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ただの日記

「大久保利通のこと」⑥(既定方針)

2020年02月08日 | 心の持ち様
2011.04/15 (Fri)

 明治2年。戊辰戦争が終結し、戦乱の記憶も薄れぬうちの、いきなりの版籍奉還。

 いきなり脱線します。
 西郷は戊辰戦争後、鹿児島に戻ったままです。
 明治政府は大久保を筆頭とする薩摩、木戸孝允をリーダーとする長州、江藤新平、大隈重信らの佐賀、板垣退助らの土佐、俗に言う「薩長土肥」の出身者が中心となって政治を行っていました。

 「だから、藩閥政治という」、と習った記憶はありませんか?
 己が郷党の利権を旨として、国政を私していた、といった感じを持たれた方もあるでしょう。
 現代の政治と比較してみましょう。
 明治維新を断行するために各藩の、また、全国の学者、武士、教養人はどんなことを思っていたのか。
 「明治維新」とは近代国家、新しい国家体制をつくろうとして行われた様々な改革の総称です。単なる主権争いではありません。
 「明治維新は何のために行われたのか。雄藩は己が郷党の利権のために国政を私しようとしたのか」
 この一言を少し考えてみれば、「藩閥政治」という言葉に抱いていたイメージは変わって来ませんか?

 彼らは本気です。戊辰戦争は世界を驚かせましたが、やはり、戦争です。
 多くの死傷者が出たことも、日本人同士が殺し合ったことも紛れもない事実です。そして、本気であればあるほど、郷党の気質は出て来る。
 今で言えば「県民気質」でしょうか。本気になれば、つい、方言がポロッと出てくるでしょう?性急で、議論好きな長州人。寡黙で現実的な薩摩人。豪放でエネルギー溢れる土佐人。そんな気質が出ることはあっても、
 「己が藩、郷党の利権を主として国政を」
 という心根で明治維新が行われた、と考えますか?

 「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」とは言っても、国の体裁が整ったから「さあ、利権だ!」となりますか?
 少なくとも、我が国はそんな国ではなかった。
 「自分が腹を切ればよいのだから、省の予算を使い込んでも軍艦を買え!」と言った人はいますが、国費を私して贅の限りを、なんて政治家は日本にはいない。田沼意次だって、調所笑左衛門だって、そんな人ではなかった、と以前に書きました。「藩閥政治」は、本気のぶつかり合いの場だった、と見るのが自然でしょう。

 脱線が過ぎました。
 版籍奉還は有志の四藩が、自らの意志で行ったとされています。
 こうすることによって、他の藩が右へ倣え、となるようにしたもので、「早過ぎる」との意見もある中、西郷は「当然のことをするのであるから、やらなければ」と言い、反対の者は、西郷自ら御親兵を引き連れ、征討に行く、という姿勢を見せた。
 結果、世界中から「奇跡」と言われるような、この大改革を混乱なくやり遂げています。
 勿論、大久保は賛成します。「想定内」、ではなく大久保の中では「既定の方針」。それを実行するだけのこと、だからです。
 版籍奉還に関しては、西郷の断行にばかり脚光が当たるのですが、この「既定方針を、実行するだけ」という大久保の姿勢もまた、凝視されるべきでしょう。

 明治4年。今度は「廃藩置県」です。
 「版籍奉還」は、まだ早い、という意見を押し切り、四藩が率先して、という形をとりました。実際は有無を言わさず、ではあったものの、大方の藩政は窮状を呈していたと言われます。
 知藩事となって、家臣を養わなくて良くなった。一家の生活費には国からの俸給を充てる。肩の荷が降りた、と思った元藩主も多かっただろうと推測できます。
 しかし、「廃藩置県」は、そうはいかない。知藩事の職が、いきなりなくなる。県令が政府から派遣されて来る。当然、知藩事の俸給はなくなる。
 そして、今回は各藩の兵を、御親兵とするためという名目で、集めています。
 だから、叛乱は起こせない。用意周到といいますか、卑怯と言いますか。
 騙まし討ちという人もあるようです。

 しかしまたもや、ここで大久保の面目躍如、です。
 「いずれやらねばならなかったこと」、とばかりに不満を持つ西郷とは違って、計画に賛成します。明治2年の「版籍奉還」から僅か二年後のことです。
 そして間をおかず、年内に、あの「不平等条約改正の下準備」に、と岩倉使節団(遣欧使節団)が出発します。大久保もその一員です。
 これもまた、大久保の既定方針、計画通り、と言えるでしょう。

 ところが、交渉は悉く失敗。
 そして、あろうことか使節団は「それならば、近代国家の諸制度をしっかり勉強して帰ることにしよう」と期間を延長します。
 大久保は、体調を崩した、と口実を設け、数ヶ月早くに帰国する。本当でしょうか。(木戸との不仲説もありますが。大久保がへそを曲げる、というのはちょっと?です)
 帰った大久保は、東京に戻らず、有馬(温泉。神戸)で湯治に入ります。何だか怪しいですね。胃弱であった、というのは事実なんですが。(②にちょっと書いてます)

 さて。
 大久保は
 「まず、藩政を握り、国政に与し、新しい強い日本国をつくる」
 という亡君斉彬の遺志を実現しようとしてきた。
 ここまで、そのことに関してブレたところはありません。不平等条約改正の下準備もやらねばならないことの一つでした。だから、岩倉使節団の一員として渡欧した。しかし、それは失敗に終わった。だから、さっさと帰って来た。

 「では、次に何をするか」
 普通なら、こう考えるのが自然な流れです。「気を取り直して」、という形です。
 つまり、画策に入る。
 しかし、どうもこれまでの大久保の行動を見ると、大久保は「次に何をするか」、とその時になって考える、画策する、という風ではない。
 大久保は常に「次に、何ができるか」を考えている。



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