水川青話 by Yuko Kato

時事ネタやエンタテインメントなどの話題を。タイトルは勝海舟の「氷川清話」のもじりです。

・ブレードランナー「ファイナルカット」 なんという傑作か

2007-11-26 00:55:00 | エンタテインメント系
15年ぶりに大画面で「ブレードランナー」を観た。

公開25周年を記念した、リドリー・スコット監督自身による「ファイナル・カット」。デジタル・リマスターによって映像がブラッシュアップされ、そして一部のカットが挿入され(ティレル社長のあの場面とか)。

ネタばれしないように書くのが難しいな。以下は、DVDででも、新宿バルト9(月末まで)ででもいいので、まず観てから読んで下さい。

15年前に映画館で観たのが、「ディレクターズ・カット」。日本だと「最終版」とか呼ばれてるやつ。つまりは、最初の劇場公開版のどうしようもないナレーションとか、いたずらにハリウッド的な「希望に満ちた」エンディングとかが一切けずられ、さらには、主役・デッカード(ハリソン・フォード演じる)が何者であるかを理解するのに必要不可欠な、あの「ユニコーンの場面」が挿入された。

これを私は忘れもしない1992年秋にNYの映画館で観て以来、「ブレードランナー」信者となった。

SF映画ファン、男性映画ファンの多くは(そして特にイギリス人のそういう人の多くは)、「史上最高の映画」「SF映画最高の傑作」と呼ぶ。史上最高かどうかは「映画」という表現芸術に何を求めているかで評価が分かれると思うが、少なくとも私の観てきたあらゆる映画のなかでベスト5に入るのは確実だ。

なぜか。それは、いろいろあるが、最大の要素は、映画でしかできないことをやっているから。
その前提条件としてはもちろん、優れた「物語」の表現として必須だと私が思う条件を当然のようにクリアしているからで。それはつまり――
1. 重層的な物語(あらゆるレベルで、あらゆる登場人物を主題に、多層的な物語が語られている。勧善懲悪ではない)
2. 重層的な物語を貫く、素直すぎるほどシンプルで普遍的なテーマ(「ブレードランナー」の場合は「私は何者か。私は何のために生まれて来たのか。生きるとは何か」)
3. 独自の美しさを確固としてもっている

「最高」と称されるほど優れた物語には必須だと思うこの3条件に加えて(これは小説だろうが映画だろうが共通)、「最高な映画」だと私が思うには不可欠な、「映画でしかできないことをやっているか」に、この「ブレードランナー」は十二分に応えていて。小説でもマンガでも演劇でもできない。映画でなければできないこと。それを大画面では15年ぶりに観て、改めて圧倒された。

小説やマンガでは不可能な、音と音楽! DVDを観るモニタでは再現できない(少なくともうちの小さな画面では)、セットや衣装のディテール。そして大画面ならではの圧巻。さらには、物語の理解に実はとてもとても重要な、デッカードの瞳の光り方……。

ほとんどの台詞を同時に言えるくらい見込んだ映画。なのに、観ている間中、ドキドキドキドキしていた。残酷な場面(今回、はっきり残酷行為を映しているカットがことさらに追加されてたし)には、もう何度も何度も見ていていつくるかわかってるのに、「……ひぃ……」と体がこわばり(ティレル社長の例の場面とか、デッカードの指が折られるところとか。指が折られるところ、DVDで観てても毎度「やめてー」となるのに、それを大画面でやられると本当に辛いということを実感)。

ゾーラが「引退」させられ、プリスが「引退」させられ……ここでもすでに、何度も見ているはずなのに、久しぶりに大画面であの痛切な美しさに圧倒されて、落涙。ここですでにこんなになってたら、ロイ・バティー(ルトガー・ハウアー一世一代の名演)のあの場面はどうなってしまうのか……と危惧していたら案の定。

あの有名に有名な。あの有名すぎるほど有名な。映画史上に確実に残ると思うあのロイの最期。" I have seen things you people wouldn't believe」で始まる、あの独白。

「All those ... moments will be lost in time, like tears...in rain. ...」
(この字幕は日本語では「涙のように、雨のように」で定着してしまっていて、それはそれでいいし、今回もそれが使われてましたが、あえて英語ペダント発言をすると、正確には「雨に消されてしまう、涙のように」です。場面の情景的にも、それが正しい)

「All those ... moments will be lost in time, like tears...in rain. ... Time.... to die....」

「こうした瞬間は全て、時の流れの中で失われてしまう。雨に消されてしまう、涙のように。死ぬ……時、だ……」

自分がなぜ生まれたか、創られたか。なぜわずか4年で死ななければならないのか。なんのための「短い分だけ明るく燃えるろうそくのような」生だったのか。なぜ、なぜ、なぜ……。このあらゆる憤り。そして、4年という間に燃え盛った「生」の輝き。その全てを、ちょっと照れたような、はにかんだような微笑の中に飲み込んで、レプリカントが死んでいく。あの場面。

「ブレードランナー」が史上最高の映画かどうかは即答しがたいのだけれども、「死」の場面としてこれ以上のものを、私は観たことがありません。それくらいの、圧巻。

何度も何度も何度も何度も見ているのに。

「Like tears in rain..... Time.... to die .....」

劇場の暗闇の中で感情がさらわれてさらわれて……。嗚咽が漏れるほど。

同じような思いの人が多かったのか。日曜で満員の客席は誰も、エンドクレジットで立つ人もなく。

年齢層がけっこう高かったので、初見の人がどれくらいいたのか分からないけれども。今回のこの形で、大画面で、「ブレードランナー」を初見できる人は、ある意味で幸せなのかもしれない。この革新性を、この新しさを、この普遍性を、古典性を、こんな恵まれた条件で初体験できて。

でもこれは25年も前の映画なんですよ。これがなければ、「AKIRA」も「鉄コン筋クリート」も「甲殻機動隊」もなかっただろうし、よって「マトリックス」もない。それぐらいこれは、時代に先駆け(すぎた、よって初公開当時は映画会社にも一般客にも理解されなかった)た、予言的な映画。

25年前の当時、希望に満ちた明るい未来を描いた「スタートレック」的未来観へのアンチテーゼとも呼ばれたこの「ブレードランナー」。誕生から25年を経て、どちらがより予言的だっただろうか(スタトレも、予言的というか、影響は大でしたけどね。携帯電話の開発はスタトレなくてありえなかったんじゃないかと思うし)。

ともかくも、久しぶりに映画館で、心と体が揺さぶられてクタクタになる思いをした。しかも、もう何度みたか分からないほど観倒している映画で。映画史上に残る傑作です。「ブレードランナー」。