2012.07/29 (Sun)
「人間は見えなくていい」 橋下市長、文楽に疑問提起
2012.7.27 14:23 msn産経ニュース
大阪市の橋下徹市長は27日、補助金の削減を打ち出している文楽について、「ふに落ちないのは人形劇なのに人間の顔が見える。見えなくていい」と疑問を投げ掛けた。市役所で記者団に述べた。
文楽は、三味線奏者と人形遣い、物語を読み上げる太夫で構成。主役級の人形は3人で操られ、顔と右手の動きを担う「主遣い」は顔を出し、ほかの2人は顔や姿が目立たないように黒子の衣装を着るのが一般的だ。文楽協会によると、もともと人形遣いは全員が黒子だったが、太夫や三味線奏者の姿が見えていることに合わせ、ある時期から主遣いだけの顔を見せるようになった。ただ詳しい由来は分かっていないという。
市長は「重鎮の言うことに若手が何も言えない(文楽の)構造を変えないといけない。顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」と述べた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
前回、記事本文中に「黒子」とあったのを、「?」と思い、辞書で調べたら「黒子でOK」、みたいに書いてある。
そんな筈はない、と調べたところから、「黒衣(くろご)は舞台に居ながら居ない」という約束事になっている、でも大変重要な存在、ということが分かりました。
「黒衣に徹する」というのは、決して目立つことはしないということです。
だけれども、全てを仕切る演出家であるということ、或る意味、役者は黒衣の操る人形になりきることで、観客を唸らせる舞台ができるのだと考えると、やっぱり、ただのお手伝いなんかじゃない。
「人間は見えなくていい」 橋下市長、文楽に疑問提起
2012.7.27 14:23 msn産経ニュース
大阪市の橋下徹市長は27日、補助金の削減を打ち出している文楽について、「ふに落ちないのは人形劇なのに人間の顔が見える。見えなくていい」と疑問を投げ掛けた。市役所で記者団に述べた。
文楽は、三味線奏者と人形遣い、物語を読み上げる太夫で構成。主役級の人形は3人で操られ、顔と右手の動きを担う「主遣い」は顔を出し、ほかの2人は顔や姿が目立たないように黒子の衣装を着るのが一般的だ。文楽協会によると、もともと人形遣いは全員が黒子だったが、太夫や三味線奏者の姿が見えていることに合わせ、ある時期から主遣いだけの顔を見せるようになった。ただ詳しい由来は分かっていないという。
市長は「重鎮の言うことに若手が何も言えない(文楽の)構造を変えないといけない。顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」と述べた。
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前回、記事本文中に「黒子」とあったのを、「?」と思い、辞書で調べたら「黒子でOK」、みたいに書いてある。
そんな筈はない、と調べたところから、「黒衣(くろご)は舞台に居ながら居ない」という約束事になっている、でも大変重要な存在、ということが分かりました。
「黒衣に徹する」というのは、決して目立つことはしないということです。
だけれども、全てを仕切る演出家であるということ、或る意味、役者は黒衣の操る人形になりきることで、観客を唸らせる舞台ができるのだと考えると、やっぱり、ただのお手伝いなんかじゃない。
それを十二分に承知し、たくさん舞台を見ることで、黒衣を「見えているけれども見ない」という実力を持った観客が育ち、それが伝統舞台を磨いてきた。
「何だか舞台に黒いのがうずくまっていて気になるなあ。あんなの居なけりゃいいのに」
なんて思ったことを口にしたら、
「お前さん、何言ってんだい。さては、歌舞伎、見たことないね。そんなこと言ったら笑われるよ。もうちょっと勉強してお出で」
などと周りからバカにされる。だから、黙って見ている。
そうこうするうちに、黒いのが居たって気にならなくなる。他に興味が湧いてきて、黒衣なんかどうでもよくなる。
人形浄瑠璃の人形遣いも、それにあたるわけです。だから、顔を隠す。
「ん?だったら、市長の言ってることが正しいんじゃないのか?顔を隠せ、と言ったんだろう?顔を隠したら見ないで済むんだから、って言ったんじゃなかったか?」
そうなんです。それです。そこに弁証法が出て来る。なぁ~んて。
①最初は黒衣が気になって仕方がなかった。
②それが、繰り返し見に行くうちに、黒衣の存在が全く気にならなくなった。
③けれども、それは「本当に見えなくなった」のではなく、「見なくなった」だけのことで、本当はちゃんと見えている。
「見たくないものは見えない」、「見てないけれど見えている」又は「意識してないだけで、実際には視界に入っている」わけです。
ということは、舞台を見る目が更に磨かれていけば、黒衣の仕事っぷりも「見ないけど見ている」ようになる。
「気になる」→「見なくなる」→「見ないけど、存在意義を実感している」
「日常心」 →「不動心」 →「平常心」
「認識」 →「否定」 →「否定の否定」
文楽(人形浄瑠璃)は乱暴に言えば、歌舞伎を人形に演じさせるわけです。
そして義太夫が語り、義太夫三味線がBGMを奏で、舞台が成り立つ。
太夫、三味線、人形遣い、それぞれの身に着けた技は時に国宝と称されるほどの物になります。事実、人間国宝になった名人はたくさんいます。
文楽を好きで通い詰めた者は、観客としても(変な表現ですが)優れた鑑評眼を持っています。「義太夫の声」だけでなく、「太棹の音」だけでなく、その身振り、手振り、姿容までも楽しもうとします。オペラでオーケストラボックスも見たがる、指揮者の指揮ぶりを見たい、と思うのと一緒です。
文楽だって一緒です。人形遣いの腕(技術)を見に行っている。
けれど、
「人形遣いは人形に命を吹き込み、人形の演技の手助けをしている」
、というのはあくまでも文学的表現であって、現実は人形遣いが全身全霊を込めて人形を操っている。
その時の一所懸命な人形遣いの技を、その感情を面に表さないようにしようと必死になっている様子を
「見たくない。顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」
なんて文楽好きが言うでしょうか。
名人と言われる人の技を、その人となりと併せて見なければ、満足できない。
「顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」
、なんてことは文楽を初めて見た人の言い種で、歌舞伎ならば、さっき書いたように「お前さん、そんなこと言ったら笑われるよ。もうちょっと勉強してお出で」とバカにされるところです。
果たして市長は文楽を見た二回目に、この科白を吐いたようで、一回目の近松の「曽根崎心中」の時には、
「昭和30年代に作られたにしてはラストシーンがあっさりし過ぎ。演出に工夫が必要だ」
とのたまった、とか。
文化というのは、その時代時代の人々が、良かれと思って作り出し、流行らせてきたものです。
「良かれと思う」、が基準だから、良いものもあれば悪いもの、徒花でしかないものもある。
伝統は、文字通り「その社会が肯定して伝えてきたもの」です。良し悪しではなく、その社会と不可分、その社会を成り立たせてきたものの一部、です。
「統」、「統べる(すべる、すめる)」、だから、一部ではあっても切り離すことは命取り。
それぞれの「文化継承、伝統の継承」に一生を捧げてきた人は、それだけでも文句なしに尊敬されるべきです。それについて何も知らなくとも、まずは立派であると認めるべきです。間違いなく日本を支えているのですから。
「こくほー?何?それ。美味しいの?」
社会人でなければ笑って許されることでも、立派な大人、それも「府」を「都」にしようと画策する重要人物たる人間が、知りもせず、当然何の習練もせず、その道に献身している人々に対し、ここまでの認識不足が故の放言をするということは許されるべきことではありません。
一事が万事です。文楽に対してだけ、だったんでしょうか、認識不足の放言は。
これまでの、大阪府民をはじめ多くの国民から拍手喝采を浴びた数々の激しい主張は、相手の思いをしっかり把握した上で、本当に相手の仕事を認識した上で、のことだったんでしょうか。
「何だか舞台に黒いのがうずくまっていて気になるなあ。あんなの居なけりゃいいのに」
なんて思ったことを口にしたら、
「お前さん、何言ってんだい。さては、歌舞伎、見たことないね。そんなこと言ったら笑われるよ。もうちょっと勉強してお出で」
などと周りからバカにされる。だから、黙って見ている。
そうこうするうちに、黒いのが居たって気にならなくなる。他に興味が湧いてきて、黒衣なんかどうでもよくなる。
人形浄瑠璃の人形遣いも、それにあたるわけです。だから、顔を隠す。
「ん?だったら、市長の言ってることが正しいんじゃないのか?顔を隠せ、と言ったんだろう?顔を隠したら見ないで済むんだから、って言ったんじゃなかったか?」
そうなんです。それです。そこに弁証法が出て来る。なぁ~んて。
①最初は黒衣が気になって仕方がなかった。
②それが、繰り返し見に行くうちに、黒衣の存在が全く気にならなくなった。
③けれども、それは「本当に見えなくなった」のではなく、「見なくなった」だけのことで、本当はちゃんと見えている。
「見たくないものは見えない」、「見てないけれど見えている」又は「意識してないだけで、実際には視界に入っている」わけです。
ということは、舞台を見る目が更に磨かれていけば、黒衣の仕事っぷりも「見ないけど見ている」ようになる。
「気になる」→「見なくなる」→「見ないけど、存在意義を実感している」
「日常心」 →「不動心」 →「平常心」
「認識」 →「否定」 →「否定の否定」
文楽(人形浄瑠璃)は乱暴に言えば、歌舞伎を人形に演じさせるわけです。
そして義太夫が語り、義太夫三味線がBGMを奏で、舞台が成り立つ。
太夫、三味線、人形遣い、それぞれの身に着けた技は時に国宝と称されるほどの物になります。事実、人間国宝になった名人はたくさんいます。
文楽を好きで通い詰めた者は、観客としても(変な表現ですが)優れた鑑評眼を持っています。「義太夫の声」だけでなく、「太棹の音」だけでなく、その身振り、手振り、姿容までも楽しもうとします。オペラでオーケストラボックスも見たがる、指揮者の指揮ぶりを見たい、と思うのと一緒です。
文楽だって一緒です。人形遣いの腕(技術)を見に行っている。
けれど、
「人形遣いは人形に命を吹き込み、人形の演技の手助けをしている」
、というのはあくまでも文学的表現であって、現実は人形遣いが全身全霊を込めて人形を操っている。
その時の一所懸命な人形遣いの技を、その感情を面に表さないようにしようと必死になっている様子を
「見たくない。顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」
なんて文楽好きが言うでしょうか。
名人と言われる人の技を、その人となりと併せて見なければ、満足できない。
「顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」
、なんてことは文楽を初めて見た人の言い種で、歌舞伎ならば、さっき書いたように「お前さん、そんなこと言ったら笑われるよ。もうちょっと勉強してお出で」とバカにされるところです。
果たして市長は文楽を見た二回目に、この科白を吐いたようで、一回目の近松の「曽根崎心中」の時には、
「昭和30年代に作られたにしてはラストシーンがあっさりし過ぎ。演出に工夫が必要だ」
とのたまった、とか。
文化というのは、その時代時代の人々が、良かれと思って作り出し、流行らせてきたものです。
「良かれと思う」、が基準だから、良いものもあれば悪いもの、徒花でしかないものもある。
伝統は、文字通り「その社会が肯定して伝えてきたもの」です。良し悪しではなく、その社会と不可分、その社会を成り立たせてきたものの一部、です。
「統」、「統べる(すべる、すめる)」、だから、一部ではあっても切り離すことは命取り。
それぞれの「文化継承、伝統の継承」に一生を捧げてきた人は、それだけでも文句なしに尊敬されるべきです。それについて何も知らなくとも、まずは立派であると認めるべきです。間違いなく日本を支えているのですから。
「こくほー?何?それ。美味しいの?」
社会人でなければ笑って許されることでも、立派な大人、それも「府」を「都」にしようと画策する重要人物たる人間が、知りもせず、当然何の習練もせず、その道に献身している人々に対し、ここまでの認識不足が故の放言をするということは許されるべきことではありません。
一事が万事です。文楽に対してだけ、だったんでしょうか、認識不足の放言は。
これまでの、大阪府民をはじめ多くの国民から拍手喝采を浴びた数々の激しい主張は、相手の思いをしっかり把握した上で、本当に相手の仕事を認識した上で、のことだったんでしょうか。