。これまでに何の実績もない者に、藩政改革を委ねるのです。ですから、藩主斉宣の決心も尋常ではないということになります。
 結果はともかく、斉宣もまた、名君と言えるでしょう。

 「樺伊賀は上から読めばそれはそれ 逆さに読めば馬鹿と読みたり害と読みたり」
 こんな狂歌が残っています。

 樺山主税による藩政改革は厳しい緊縮財政だったようです。  
 あまりの厳しさにネを上げたいのですが、樺山をはじめとして改革に乗り出した者が率先して取り組んでいるのですから、正面切って文句を言えません。

 不満は「樺山が藩政を私している」という形で出てきました。
 確かに、この改革は、近思録の輪読会仲間(近思録党)ばかりが職に就き、それまで藩政改革に当たってきた者は全て罷免されてしまったのです。更に、いくら首領であるとは言え、下級武士の秩父太郎が家老に取り立てられている。

 先代藩主重豪の施政を悉く批判する形になってしまったこの改革は、遂に重豪の知るところとなり、激怒した重豪は、藩主斉宣を隠居させ、改革を中止させます。そして樺山主税、秩父太郎、共に、責任をとって、切腹。
 「近思録崩れ」、という大事件となりました。

 「仲間ばかりで藩の実権を握り、藩政をほしいままにした」事件ということになります。ただ「事実を並べて眺める」だけ、ならそうなります。
 一般的な歴史学者はこれで終わりです。そこから何を汲み取るのか、そこからどんな「論理」という筋道が見出せるのか。それこそが歴史を学ぶ意義です。

 樺山の所領地の領民は、後になって、樺山の墓を建てます。領民には慕われていたということなのだそうです。
 土地ではいい顔をして、中央ではやりたい放題?

 その辺りの消息を、海音寺潮五郎の短編「太郎死なず」を読んで、考えさせられました。簡単に書いてみます。


 貧乏の不満を口にすることなく、日々学問に明け暮れていた太郎は、樺山から、一緒に藩政改革に取り組んで欲しいと頼まれます。
 太郎は、引き受けることを決心します。親戚一同は大喜び。
 早速、藩職にあるもの、まだ無役の者、上級武士等多くの者が太郎の元に求職にやって来ます。
 ところが太郎はそれらを全て断ってしまいます。

 無役の者は問答なし、で断ります。
 藩職にあるものは「これまでできなかった方が、何をしようと言われるのか」とやり込められる。
 上級武士には俸給はなし、用もなし、と頭ごなし。
 一族の者も採用しない。
 職に就いたのは、太郎の、ごく近い友人か、近思録党ばかりです。
 周囲の不満は高まる一方。見るに見かねた、一族の長老が、太郎に意見をしに来ます。

 「一族の者は使わぬ、というのは良い。だが、仕事のできる者や、人となりを見て、もう少し何とかならんのか。これでは、お前を恨むものばかりになってしまうぞ」
 すると太郎は
「この仕事は、これまでに多くの人が取り組んで、誰一人成功しなかったのです。最後に私に回ってきたと思っております。しくじればもとより死ぬ覚悟ですが、私一人が死ぬだけでは済まない。一緒に死ぬる者でなければ、この仕事はできないのです。どんなに仕事のできる人であっても一族であっても、一緒に死ね、とは言えません。」
 つまり、掛け値なしの「一蓮托生」です。「死ぬ時はみんな一緒」です。

 確かにこの覚悟が必要でしょう。でも、普通、そこまで思いつめないようにする。
 
 「仲間ばかりで藩の実権を握り、藩政をほしいままにした」
という文から見える印象は最悪、最低の腐りきった藩政です。
 しかし、こんな差し迫った状態の藩政を私して好き勝手に、なんて考える方がおかしいでしょう。

 この文からは正反対の、
「秩父太郎以下、近思録党は決死の覚悟だった」という意味を読み取る方が自然ではないでしょうか。

 「太郎死なず」では、切腹の当日、時間の来るまで、いつもと同じく我が子に論語を暗誦させ、教え続ける太郎の姿が書かれています。
 そして、親戚の者に
「この人は、死んでも後を子が継ぐ。この人は、死んでも死なないのだ」と呟かせています。


 後年、西郷隆盛は、この藩政改革のために命をなげうった秩父、樺山の学んだ「近思録」を、同じ志から勉強しようと輪読会をはじめます。
 大久保利通、海江田信義(有村俊斎)らも参加したこの会は、「誠忠組」
となって、薩摩の近代化の原動力となっていきます。
 まさに、「太郎死なず」、です。
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「ごわす」は鹿児島弁?(島津重豪という名君)①

2020年02月04日 | 重箱の隅
2010.03/28 (Sun)

「おいが西郷でごわす」
 いかにも西郷隆盛が言いそうな、武骨そうに聞える言い回しですが、これ、実は京言葉だ、って知ってました?
 「ごわはる」「ごわんで」「ごわんど」「ごわはんか」
 「ございます」くらいの意味で、丁寧な言葉です。

 西郷を見出して、あれだけの重要人物に育て上げた島津斉彬、その曽祖父島津重豪(しげひで)が、江戸生まれの江戸育ちだったためか、鹿児島の言葉の響きが嫌いだったらしく、
「もっとみやびな言葉を鹿児島で使わせよう」
と、京わらべを鹿児島に連れ帰り、広めたんだそうです。きれいな着物を着せて。
 難しいことをさせず、目標を達成する。流行、というテを使った。今に通用するやり方ですね。プロパガンダがうまい。

 「薩摩に馬鹿殿なし」と言われるくらい、島津藩は名君が多いのですが、その中でも飛びぬけていたのが島津斉彬。でも、更に目立っていたのが曽祖父島津重豪です。

 藩校である「造士館」「演武館」を造り、「天文館」をつくり、庶民も対象にした「医学院」もつくり、自らも蘭学に傾倒、更には清国との関わりから支那語も学んで、長崎では清国人相手に通訳を介さず話したと言われています。島津斉彬が最も尊敬していた人物だったそうです。(89歳の長寿!80を過ぎてから、曾孫の斉彬と共にシーボルトにも会っていて、60代くらいにしか見えなかった、とか。wikiにありました。)

 これだけの仕事をすれば、当然、費用もそれだけかかります。
 莫大な借金をこしらえてしまいました。
 そのため、早くから、財政改革にも取り組んでいたのですが、こちらは、なかなかうまくいきませんでした。
 最終的に、借金なんと500万両!利息だけでも年80万両。けれど、藩の年収14万両。
 
 父島津重年が藩を継いだ時、既に66万両の借金があり、重年の時、「天下普請(領地外の工事を自腹でさせる)」として、木曽、長良、揖斐の三川治水工事を幕府より強要され、40万両の借金をしています。

 それにしても、重豪一代で400万両です。
 逆立ちしようが何しようが、絶対に死んだって返せない。
 で、最終的にどうなったか、というと、重豪の死後、250万両の蓄えができた。その蓄えで遂には明治維新を引き寄せた。

 それを書くつもりが「借金が大変」までしか書きませんでした。

 次回、一つめの話、「樺山主税と秩父太郎」について書いてみます。
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海音寺潮五郎の思い

2020年02月04日 | 心の持ち様
2010.03/24 (Wed)

 小説家、海音寺潮五郎のことを書いてみようと思います。
 と言っても、いつものことでどこに行くか分かりませんが。

 司馬遼太郎が、大阪外語大の蒙古語学科を卒業後、書いたのは、日本人の一人も出てこない歴史小説だったそうです。
 講談倶楽部賞という文学賞に応募したのですが、さすがに異色過ぎる。
 ところが、当時大家となっていた海音寺潮五郎が絶賛、一気に脚光を浴びることになったそうです。
 現在、司馬遼太郎がこれだけ大きな影響を持つようになった元に、海音寺潮五郎の後押しがあったことは、あまり言われなくなりました。
 しかし、海音寺潮五郎が、歴史上の事実と事実を並べ、その間の筋道を推理して「なるほど、納得できるな」という方向に持っていく「史伝文学」という形を、確固としたスタイルで定着させたこと、また、「歴史に学ぶ」という、司馬遼太郎の生き方のヒントにもなっているだろうことは、忘れてはならぬ重要なことだと思います。

 しかし、海音寺潮五郎と、司馬遼太郎は、(当然ですが)作風が随分違います。
 海音寺は視線が同じ高さか、やや低いところから人物を見上げるように書いていていますが、司馬は頭上数十センチ乃至数十メートルから見下ろしている。
 岡目八目ではありませんが、確かに「歴史に学ぶ」のであれば、少し距離をとった方が概要を的確に把握できます。その分、体温、人間臭さは薄れ、「生のエネルギー」というのは感じにくくなります。
 海音寺の良いところは、だから、司馬の正反対。近くから、それも上を見上げる感じですから、実際に居る人間が動くと、こうなる、といった感覚的な得心がゆきます。歴史上の人物を仰ぎ見る感じで我々とのつながりが実感できます。

 昭和16年。海音寺は陸軍報道班員として徴用されます。俗に言う「従軍記者」です。(ついでながら、「従軍」だから「軍属」ですよ。死んだら、靖国神社ですよ。軍属の慰安婦《従軍慰安婦》なんて居ないんですよ。)
 この時、集められた従軍記者は、というと、みんな青白い、本当に戦場に行って、大丈夫かと思われる人ばかり。
 ところが、そんな中で、海音寺が一人目立っています。一人意気盛んな従軍記者。見ると、腰に長刀をさしている。家伝の刀を持って来ているのです。
 「記者に刀は要らん」と上官が言うのですが、私は大学を出ているから、資格はすぐできる、と言い張る。
 「いざという時はこれで戦うのだから。兵士が戦うのに、知らん顔はできん」
 、と強硬に主張する。
 とにかく、前線には行かないから、と上官は、やっと説き伏せたそうです。実話だそうです。

 海音寺の随筆に、郷里鹿児島の大口(伊佐地方)では、村の辻には必ずと言っていいほど、稽古に使う「立て木」という装置と木刀(と言っても知らぬ人が見れば、薪を束ねたものとただの棒っきれです)が置かれてあって、通り掛かりの人は、ひとしきりそれを打って、先に行ったとあります。
 ちょっと、大袈裟じゃないか?とも思いますが、鹿児島は武張った土地で、村、と言っても半分は武士なのですから、その可能性は高い。
 何しろ海音寺自身、齢を取るまで鹿児島の示現流というものは自得のものだから、師匠はない、稽古法さえ知れば後は努力次第、と思っていたフシがある。
 何も、海音寺潮五郎だけが大雑把だったわけではなく、みんなそんな感じだったんじゃないでしょうか。これは直接聞いた話ですが、戦争時、川内(せんだい)で少年期を過ごしたという或る市長は、自分も示現流をやらされたと言っていましたが、示現流か薬丸派か、知らなかった。「立て木」が大口のものと同じ、との記憶から、薬丸派だと分かったくらいです。

 健康を害して、敗戦前に帰国、郷里に家族で疎開します。すると、身元調査のために地元の警察官が来る。小説家であることを知ってから度々訪ねて来る。上がって一緒に酒を飲んだりするようになった時に、その警察官、つい本音が出た。
 「戦地では軍が懸命に戦っているのに。作物をつくるでもない、それどころか、人の心を惑わすようなあまり自慢できない仕事だ、小説家などというものは。」
 それを聞いた海音寺は、「何を言うか。小説家は人の心を耕し、立派な心をつくるのだ。そのために命を削っているのだ。それを知らず、戦にも行っておらん貴様に何が分かるか!とっとと帰れ!」と追い出してしまった。
 以降、その警察官は二度とやって来なかったらしいが、どうも、戦地から戻った海音寺を、共産主義者ではないかという疑いから調査に来ていたらしい、ということが後に分かったそうです。

 「日本人から日本歴史の常識が失われつつある」
 だから、私は小説を書くことで正しい日本の姿を伝えたい。
 これが、海音寺の創作活動の柱です。

 神宮皇學館から国学院へ、そして、国語教師から小説家へ、という流れから、そういう人間になった?
 やっぱり、古老から実際に身近であった戦争(西南戦争)の話、誇るべき郷土の話を聞いて育ったことが何よりも大きかったのではないか。
 私は今でもそう思っています。
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