長い間、ご無沙汰してしまいました。
最後にブログを書いたのは大震災の少し前。
あのときと、いまとでは、
日本の状況は大きく変わってしまいました。
あまりにのんびりとした最後の更新が
わたしに色々なことを考えさせます。
きっと、あの日、震災に遭う直前まで、
多くの被災者の方も、こうしていつも通りの日常を、
当たり前に明日が来るような、そんな日常を過ごしていたのだと思います。
震災の時刻、わたしは家族と東京の街中にいました。
ぐらっと揺れた瞬間には、それほど大きな地震だとは思わなくて、
同じ店の前にいたお兄さんが、「あれ?地震じゃねぇ?」と
のんびりタバコをくゆらせながらつぶやいていたのを覚えています。
でも、その直後、体験したことの無いような大きな揺れに襲われて、
いま目の前にいたお兄さんも「ヤバイ!逃げろ!」と走り出し、
一瞬にして姿が見えなくなってしまいました。
周辺のビルから、どんどん人が逃げ出してきて、
大都会では、もはや安全な場所がどこなのかも分からず、
わたしたちも家族でがっちりと固まりながら
交通が完全にストップした大通りの真ん中で
ひたすら揺れに耐えました。
まだ2歳と0歳。(当時)
状況がまったく飲み込めていない子どもたちの
頭を守ることに必死でした。
こんな状況が現実に起こることなど、想像もしていませんでした。
わたしたちが居たのは食器の問屋街だったので、
食器が割れてしまったのか、お店は一瞬にして、軒並み閉店。
大きな揺れが収まった後も、ここから動いていいのか、
車に乗っても構わないのか、
もう、何がベストなのか分かりませんでした。
数日後、余震に怯えながらも、
意を決して高速道路に乗り、
山梨に戻ると、
今度は静岡・山梨の震度5強の地震に遭遇。
アトリエも被害に遭いました。
いつ襲ってくるのか分からない余震。
連日繰り返される、東北地方の被災地からの悲惨なニュース。
心が痛んで、悲しくて、怖くて、
もう、何を語っていいのかも分からなくなってしまいました。
自分も地震が怖いけれど、
いまこのときも、自分の比ではなく苦しんでいる方々がいる・・・。
何を言葉にするのも不謹慎に思えて・・・。
言葉を伝える仕事を今まで続けて来ながら、
それでも伝え続ける度胸が、自分には足りませんでした。
葛藤を抱えながら、ただ義援金の募金に協力したり、
被害に遭われた方にお見舞いを送る方法を考えたりする日々。
そして、自分たちもいつでも逃げ出せるよう、
夜中も全員ジャンパーを着たまま、家族で固まって居間で仮眠をとりました。
それからは、
仕事があった関係で、子どもたちを連れて沖縄へ。
沖縄の親戚、いままで沖縄でお世話になってきた所属事務所社長、
沖縄の友だち、みんなが口々に、
「これは、沖縄に帰って来いってことだよ」
「沖縄でまたアナウンサーをすればいいよ」
「空いている部屋があるから住んだら?」
「お帰りなさい!」
「ちょうど○○局が契約アナウンサーを募集しているよ」
と声を掛けてくれたのです。
ありがたくて、ありがたくて、涙が出そうでした。
こんな言葉をかけて頂けるとは、
思っていませんでした。
やむを得ない事情があったとはいえ、
4年弱で沖縄を離れることになってしまったわたしに、
こんなに温かい言葉を掛けてくださる方がいたなんて・・・。
「お帰り」と迎えてくれる人がいたなんて・・・。
沖縄を自分の故郷のように大切に思ってきた気持ちは、
少なくとも、この人たちの前では、
一方通行じゃなかった・・・。
北海道で見守ってくれたきた方からも
心配の声を頂きました。
東京で生まれ育ったわたしが、
不思議な縁で北海道・沖縄に住んで生きてきましたが、
それは、自分の故郷を、心の家族を、増やしてくれる
かけがえの無い時間だったのだと、
改めて気づかされました。
心に思うことは、「感謝」の一言しかありませんでした。
いまは山梨に家族の居場所があって、
北海道にも沖縄にも住むことはできないけれど・・・。
遠い土地から応援してくださっている、
見守ってくださっている
心の家族に、
喜んでもらえるように、
安心してもらえるように、
自分がみんなの
チアリーダーになれるように、
心を込めた言葉を紡いで生きていきます。
もっと、この人生の一瞬一瞬を大切に。
目の前のことを漫然と見ずに、
もっと全身で感じながら。
もっと愛を込めて生きようと思います。
「和顔愛語」
わたしがアナウンサーとしてずっと大切にしてきた言葉です。
この言葉の意味を、もっと骨身に刻んで語っていこうと思います。
意気地がなくて、
度胸がなくて、
こんなに時間がかかってしまったけれど・・・
震災で被害に遭われた方々に、
心の底からのお見舞いを申し上げます。
言葉にするのが遅くなってしまって本当にごめんなさい。
愛を込めて。
邑田みさき.