紀元前4600年前から3900年前まで ・・荻窪当たりまでが海だった

宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023)8月15日(火曜日)
        通巻第7863号

 

 

縄文以前」、岩宿遺跡の発見
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 関東ローム層が関東平野を蔽っていることは小学生の地理でもならう。これは火山灰層である。火山灰がふりかかり古代の地層を埋めた。
 火山帯である富士・箱根や赤城、榛名、浅間山などからマグマが噴出し、かなり広域に火山灰が堆積した。氷河期が終わりかけていた時代、とくに赤褐色の粘土質が含まれる。
 ということは海面が現代よりはるか内陸部に及んでいた。栃木県南部あたりまでが海だったのだ。五、六千年前、つまり縄文中期の頃、いまの東京湾は浦和あたりまでが海だった。対岸も千葉県市川市の当たりまでが海である。だから東京都北区の赤羽、中里、西ヶ原周辺では夥しい縄文時代の貝塚が発掘された。
『縄文海進』はいまから6000年から6500年前である。
 JR王子駅から上中里にかけて七社神社貝塚、御殿前遺跡と西ヶ原貝塚がある。田端駅の北側から中里にかけて、日本で最大の中里貝塚が発見され、おなじ場所から丸木舟も出土した。この時代に丸木舟で漁労ならびに運搬に当たっていたことが判明した。
土偶や、副葬品、そして人骨も発掘され、関東の縄文遺跡を代表するコレクションとなって、北区飛鳥山博物館に展示されている。飛鳥山公園の西ヶ原方向、渋沢栄一記念館のとなりにある。
貝の層が四メートル、その見本が展示されていて度肝を抜かれる。
 中里貝塚は紀元前4600年前から3900年前までの七百年間推定され、当時の荒川は広く荒々しく(だから荒川というのだろうが)、また中里の西方に武蔵野台地がつらなって、新宿、荻窪など、その先の南方は川が遮ぎり、多摩丘陵がみえる。荻窪当たりまでが海だった。多摩市から立川あたりまで縄文遺跡が散在していた。それゆえに山の手に次々と貝塚が発見されるわけだ。
 中里貝塚は、教科書でおそわった大森貝塚に比べると知名度が薄いが、巾百メートル、長さ五百メートルと日本最大級である。明治時代から知られていた。
 縄文人はここで貝をとって、殻を海に捨てていたため、貝塚は高く積み上げられて陸地となった。その量と付近の集落の規模から人口を推定すると、貝の収穫量があまりにも多い。余剰な海産物は加工して売りさばいていた。木枠の土杭が見つかり、明らかな水産加工場跡と確認された。
 貝を加工する専門職が縄文中期には存在し、ほかの物品と交易していたことが証明される。中里の遺跡は現在新幹線車両基地となって土中に埋まった。

 こうした古代の地形を改めて実感したのは浅草から特急「りょうもう」に乗って赤城へ「岩宿遺跡」を見に行ったときの車窓からだった。沿線の駅名が曳舟、堀切、梅島、そして新田と続く。このあたりまで船が行き来し、足立区あたりに島があったことになり、その先に新田開発がおこなわれたわけで、マンモスが大地を疾駆していた頃、草加市、越谷市あたりまで海だった。館林を過ぎると、こんどは多々良、縣など古い地名が続く。これらは鉄器時代の名称となる。
 岩宿遺跡の名前は知っていたが、実際に岩宿にある「縄文以前」の土器、石斧などは見たことがなかった。
 林房雄の『神武天皇実在論』と渡部昇一の『古事記の読み方』を持参していたが、車中、ページを開かず、ひたすら瞑想に耽った。「古代のロマン」というレトリックは月並みだろうが古代史の浪漫の夢が拡がるようだった。
 岩宿の発見まで「日本に旧石器時代はなかった」という説が学会を闊歩していた。それが定説だった。
氷河期が終わり、マンモスが曠野を走り、人間が狩りをして、マンモスの骨を組み立てた住居を造った。狩猟の技術の発展は旧石器、とりわけ石斧など尖った利器が工夫された。岩宿の発見は「縄文以前に文化が存在したことを科学的に証明した大発見」となった。
 縄文以前という時代区分は40000年前から15000年前と推定され、岩宿遺跡は戦後の昭和二十一年(1946年)に民間のマニアによって発見された。1950年に学術チームが本格的な発掘作業と学術調査の結果、実証されるにいたる。発見者は相沢忠洋という石器に少年時代から興味を抱き続けた納豆の行商を生業とする素人だった。
 岩宿遺跡の傍に建てられた岩宿博物館で、筆者は相沢忠洋が書いた回想録(『岩宿の発見』、講談社文庫)を購った。かえりの列車で夢中になって読んだ。じつに面白かった。
 相沢は鎌倉に生まれた。浄明寺の傍だったという。何かの偶然だろうか、私は学生時代に師事した林房雄の住まいは浄明寺の寺領の奧にあったので数十回は通った場所である。

 相沢は両親の離婚にともなって父親の桐生に移住する。貧困のため丁稚小僧に出され浅草に住んで夜間小学校、中学に通った。孤独な環境を支えたのが土器、石器への熱情的興味だった。
海軍に志願した。除隊後、桐生にもどり、闇商人、そして納豆売りの行商で生計を立てた。その傍らでめぼしい場所へいって、石器を捜し続けた。この人物の執念がなければ赤城の台地から縄文以前の文化は発見されなかったかも知れないのだ。
 相沢はこう書いた。
 「祖先の残した、人間文化の体臭が、未知の世界にひらかれている。(中略)その体臭を残した人間生活の跡である丘の上に立つとき、私の夢は広大なものとなってふくれあがった。私は、赤城の山麓にひろがる赤土中にひそむ祖先の体臭を夢中で追い求めはじめた」
 大発見の瞬間は以下の如し。
 「キャサリン台風から一週間ほどすぎた日、私は久々に商いをかねて、笠懸村稲荷山前の赤土の崖へ向かった。道々いたるところに無惨な爪痕がなまなましい。その上に何事もなかったかのように、秋の陽光がさんさんと照っていた。赤土の壁に近付くと、ところどころ断層状に小さく崩れ落ちている。私は、片側から、全神経を崖の断面へ向け、崩れ落ちたブロック状の赤土塊を注視していった。すると、まずくすれた赤土の割れ目に、一つの石剥片があるのを見つけた」
 日本に縄文以前の、旧石器時代があった証拠がでてきた。相沢の執念は報われ、群馬県功労賞、1967年には吉川英治賞を受賞した
       ★
               (拙著『神武天皇以前』(育鵬社)から抜粋・加筆)
宮崎正弘『神武天皇以前(縄文中期に天皇制の原型が誕生した)』(育鵬社)↓

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