goo blog サービス終了のお知らせ 

CubとSRと

ただの日記

くろこ?くろご?リーダーの在り方(後)

2020年02月09日 | 重箱の隅
2012.07/29 (Sun)

 「人間は見えなくていい」 橋下市長、文楽に疑問提起
2012.7.27 14:23    msn産経ニュース

 大阪市の橋下徹市長は27日、補助金の削減を打ち出している文楽について、「ふに落ちないのは人形劇なのに人間の顔が見える。見えなくていい」と疑問を投げ掛けた。市役所で記者団に述べた。
 文楽は、三味線奏者と人形遣い、物語を読み上げる太夫で構成。主役級の人形は3人で操られ、顔と右手の動きを担う「主遣い」は顔を出し、ほかの2人は顔や姿が目立たないように黒子の衣装を着るのが一般的だ。文楽協会によると、もともと人形遣いは全員が黒子だったが、太夫や三味線奏者の姿が見えていることに合わせ、ある時期から主遣いだけの顔を見せるようになった。ただ詳しい由来は分かっていないという。
 市長は「重鎮の言うことに若手が何も言えない(文楽の)構造を変えないといけない。顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」と述べた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 前回、記事本文中に「黒子」とあったのを、「?」と思い、辞書で調べたら「黒子でOK」、みたいに書いてある。
 そんな筈はない、と調べたところから、「黒衣(くろご)は舞台に居ながら居ない」という約束事になっている、でも大変重要な存在、ということが分かりました。

 「黒衣に徹する」というのは、決して目立つことはしないということです。
 だけれども、全てを仕切る演出家であるということ、或る意味、役者は黒衣の操る人形になりきることで、観客を唸らせる舞台ができるのだと考えると、やっぱり、ただのお手伝いなんかじゃない。

 それを十二分に承知し、たくさん舞台を見ることで、黒衣を「見えているけれども見ない」という実力を持った観客が育ち、それが伝統舞台を磨いてきた。
 「何だか舞台に黒いのがうずくまっていて気になるなあ。あんなの居なけりゃいいのに」
 なんて思ったことを口にしたら、
 「お前さん、何言ってんだい。さては、歌舞伎、見たことないね。そんなこと言ったら笑われるよ。もうちょっと勉強してお出で」
 などと周りからバカにされる。だから、黙って見ている。
 そうこうするうちに、黒いのが居たって気にならなくなる。他に興味が湧いてきて、黒衣なんかどうでもよくなる。
 人形浄瑠璃の人形遣いも、それにあたるわけです。だから、顔を隠す。
 「ん?だったら、市長の言ってることが正しいんじゃないのか?顔を隠せ、と言ったんだろう?顔を隠したら見ないで済むんだから、って言ったんじゃなかったか?」
 そうなんです。それです。そこに弁証法が出て来る。なぁ~んて。
 ①最初は黒衣が気になって仕方がなかった。
 ②それが、繰り返し見に行くうちに、黒衣の存在が全く気にならなくなった。
 ③けれども、それは「本当に見えなくなった」のではなく、「見なくなった」だけのことで、本当はちゃんと見えている。

 「見たくないものは見えない」、「見てないけれど見えている」又は「意識してないだけで、実際には視界に入っている」わけです。
 ということは、舞台を見る目が更に磨かれていけば、黒衣の仕事っぷりも「見ないけど見ている」ようになる。

 「気になる」→「見なくなる」→「見ないけど、存在意義を実感している」
 「日常心」 →「不動心」  →「平常心」
 「認識」  →「否定」    →「否定の否定」

 文楽(人形浄瑠璃)は乱暴に言えば、歌舞伎を人形に演じさせるわけです。
 そして義太夫が語り、義太夫三味線がBGMを奏で、舞台が成り立つ。
 太夫、三味線、人形遣い、それぞれの身に着けた技は時に国宝と称されるほどの物になります。事実、人間国宝になった名人はたくさんいます。
 文楽を好きで通い詰めた者は、観客としても(変な表現ですが)優れた鑑評眼を持っています。「義太夫の声」だけでなく、「太棹の音」だけでなく、その身振り、手振り、姿容までも楽しもうとします。オペラでオーケストラボックスも見たがる、指揮者の指揮ぶりを見たい、と思うのと一緒です。
 
 文楽だって一緒です。人形遣いの腕(技術)を見に行っている。
 けれど、
 「人形遣いは人形に命を吹き込み、人形の演技の手助けをしている」
 、というのはあくまでも文学的表現であって、現実は人形遣いが全身全霊を込めて人形を操っている。
 その時の一所懸命な人形遣いの技を、その感情を面に表さないようにしようと必死になっている様子を
 「見たくない。顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」
 なんて文楽好きが言うでしょうか。
 名人と言われる人の技を、その人となりと併せて見なければ、満足できない。
 「顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」
 、なんてことは文楽を初めて見た人の言い種で、歌舞伎ならば、さっき書いたように「お前さん、そんなこと言ったら笑われるよ。もうちょっと勉強してお出で」とバカにされるところです。

 果たして市長は文楽を見た二回目に、この科白を吐いたようで、一回目の近松の「曽根崎心中」の時には、
 「昭和30年代に作られたにしてはラストシーンがあっさりし過ぎ。演出に工夫が必要だ」
 とのたまった、とか。

 文化というのは、その時代時代の人々が、良かれと思って作り出し、流行らせてきたものです。
 「良かれと思う」、が基準だから、良いものもあれば悪いもの、徒花でしかないものもある。
 伝統は、文字通り「その社会が肯定して伝えてきたもの」です。良し悪しではなく、その社会と不可分、その社会を成り立たせてきたものの一部、です。
 「統」、「統べる(すべる、すめる)」、だから、一部ではあっても切り離すことは命取り。
 それぞれの「文化継承、伝統の継承」に一生を捧げてきた人は、それだけでも文句なしに尊敬されるべきです。それについて何も知らなくとも、まずは立派であると認めるべきです。間違いなく日本を支えているのですから。

 「こくほー?何?それ。美味しいの?」 
 社会人でなければ笑って許されることでも、立派な大人、それも「府」を「都」にしようと画策する重要人物たる人間が、知りもせず、当然何の習練もせず、その道に献身している人々に対し、ここまでの認識不足が故の放言をするということは許されるべきことではありません。
 一事が万事です。文楽に対してだけ、だったんでしょうか、認識不足の放言は。
 これまでの、大阪府民をはじめ多くの国民から拍手喝采を浴びた数々の激しい主張は、相手の思いをしっかり把握した上で、本当に相手の仕事を認識した上で、のことだったんでしょうか。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

くろこ?くろご?リーダーの在り方(前)

2020年02月09日 | 重箱の隅
2012.07/28 (Sat)

 「人間は見えなくていい」 橋下市長、文楽に疑問提起
2012.7.27 14:23    msn産経ニュース

 大阪市の橋下徹市長は27日、補助金の削減を打ち出している文楽について、「ふに落ちないのは人形劇なのに人間の顔が見える。見えなくていい」と疑問を投げ掛けた。市役所で記者団に述べた。

 文楽は、三味線奏者と人形遣い、物語を読み上げる太夫で構成。主役級の人形は3人で操られ、顔と右手の動きを担う「主遣い」は顔を出し、ほかの2人は顔や姿が目立たないように黒子の衣装を着るのが一般的だ。文楽協会によると、もともと人形遣いは全員が黒子だったが、太夫や三味線奏者の姿が見えていることに合わせ、ある時期から主遣いだけの顔を見せるようになった。ただ詳しい由来は分かっていないという。
 市長は「重鎮の言うことに若手が何も言えない(文楽の)構造を変えないといけない。顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」と述べた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「黒子」。
 これ、何て読みます?「くろこ」?それとも「くろご」?はたまた「ほくろ」?
 これは「くろご」と読むんだそうです。
 でも、その読み方、間違いです。これは正しくは「ほくろ」と読みます。

 二、三十年前、萩本欽一の番組で、小堺一樹と関根勉が黒い衣装とグレーの衣装を着て「くろことぐれこ」と称して、番組の前座を務めていました。
 番組への導入のための二人の軽妙な掛け合いが好評を博し、「ぐれこ」はともかく、「くろこ」という言葉はすっかり市民権を得ました。
 その頃から「黒子」と書いても注意されなくなったんじゃないでしょうか。「くろごとぐれご」じゃ、こうはいかなかったと思います。
 まあ、これは勝手な思いつきでしかないんですが。

 「黒子」は、「ほくろ」と読む、と書きました。この「子」は接尾語で、意味はありません。くっつけるだけです。
 古くは「瓶」に子をつけ「瓶子」と言っていました。「障子」の「子」も、そうです。「どじょっこ」の「子」。「べ~」と啼くから「べこ」。その子は「べこのこ」だから「べこっこ」。
 沖縄では「~ぐゎぁ」。これは「個」だと思われていますが、「子」の意味合いです。
 大陸では日本人を蔑んで「日本鬼子」或いは「東洋鬼子」。最近は「日の本鬼子の逆襲」で骨抜きにされてしまいましたが。
 とにかく、何かにつけて「子」をつけます。
 そんなことで、「黒子」は「黒いの」といったような意味合いです。
 
 歌舞伎の座付き作家は、科白を忘れた主役にカンニングさせたり、早変わりの手伝いのために舞台に出ることがあるんだそうです。
 当然、目立ってはいけません。だから上下共黒の衣装をつけ、御丁寧に紗の黒布で顔を隠し、目立たぬようにします。
 そうです。「黒い衣」を着ている。「くろごろも」を着ている。
 だから「くろごろも」→「くろご(ろも)」。
 というわけで「くろご」→「黒衣」なんです。

 でも、これ、気が付かれました?
 華やかな舞台に、全身黒づくめの人間がいたら、しゃがんでいても結構目立ちますよ。目立たないように小さくなってるけど。
 いくら小さくなっていても、初めて見たら相当違和感がある。
 それを、その場にはいないもの、という約束事に慣れると、存在には気が付いて(当たり前ですね)いても気にならなくなる。そんなことより、舞台上の役者の演技に惹きつけられるのであって、
 「あの黒衣はうまいねぇ。ちっとも目立ってない」
 「え?ほんとだねぇ。言われるまで居たの、気が付かなかった!」
 なんて、黒いのが目立たぬように努力しているのを見て感心する、なんて馬鹿なことは誰もしない。
 野球の試合を見るのに、「今日は~が塁審だから、見に行こう!」
 どう考えたっておかしいでしょう?
 黒衣(くろご)は意識しない存在であって、でも大変重要な存在なんです。

 最近「人間は見たくないものは見えないのであって」という名言がどこかの事故調査委員会から出されていましたが、黒衣は正にそんな存在です。
 「見えているのに見えない」。これは観客側にも習練が必要だということでもあります。いくつもの約束事を身に着けていなければ、それを十分に楽しむことはできない。
 以前にも書いたパターン、
 「ほら、芝居、やって見せろよ、楽しんでやるから。オレはお客様、だぜぇ~」
 みたいなことでは、心底楽しめるわけがない。楽しむための能力が不足しているわけですから。
 色々な約束事を学び、自らもそのことのための習練(芝居を多く見ること)をして、一人前のお客となってやっと楽しめる。金さえ払ったらオレは王様、なんて薄っぺらい文化、国が援助する必要なんてない。

 次回、後半の展開、見え見えですか?

 ×正に⇒○将に
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お辞儀⑤ (あの礼は・・・・)

2020年02月09日 | 重箱の隅
2013.02/19 (Tue)

 似通った感じの、手を重ねてするお辞儀はと考えると、これ、手の位置を変えればいくらでもありそうです。
 キリスト教の礼拝の時、指を組んで祈る。
 隣の大国では拱手(きょうしゅ・こうしゅ)と言って、重ねた手を胸の高さから額の高さにまで上げ、頭は逆に下げるやり方が知られています。
 手を合わせる、仏教の合掌も、「合掌礼」とする見方もある。
 それから、日本では重ねた手を臍の下辺り(臍下丹田)に置き、脇を締める形が一般的です。その際、陽の手である左手を上にするのが普通じゃないでしょうか。
 しかし「あの」礼はここに挙げたどれとも違う。

 で、ネットで見つけた文に
 「あれはチョゴリの形に影響されてあの形になったのです」
 というのがありました。それに続けて
 「チョゴリの短い上着の、裾の部分に近いところに手を置き、緩やかに上体を曲げると、長い袴(褲子・スカート)と上衣を抑えることができるので、脚が長く、美しく見えるのです」
 といったようなことが書かれてありました。

 確かに、日本式に臍の下辺りに手を置くと、スカートのかなり低いところに手を置くことになり、あの長い袴でできる美しいA形のシルエットが台無しになります。そして日本式に上体をまっすぐにして、腰から、前に倒すようにするお辞儀も、スカートのシルエットを途中で大きく崩すことになる。
 反対に帯をきりっと結んだ和服で、この形をとると、今度はとてもだらしなく見えることでしょう。「腰」の文字が表す通り、「要」の部分をはっきりと帯で決めているのですから、上体を丸めるようなお辞儀は、「らしく」ない。
 だから、必要に応じて作られた優れた形だ、と思いますよ、「チョゴリを着ている場合は」。

 ついでながら拱手(きょうしゅ・こうしゅ)の影響もあったと思われます。
 しかし、「儒教の国」、です、女性が男性と同じ礼式を用いたかどうか。
 何しろ「儒教」では、女性は人間ではない、でしょう?ただし、家の後継者である男子を産めば、「母」となり、特別な存在として、敬われる。
 本来、拱手は神を祀る際の礼法でしょうから、段々に貴人に対しても使われるようになる。すると手の位置も少しずつ低くなる。
 朝鮮の服装と「儒教」の理解度とが相俟ってあの形になったのではないでしょうか。

 前に書きかけましたが、日本の礼法はこれらのものとは随分趣を異にします。
 手は下腹部(臍下丹田・下丹田)。正座の場合は脚の付け根。そしていずれも脇を締める。
 蹲踞礼、というのもあります。相撲や剣道で見られるあれです。あの形で、同じく手は脇を締め、指を揃えて脚の付け根に置く。それから右手、又は両手の指先を地面につける。
 地につけることで土地神(産土神)に礼を尽くす、という意味がありました。

 意味のある「礼法」と、必要に応じて作られた「仕種」。
 仕種の中には、洗練されて「粋」とまで言われるようになった「江戸しぐさ」等もあります。けれども、日本では「礼法」と「仕種」は根本から違います。
 礼法は神への感謝から。仕種は利便性の追求から、それぞれつくられたものです。
 では、お辞儀は礼法か、それとも仕種か。 
 相手は目上とは言え、人間です。だから「礼式」、とまではいかないけれど、「仕種」と言い切るのにも無理がある。
 ですが、当然のことながら、感謝の念と利便性の両面を念頭に、せめてTPOは弁えるものでしょう。勿論、服装、込み、ですよ。


 長々と書いて来ましたが、結論は呆気ないものです。
 「朝鮮式の飲み方を日本でする必要はない。国会では厳禁。どこの代議士なんだか分からない」
 「朝鮮式の握手は和服を着た時だけ。ただし、基本的に和服の時は握手はしない。『粋』、ではないから」
 「朝鮮式のお辞儀は、チョゴリを着た時以外は不細工」
 それぞれやりたきゃ、やっても良いんですけどね。「私は日本人ではありません」っと言ってるようなものです。いや、良いんですけどね、人それぞれだから。

 まあ、私は、「礼法」に近いところのお辞儀を初めとする「仕種」は「場」の雰囲気を変える力を持っているんですから、「背中を丸め、柔らかくする」より、「背筋を伸ばし、折り目正しくやる」方が良いんじゃないかなぁ~、と思っています。

 まとまらぬことを、思いつくままに書いて来ましたが、この件はこれで終わります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お辞儀④ (詰め)

2020年02月09日 | 重箱の隅
2013.02/18 (Mon)
 「何んとなし、つい、いつもの癖で口元を隠して水を飲む。そんなところに本性が現れる」。織田信長が荒縄を帯代わりにしたままで今川義元の前に出るようなもの。「神は細部に宿る」、だからです。
 もう一つ。
 これと同じく、だから、考えの詰められてない(相手のはっきりしない)礼法。

 握手する時、空いた左手を握手している右腕の肘に添える。
 これも朝鮮独特のやり方だと言われています。やってた議員、いましたね、前の与党に。でも、あの形、実は日本でも普通にやりませんか?私はやりますよ。
 いや、大半の日本人はごく普通に、何気なしにすると思いますよ、着物を着てる時は。何か、目の前の物に手を伸ばす。その時、着物の袖が手前の物に当たらぬよう、ごく自然に空いた左手を添えませんか?
 ・・・・・・という事なんです。あれは着物の袖が邪魔にならぬように手を添える形です。着物を着ている時に、握手をしようと腕を伸ばせば誰だって空いた手を袖に添える。

 ただ、あんまり気にならないのは、日本人って、着物着ている時、あんまり握手しないでしょう?見ること自体がないから気にならないだけなんじゃないでしょうか。
 大体が、握手という習慣自体、日本にはないし、着物着ている時の握手ってのは、見映えが悪いから普通、しようとは思わない。

 問題はここからです。
 繰り返しますが日本人は着物を着ている時は自然にそうするけれど、洋服の時はそんなことはしない。
 これは「見映えが悪いから」と書いたように、言ってみれば江戸しぐさみたいなもので、「粋」ではあっても、作法ではないからでしょう。
 「洋服着ている時にそんなことしたら、間抜けだよな。袖もないのに。」
 日本人ならそう思う。

 朝鮮だって、元々握手はしなかった。それが色んなところが洋風になって、握手も日本以上に盛んになった。でも、昔の服装のままの仕種を遺している。それは間違いなく「作法」或いは「礼法」となっているからでしょう。
 「腕を前に伸ばす時は袖を抑えるもんだ。それが礼、ってもんだ」
 袖のあるものを着ていようがいまいが、そうするもんだ、それが「教え」だ、と。

 「意図するところが分かっていれば、何でもかんでも礼法にすることはなかろう。」これが日本の考え方。
 「意図を邪推するなんて。先人の遺された『教え』だ。何が何でも守らなければ。」これが朝鮮の考え方。
 そして、この「何が何でも」、を日本の国会議員が「いつものくせ」で・・・・。
 「日本の心云々」以前に、そんなことさえ気づかない者に、一体どれほど詰めた議論ができるのか、ということです。

 「早合点は禁物」
 「心を知ろうとせず、形だけ伝えようとすることの愚かさ」
 「高上であるものも、理解能力の枠分しか掴めない」
 「粋(文化)とするか、礼式(法・決まり)とするか」

 で、やっと「あの」お辞儀、です。
 重ねた両手を腹部に付け、脇を開けて立ち、背中を丸めるようにして頭を下げるお辞儀。あの一風変わったお辞儀は、何故朝鮮で行われているのでしょう。
 そして、何故、一部の新入社員研修等ではそれが正しいお辞儀とされているのでしょうか。 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お辞儀③ (儒教)

2020年02月09日 | 重箱の隅
2013.02/17 (Sun)

 朝鮮というのは「儒教の国」、でしたね。「儒学が盛ん」、ということではなく。

 儒学は、両班(と言っても厳密には文班だけ、でしょうけど)は学び、また研究したんでしょうが、残り九割の庶民はそんなことをすることは許されなかっただろうし、する気も、その能力もなかった。無学文盲なわけですから。
 でも、儒教の「礼法」は朝鮮の風土、国情に合わせて変容させられながらも、文化として伝えられ続けてきた。だから「朝鮮は儒教の国」、です。

 「何だか分からないけど昔からそうなってるんだよ」で、ずっと伝えてきた。
 ちょっと考えれば分かることでも考えることをせず、「それが当然」、で、でも伝えるだけは伝えてきた。皮肉っぽく言えば「旧来の陋習」というように批判的に見る意識もなかった。ただただ、とにかく伝え続けて来た。何しろえらい「孔子さま」の教えですからね。そんなだから一般的に言う「形骸」となってしまっていただろうことは、想像に難くない。

 脱線しますけど、この捉え方と「孔子朝鮮人説」は同根、でしょうね。理解能力の範囲からすれば。
 儒教では、目上の人の前で一緒に食事を摂ることは、基本的に「ない(できない)」のだけれど、盃を賜ることはある。しかし、その時、目上の人と同等に飲むところを見せるのは失礼だ、という事で、飲む口元を隠すのが礼儀だとされた。
 日本だって、明治になっても主人と使用人は一緒に食事、なんてなかったし、「盃を賜る」ことも、まず、なかった。たとえあってもその場ではなく、使用人へは別の場で与えられた。
 だからここまでは、日本も朝鮮も同じです。しかし、ここからが違う。

 日本では「大口を開けて物を食べるのは卑しいこと」とされていましたが、目上の人がその場に居る居ないにかかわらず、「口元を隠して食べろ」なんてことは言われなかった。日本の方が野蛮なんでしょうか?
 そんなことはない。それどころか日朝間ではその飲食時の心の持ち様に天と地ほどの開きがあります。日本で「大口開けて食べるのは卑しい、下品なことだ、失礼だ」とされるのは、目上の人に対してではありません。目上の人の有無は関係ない。あれは「食物に対して失礼だ」、ということでした。
 他の命をいただいて自分の命とする。だから、「いただきます」、と言う。仏教も神道もそこは同じです。「命をいただくのに、だから『いただきます』と言うのに、そんな下品な、卑しい食べ方は失礼だ」、と。

 けれど朝鮮の「口元を隠して飲む」というのは、目上の人に対して失礼だ、というだけなんですから。
 本当に失礼だと思うんなら、有り難く受けても口をつける振りだけするか、いただいても別の間に下がって飲むかするものです。しかし、朝鮮の「儒教」では、礼法として口元を隠して飲む形を作り上げた。略式の礼法なんでしょうが、それで足れりとする考え方からは、「仁」の教えは全く見えてきません。

 「礼楽(礼法と奏楽)」という、「形の学び」の中から、その品位、気位、境地、更には豊かな感情等といった、「形のない、見ることのできないもの」を知り、己がものにするのが儒教の筈です。しかし朝鮮では、その形を略して(おろそかにして)学び、「そういうもの」、としてただの慣習にしてきた、ということになりましょうか。

 その朝鮮式礼法を民団などの宴会に招かれた議員が学び、参会者の歓心を買うがためにやって見せた。これは小泉進次郎議員が行く先々で、開口一番、その土地の方言で話し掛ける、そうやって土地の人の心をわしづかみにすることと似ています。実際、そっくりでしょう?でも、これ、根本からして、全く違いますよね?
 進次郎議員は秋田に行けば秋田の、鹿児島に行けば鹿児島の方言で話し掛ける。決して秋田で鹿児島弁を喋ったり、鹿児島で秋田弁を、という事ではない。
 当然「その場に合わせ、文化に合わせて使う」ことで衆人の心をつかむこと、それが目的です。

 つまり、「民団などの宴会に招かれた議員が学び、参会者の歓心を買うがためにやって見せ」ること自体は何も問題ではない。却って代議士なら褒められるべきことです。何故って衆人の代表として発言するわけですから人心を収攬する術を心得ている方が良いに決まっている。あまり好きな言葉ではないのですが、「人たらし」のテクニックがある、というのは絶対に有利なんですから。

 ここまでは、だから、良い。
 けれど、民団の会合ではなく、国会で朝鮮式の水の飲み方をする、というのは一体何を意図してのことか。目上の人ばかりだから?そんなことはない。
 第一、代議士、「士」、として演台を前にしてるんです。日本の国会、日本の代議士として日本の在り方で堂々と飲めばよい。「衆人の前で失礼だ」、と思うんなら飲まなければ良い。盃を賜ったわけではない、飲むのまないは自由でしょう。
 ということは「一体、何を意図してのことか」、なんて愚問で、実は「何も考えてない。ごく自然にやってしまった飲み方だった」と断じてもよいのではないでしょうか。

 ●「朝鮮ではそうやって飲むのだ、と教えられ、やって見せたら褒められた。それで気を良くしてやっていたら、クセになった」
 ●「そういう家庭環境の中で、或いはそういう社会環境の中で生まれ育った」
 繰り返しますが、良いんですよ、別に。何の問題もない。

 けれど、国会でそれをやったとしたら、それは既に代議士として不適格だ、と告白しているようなものです。「場を弁えよ」、なんかじゃありません。もっと重大なことです。国政について論議する場で、無意識にそういうことをする。無意識であるからこそ「一事が万事」、何気ない挙動に本心は表れる。
 真剣に国政について論議するべく選出された「選良」が、衆人の歓心を買うがためにやったことを、何の気もなく国政の場でも、やってしまう。こんなこと一つ気配りができない、つまり、詰めて考えられないで、一体どれだけの論議ができるのか、ということです。
 汚職、女性問題などで醜聞を流しているけれども、優れた意見を述べる議員。
 何も問題を詰めて考えられない議員。どちらが国にとって有用か、です。 

 追、
 文班と武班、併せて「両班」です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする